法子は一人ではなかった。
「おじいさん」
と、席から立ち上って手を振る。
「突然やって来るなんて珍しいじゃないか」
と、松永はいやに陽気な声で言った。
「ごめんなさいね。忙しいんでしょ」
と、法子は言った。「あ、こんにちは」
大内の方へ挨《あい》拶《さつ》したのである。
「お仕事だったの?」
「そりゃ、ここは会社だからな」
と、松永は言って、腰をおろした。「おい、コーヒーをくれ」
「私が頼んで来ます」
ウェイトレスが近くにいないので、大内がすぐに、カウンターの方へと歩いて行った。
「全く、よく動く男だ」
と、松永は笑って言った。
「ね、おじいさん……。関谷君よ」
関谷征《まさ》人《と》が一緒だったのである。
「ああ、憶《おぼ》えてるとも」
松永は肯いて見せた。「あの小百合《さゆり》って子のボーイフレンドだろう?」
「うん……」
法子は、曖昧に言って「ちょっと、おじいさんにお願いがあって……」
「頼んで来ました」
大内が戻って来て、「あちらの席におります」
「ここにいて構わんぞ」
松永が言っても、大内はさっさと離れた席に行ってしまった。
「——あの子はどうしたんだ?」
と、松永は訊いた。「てっきり一緒に来たのかと思った。弁護士のことでな」
「ああ……。もう頼んでくれたの?」
「さっき電話をしたところだ。私の頼みなら、断らんさ」
法子は、小百合の祖父の弁護士のことなど、すっかり忘れていたのだ。それを承知で、松永は意地悪を言ってみたのだった。
「きっと小百合、喜ぶわ」
と、法子は言って、「——ね、おじいさん」
「君は、二十九日のパーティに、出てくれるんだろう?」
松永は法子の言葉が聞こえなかったふりをして、征人の方に向って言った。
「はい。あの……」
と、征人は少しおどおどしながら、「喜んで……」
「良かった。やっぱり、女の子は好きな男の子がそばにいると、元気が出るもんだ。あの小百合って子には、それが一番ききめのある〈療法〉だろう。なあ、法子」
「ええ。——そうね」
と、法子は肯いた。
つい、目を伏せてしまっている。コーヒーが来て、少しの間、三人とも黙ってしまった。
「——出がらしだ」
と、松永は一口飲んで、顔をしかめた。「それで、何だね。私に話っていうのは?」
「ね、おじいさん……。関谷君、来年大学なの。大学へ入ったら、ぜひどこかでアルバイトしたい、って。どこか、いいアルバイトを探してあげて」
「アルバイト? 大学へ通いながら、いつ働くんだね?」
「もちろん、休みの間です」
と、征人は言った。「ずいぶん先のことなんですけど、今から捜しておかないと、いい仕事は見付からない、って先輩から言われてて」
「なるほど」
と、松永は肯いた。「世の中も変ったもんだな。アルバイトにも就職運動か」
「おじいさん、色々な人、知ってるし、どこかあるわよね」
松永は、ちょっと肩をすくめた。
「そりゃ、その気になれば、一つでも二つでも見付けられるさ」
「お願い! すぐにっていうわけじゃないんだけど」
法子は、征人のために何かしたくてしかたがないのだ。何かしてあげて、感謝されたいのだ。
そのためなら、あまり感心したことでないと自分で思っていることでも、やってしまうのである……。
「分ったよ」
と、松永は言った「心がけておこう」
「ありがとう!」
法子は頬を上気させ、幸せそうだった。
「よろしくお願いします」
と、征人が頭を下げる。「じゃ、僕は帰るよ」
「あら、どうして?」
「だけど——」
「そうね。おじいさんの邪魔しちゃった。ごめんね」
「構わん」
と、首を振って、「いつでも邪魔しにおいで」
「じゃ、私も帰る。小百合、お家へ寄って、必要なものを取って来てるはずだわ」
「それじゃ……」
二人して、喫茶店を出て行く。出がけに、大内の方へ、法子は、
「失礼します」
と、声をかけて行った……。
大内はドキッとした。まさか法子が自分に声をかけて来るとは思わなかったのだ。返事をしない内に、法子は征人と二人で姿を消してしまっていた。
大内は、立ち上って、松永のいるテーブルへと移った。
「若い人は楽しそうですな」
大内の言葉も耳に入らない様子で、松永は何かじっと考え込んでいたが、やがてふっと我に返ると、
「ああ、悪かったな、来てもらって、放っておいてしまった」
「とんでもない。しかし、どうして私をこの席へ?」
松永は、自分のコーヒーをまた一口飲んで、顔をしかめた。まずかったことを、忘れていたらしい。
「いや……。お前の意見が聞きたかったのさ」
「私の?」
「あの二人だ。話は聞こえたろう?」
「はい」
「どう思う?」
「どう、といいますと……」
「恋人同士だと思うか」
大内は面食らった。しかし、どう見ても、松永は大真面目だ。
「まあ……。そうでしょうね、おそらく」
「俺もそう思う」
松永はため息をついた。「あんな子供が! 男か……。どうして子供はいつまでも子供でいないのかな」
「それは仕方ありません」
「ああ。しかし……俺は、堪えられん。大体法子には早すぎる。そう思うだろう」
反対しても仕方ない。気を変えるつもりはないのだ。
「そうですね」
と、大内は言った。
「そうだとも! あいつは子供だ!——それをあんなろくでもない男が、うまく騙《だま》してるんだ。見ればすぐに分る。俺はいやというほど人間を見て来た。人間の出《ヽ》来《ヽ》の良し悪しぐらい、一目で分る」
松永は、まくし立てるように言って、「あんな奴と法子を近付けておくわけにはいかん。そうだろう?」
「はあ。しかし——こういうことは、慎重に対処しませんと。反対は、却って火に油を注ぐことにもなります」
「そうか。いいことを言うな、お前は」
「恐れ入ります」
「ともかく、俺はあの子の親じゃない。しかし、親代りだ。あの子には責任がある。あの子を守ってやるんだ。当然のことだ。そうだろう?——あの子は、いつも汚れのないままでいるべきなんだ。それでこそ法子なんだ……」
大内は、ふと寒気を覚えた。松永の言葉は、いつしか独白に近いものになっていた。
「——しかし、松永さん。どうやって、二人を別れさせるんです?」
「二十九日が、いい機会になる」
「機会、といいますと……」
「できるだけ大勢人を集める。もちろんお前も来るんだ」
「もちろん、うかがいます」
「何か起っても不思議じゃない。そういう夜にはな」
松永の言い方は、どこか子供じみたもの——いたずらで、大人をびっくりさせるのを楽しみにしている子供のような、響きがあった……。
大内は、コーヒー代を払おうとして、松永に止められ、ごちそうになっておくことにして、一人でビルを出た。
何かに追われているような気分だ。
この町を出ようか。——不意に、そう思った。
いや、出るわけにはいかない。あの少女がいるのに、どうして出て行けようか。
しかし——大内は怖かったのだ。
怖い、などとは、全く皮肉な話だが、事実、そうなのだから、仕方がない。
何を恐れているんだ、俺は?
大内は、外へ出て、寒い風に当ると、少し落ちついた。確かに、今は取り乱し、怯えてさえいたのだ……。
ビルの方を振り返る。松永の言葉が、思い出された。
法子は汚れのないままでいなきゃならないんだ……。
何てことだ!——大内は自《ヽ》分《ヽ》と《ヽ》同《ヽ》じ《ヽ》言葉を聞いたのだった。あれは、俺の言葉だ。
松永に、一体何が起ったのだろう?
大内は歩き出した。別に用事があるわけではなかった。
ただ、自分を取り戻す必要があったのである。
二十九日のパーティで、松永は何《ヽ》を《ヽ》するつもりなのか。見当もつかない。
何が起ってもおかしくない、か……。
いやな気分だった。もし手近にコーヒーカップでもあったら、思い切り地面に叩きつけて、壊してやりたかった……。
小百合は、部屋の中を見回した。
一日、いなかっただけでも、家の中は冷え切って、まるで何年も人が住んでいない空家のように、荒れ果てて見えた。
またここへ帰って来られるだろうか? おじいさんと二人で、ここで暮せる日が来るだろうか……。
紙の手下げ袋は、結構重くなった。大して持つものはないだろうと思っていたのだが、そうでもなかった。
これでまた、何かあれば戻って来ればいい……。
表は、もう暗くなりかけていた。玄関を出て、小百合はギクリとした。
目の前に誰かが立っていたのだ。
「——君は、この家の人?」
声は、意外に若かった。
「ええ」
「君原というのか」
「君原ですけど……。あなたは?」
その若い男は警察手帳を見せた。小百合の顔がさっと朱に染った。
「私を逮捕するの?」
と、食ってかかるように言うと、
「いや、そうじゃない。君のおじいさんかな、君原耕治は」
「ええ、そうよ」
「そうか。——君は?」
「君原小百合」
「小百合君か。僕は佐《さ》川《がわ》というんだ。君のおじいさんを逮捕したのとは違う署に属している」
「そうですか」
小百合は少しホッとした。
「留守だったね。今、どこにいるの?」
「友だちの家です」
「そうか。——ちょっと話したいんだが」
佐川という若い刑事は、いやに沈んで見えた。
「いいですけど……。寒いですよ」
「じゃあ、何かその辺で食べようか。甘いものは好き?」
「大体は」
「僕も甘いものに目がない。行こう」
と、佐川は小百合を促した。
——二人は、おしるこのおいしい店に入って、三杯、食べた。小百合が一杯、佐川が二杯。
「今日は昼抜きでね」
と、佐川が言った。「林田さんって、僕の先輩がいる」
「林田さん?」
「うん。林田さんはね、君のおじいさんがこの事件の犯人じゃないと思ってたんだ」
小百合は、思わず座り直した。
「どうしてその人は——」
「まあ、逮捕した水口って刑事の方が無茶なんだ。ろくに証拠もない。自白すりゃいい、ってやり方だ。林田さんは、そういうやり方が大嫌いでね」
小百合は肯いた。
「——林田さんは、ある男に目をつけていたんだ。もちろん、そっちも証拠があったわけじゃないから、あくまで慎重に、身辺調査をしていたんだが」
「何か分ったんですか」
と、思わず小百合は身をのり出した。
「殺されたんだ。今日の午後ね」
佐川の言葉に、小百合はポカンとして、
「殺された……?」
「そう。刃物で一突き。——誰も犯人を見ていない。林田さんは一人だった。誰がやったのか、分らないんだ」
「じゃ——亡くなったんですか」
「そうさ。呆《あつ》気《け》なくね。まだ信じられないよ」
佐川が突然、大粒の涙をこぼした。
小百合はその思いがけない光景に、心を打たれて、身じろぎもせず、座っていた。