「会長」
と、秘書が言った。「お帰りをお待ちしていました」
若い男で、有能だが、時には気がききすぎて松永を疲れさせる。
「何か急ぎの用があったか」
松永は素気なく言って、会長の椅《い》子《す》に腰をおろした。
「大《おお》内《うち》という方がお待ちでした」
大内——。そうか!
「——うっかりしてた」
約束は一時間も前だ。松永は後悔した。
「もう帰ったのか」
「いえ、他《ほか》に回る所があるので、後でまたお寄りします、と」
大内らしい言い方だ。もちろん、そんなのはでたらめに決まっている。
長い間待っていた、ということで、松永に負担を感じさせないように、そう言ってどこかで時間を潰《つぶ》しているのだろう。
大内のような人間にとって、一時間や二時間、待つことは苦にならないはずだ。いや、少なくとも、苦にならないふ《ヽ》り《ヽ》をして見せるはずだ。
松永ほどの男なら、車のセールスマンを何時間待たせても、誰も驚くまい。しかし、松永は、相手が誰であっても、約束の時間を守ることにはこだわるのだ。
——ちゃんと時間を見はからいでもしたように、松永が席に戻って十分ほどすると、大内がやって来た。
「どうも申し訳ありません」
と、大内は松永が何も言わない内に、「他の用事を思い出しまして。急に片付けてしまおうとしたら、割合に手間取りましてね」
「いや、構わんよ」
と、松永は言った。「俺も今戻ったところだ」
「そうですか」
大内は、いかにもホッとした、という様子だ。——負けたな、と松永は思った。車一台には、この男は充分値する。
「決めたよ」
と、松永は言った。「一台買おう」
「そんなに簡単にお決めになってよろしいんですか?」
と、大内は目を丸くして、「でも——ありがとうございます」
松永は笑った。実際、大内はいつも会う度にいい気分にさせてくれる男なのである。
「車種は君のすすめるもんでいい。どうせ俺が運転するわけじゃない」
「かしこまりました」
大内は、アタッシェケースを開けて、手早くパンフレットを出し、車の説明を始めたが、松永はほとんど聞いていなかった。
「——後は適当にやっといてくれ」
と、松永は言った。「二十九日には家へ来てくれよ」
「お誕生日でございますね。もちろん伺《うかが》わせていただきます。プレゼントは何がよろしいでしょう」
「よせよせ。俺は何も欲しくない。むしろ、法《のり》子《こ》から何かを欲しがられたいと思っているんだ」
「法子さんといえば——」
と、大内が言いかける。
「何だ?」
「いえ……。四年前にもお会いしているはずなのに、お会いしてびっくりしました。すてきなレディになられて」
レディ。——肉体を感じさせない言い回しである。
「レディか」
と、松永は肯くと、「もうあいつも子供じゃない。その内、ボーイフレンドをゾロゾロ引き連れて来るさ」
苦いものが、こみ上げて来た。法子が一緒に笑っていたあの若者。関《せき》谷《や》といったか。
あの笑顔は、法子が決して祖父には見せたことのないものだった……。
「もういらっしゃるのでは?」
と、大内が言うと、松永はギクリとしたように顔を向けて、
「なぜだ?」
と、言った。
「いえ……一般的にです。十六歳ともなれば、ボーイフレンドぐらいは……」
「しかし、俺にちゃんと見せるべきだ。俺は親代りなんだからな。それも父親と母親と両方の役をやって来たんだ」
そう言いながら、松永はむやみに腹が立って来ていた。あいつ! あんな奴《やつ》が法子の心を奪うのか。
いや、もしかしたら……。もしかしたら、法子の体《ヽ》ま《ヽ》で《ヽ》奪うかもしれない。
その考えが松永の心臓をわしづかみにした。爪《つめ》が心臓の表面に食い込む痛みすら、松永には感じられた。
「——どうしました?」
大内が腰を浮かした。「お顔の色が——」
「いや……。大丈夫だ。何でもない」
と、松永は言った。
自分でも分っていた。顔から血の気がひいただろう。——落ちつけ! どうってことはないんだ。
「大丈夫ですか?」
大内が、身をのり出すようにしている。
「ああ……。心配しなくていい」
と、松永は首を振る。
「でも、まだ青いですよ、お顔が。お宅へ帰られては?」
「うん……。いや、何でもない」
松永は、しばらく目を閉じていた。
——閉じた瞼《まぶた》の裏に、光の点が動いていた。やがてそれは一つに集まって、ゆっくりと伸び始め、人の形になった。
法子……。浴室で見た法子の白い体が、松永の瞼に、消えがたい残像となって焼きつけられていた。
あまりにまぶしいものを見て、その残像がいつまでも消えないのと似ている。
法子。——お前の肌には誰も手を触れてはいけないのだ。誰《ヽ》も《ヽ》。
「——松永さん」
と、大内が言った。「もう、失礼しましょうか」
松永は目を開いた。
「いや、ここにいてくれ。話がある」
「私に、ですか」
松永は秘書を呼んだ。
「お呼びですか」
「しばらく、ここへ誰も入れるな。電話もつながなくていい」
「かしこまりました。ただ……」
と、秘書がためらう。
「何だ?」
「今、ちょうど下の受付から電話で」
「何だというんだ?」
「お孫さんがおみえということですが」
——松永は、秘書が少し戸惑うほどの間、沈黙していた。
「会長——」
「下の喫茶があるな。奥のテーブルを取っておけ」
「かしこまりました」
松永が立ち上ると、大内も立って、
「じゃ、今日はこれで」
と、アタッシェケースを閉じた。
「一緒に来てくれ。話はその後だ」
「しかし……」
「何か用事があるのか?」
「いえ、別に」
「じゃ、付き合え」
もちろん、大内はそれ以上逆らわなかった。
「——大分かかったわね」
と、神《かみ》山《やま》絹《きぬ》代《よ》が言った。
「すみません」
マチ子は、買って来たものを、台所のテーブルに並べた。「足りないものがあって。なかなか見付からなかったんです」
「いいわよ。充分間に合うわ」
絹代は手をタオルで拭《ふ》くと、「今日のお料理は、そう手間がかからないから」
二人して、冷蔵庫、冷凍庫へしまうものはしまい、マチ子は、
「ベッドを作って来ます」
と言って、出て行った。
絹代は、話し出すきっかけを失って、少しの間、突っ立っていた。
またにしようか? わざわざ追いかけて行って話すのもおかしなものだ。
いや……。そうじゃない。曖《あい》昧《まい》にしておいてすむことと、すまないことがある。
それに、絹代ははっきりけじめをつけるのを好むタイプだった。
絹代は、台所を出て、二階へ上って行った。
松永の寝室のドアが開いている。絹代は、マチ子がシーツを取り替えて、ピンとのばしているのを、ドアの枠にもたれて眺めていた。
肉付きのいい、マチ子の後ろ姿を眺めていると、ますます不思議な気がして来る。
どうして松永は、こんな色気のかけらもないような娘に手を出したのだろう?
マチ子は、ずっと絹代に背中を向けていたが、やがて、手を休めずに、突然、
「何かご用ですか」
と、言った。
絹代はハッとして、頬《ほお》を赤らめた。自分が馬鹿にされたような気がした。
「手伝いましょうか」
と、絹代は言った。
「どうしてですか」
マチ子は、のっぺりした口調で、「いつも一人でやっています」
「ええ、それはそうね……」
絹代は、ちょっと、咳《せき》払《ばら》いをした。マチ子は、シーツをきちんとすると、体を起こして、絹代の方を向いた。
「何かお話でもあるんですか」
「ええ、そうなのよ」
絹代は、軽く息をついて、「二十九日はパーティだわ。前から、かなりの仕事になると思う。外に頼めるものは頼むけど、あなたも忙しくなると思うわ」
「はい」
「うまくやりましょう。旦《だん》那《な》様の四年に一度のお誕生日だから」
と、絹代は言って、「それに、あなたにはその日に辞めてほしいの」
絹代は、それを聞いてもマチ子が全く表情一つ変えないので、戸惑った。
さぞ青くなって、食ってかかって来るか、泣き出すかするだろうと思ったのだ。
しかし、マチ子は、ちょっと眉《まゆ》を上げただけで、何も言わなかったのである。
聞こえなかったのだろうか? そんなはずはない。それなら訊き返して来るだろう。
マチ子が、絹代の話を予期していたはずはなかった。絹代はそれらしいことを、口にしていない。すると——。
「旦那様から、お話があったの?」
と、絹代は訊いた。
そうとしか思えない。しかし、マチ子は首を振って、
「いいえ」
と、言った。
「そう。——ともかく、今月一杯で辞めてちょうだい。短くて、悪いけど」
マチ子は表情一つ変えなかった。そして、
「私を雇ってらっしゃるのは、旦那様ですから」
と、言った。「旦那様がそうおっしゃられたら、辞めます」
絹代は、マチ子がこんな風に出て来るとは思ってもいなかった。
「私はね、下働きの子のことは任されているのよ」
「でも、お給料は旦那様のお金です。絹代さんからいただいてるわけじゃありませんから。それに——」
マチ子は、はっきりと挑むような目で絹代を見た。「辞める理由がありません」
絹代は顔をこわばらせた。
今まで、ただ黙って働く他に取り柄のない、おとなしいだけの女の子だと思っていた。——だが、今、マチ子は全く別人のように、絹代の前に立ちはだかっていたのだ……。
「——理由がない?」
絹代は、つい声が高くなるのを、押え切れなかった。「分ってるでしょう、自分で。わざわざ私が言わなくたって」
「分ってます」
と、マチ子は言った。「でも、あれは旦那様のなさったことです。それでどうして私が辞めるんですか」
「どういう口のきき方よ!」
と、絹代は思わず怒鳴った。
しかし、こんな娘を相手に、本気で怒っても仕方ない。絹代は必死で冷静さを装った。
「家の中でね、ああいうことがあると、お嬢様にも良くないの。分るでしょ?」
マチ子は、ちょっと目を見開いた。そして——笑った。笑ったのだ。
「何がおかしいの?」
「相手が私なら、お嬢様に悪くて、絹代さんなら構わないんですか」
マチ子が知っているとは思ってもいなかった絹代は、不意をつかれて、動揺した。
「あなたは子供よ!」
「子供じゃありません。——少なくとも、今《ヽ》は《ヽ》」
と、マチ子は言い返した。「私と絹代さんと、二人が一緒にいるのは、何かと良くないかもしれません。でも、どっちが辞めるか、決めるのは、旦那様だと思います」
「旦那様があんたのような娘を、本気で相手にしてらっしゃると思うの?」
「旦那様は、私に借《ヽ》り《ヽ》があります」
「何ですって?」
「借りがあるんです」
と、マチ子はくり返した。「絹代さんにはお分りになりません」
「何のことなの?」
「ともかく——」
と、マチ子は息をついて、「今はよろしいんじゃありませんか。二十九日のお誕生日までは、うまくやって行くしかないと思いますけど」
絹代は、すっかりマチ子のペースにはめられてしまっていた。
「——私、法子様のベッドを直します」
そう言って、マチ子は絹代のわきをすり抜けて出て行った。絹代は、ただ呆《ぼう》然《ぜん》として、立ちすくんでいた……。