「ユ、ユーカイですか?」
と、吉野は、しばらくポカンとしてから、言った。「ユーカイというと……誘うという字と……それから何ていうんでしょう、『誘拐』の『拐』という字を書く……」
何だか大分混乱している。
「そう。要するにさらわれたのさ」
と僕は言った。
「そ、それは大変です! すぐに一一〇番を——」
「待った! いいか、吉野、落ち着いてよく聞いてくれ」
僕は、電話へ駆け寄ろうとする吉野をあわてて押し止め、ソファに座らせた。
「社長! 犯人の身代金の要求は?」
「それはこれからだ」
「ではすぐに電話にテープをしかけて——」
「あわてなくてもいい」
「ですが……いつ頃ですか、さらわれたのは?」
「それもこれからだ」
「なるほど。では早速手を打って——」
と言いかけ、「今……何とおっしゃいました?」
と訊き返して来た。
「まあ落ち着け。吉野、君は僕のためによく働いてくれている」
「恐れ入ります」
「実際、美奈子やその家族の用にまでかり出されて、たまったもんじゃなかろう」
「はあ。——いえ、決してそんな——」
「いいから聞け。——実は君に頼みがあるんだ」
いつしか、僕は吉野を「お前」でなく、「君」と呼んでいた。
「どうぞ何なりと」
「美奈子を誘拐してもらいたい」
「さようですか。では早速重役会にはかって——」
「聞いてるのか?」
「ゆ、誘拐? 私がですか?」
吉野は目を丸くしてひっくり返りそうになった。
「実はね、美奈子は家を出てしまったんだ」
僕はため息をついてみせた。
「どちらへ行かれたんですか」
「それが分りゃ苦労はない」
「はあ……」
「男と二人で出たんだ」
「すると……ダンスパーティにでも?」
僕はジロッと吉野をにらんだ。
「鈍《にぶ》いやつだな! 恋人ができて駆け落ちしたんだ」
「駆け落ち! 奥様が? 誰とですか?」
「分らない。しかし前から気付いてはいたんだ」
僕はメロドラマの主人公よろしく、深刻な顔で肯いてみせた。「相手が誰かなんて、調べさせたりすりゃ、こっちが惨《みじ》めなだけだからね」
「ごもっともです」
「ともかく美奈子は出て行ってしまったんだ……」
僕は思い入れたっぷりに言った。この分なら、その内映画界に誘《さそ》われるかもしれない、なんて思いも頭をかすめた。
「そこで君に相談なんだよ」
「はあ……」
「僕としても、妻が他の男と逃げたなんてことは知られたくない。分るだろう? たちまち社内で評判になって、出社しても、みんなが僕の方を見て忍《しの》び笑いをしたり、そっと囁き合ったりする。——そんな目にあうのはごめんだよ」
「分ります」
と、吉野は熱心に肯く。
この単《たん》細《さい》胞《ぼう》が! 僕は続けて、
「だから、一つ、美奈子が何者かに誘拐されたという狂《きよう》言《げん》をやろうというんだ。それならみんな僕に同情こそすれ、馬鹿にしたりはしない」
「なるほど」
「その役を君に頼みたい」
「わ、私がですか?」
「何も心配はいらない。実際には美奈子はどこかの男と二人で旅の空だろう。君はただ誘拐犯のふ《ヽ》り《ヽ》をして、脅《きよう》迫《はく》電話をかけてよこせばいい」
「すると……身代金の要求でも?」
「そうとも。でなきゃ脅迫にならないじゃないか」
「それもそうですね」
「いいか」
僕は、吉野の肩へ手を置いた。「こういう段取りにしたい。——僕はこのところ美奈子とは寝室を別にしていた」
「それは感心しません。離《り》婚《こん》の噂《うわさ》はたいていそういうところから広まります」
「本当のことじゃない! 話の上でだ。つまり、君から美奈子の父親が死んだという知らせを聞いて、彼女を起こしに行ってみると、彼女の姿がない。探してみたが、どこにもいない」
「私も捜しましょうか?」
と立ち上りかける。
「話の上でだ!——座って。そこへ君が来る。そのとき犯人から、美奈子を誘拐したという第一の電話が入る。君は急いで警察へ連絡する」
「私が私に電話をかけるんですか?」
「第一の電話なんて、僕の話だけでいい。問題は昼頃にかかる第二の電話だ」
「それが私のかけるやつで——」
「そう。君は、美奈子の父の葬《そう》儀《ぎ》の手配があるから、と、昼前にここを出ろ。そしてどこか外からここへ、声を変えて脅迫電話をかけるんだ」
「そう簡単に声が変りますか?」
「ハンカチで送話口をくるむかどうかすりゃいいさ。あんまり長く話すな。逆探知されるぞ」
「はあ。——で、どう脅迫すりゃいいんでしょう?」
「好きでいいさ。別に本当に身代金を払うわけじゃないんだ。誘拐が事実と思わせればそれでいいんだからな」
「じゃ、場所、時間は適当に」
「うん、任せる」
「お値段の方はいかほどにしておきましょうか?」
お中元の買物か何かと間《ま》違《ちが》えているらしい。
「好きにしろよ」
「では……三十万円では?」
「おい! 身代金が三十万? 月給を決めるのとは違うんだぞ。せめて三千万ぐらいはいえよ」
「ではいっそ三億円とか」
「それじゃ多い。——一応五千万ということにしておこう」
「はあ、五千万ですね。税込みですか、それとも手取りで?」
生《き》真《ま》面《じ》目《め》な人間も困りものだ。
「——しかし、社長」
一通り打ち合せを終ったところで、吉野が言った。「そうやって……でも実際は奥様はどこかに旅をしておられるんでしょう?」
「それともホテルにいるか。その辺は分らないよ」
「ニュースを聞いたらびっくりなさるでしょう」
「誘拐事件は報道しないよ。それにびっくりしたって一向に構わないさ。向こうが弱い立場だからな」
「ははあ。しかし、身代金を持って行く、真似ぐらいしなきゃならないでしょう。それでも犯人が現れなくて、それきり連絡もないというのはおかしくありませんか?」
「誘拐犯人が何を考えるかなんて、こっちには分りゃしないさ。警察が首をひねっても、別にこっちが説明してやる必要はないんだからな」
「なるほど」
「分ったか?」
「よく分りません」
僕は、やや絶望的な気分になったが、そこは何とか自らを励《はげ》まして、
「よし! ともかく警察へ電話だ!」
と力強く——正確に言うとやけっぱち気味にだが——言った。
「ご心配ですね」
と、その男は僕に心から同情を寄せてくれているらしかった。
「恐れ入ります」
僕は、妻を誘拐されている夫としてふさわしく見えるように、ヒゲも当らず、多少、憔《しよう》悴《すい》した顔で言った。
「私は添《そえ》田《だ》といいます」
刑《けい》事《じ》にしては愛想のいい男だった。いや、僕だって、そう刑事に知り合いはないから、人相の悪い、無愛想な刑事は、小説やTVの中のもので、実際には、みんなこの程度は愛想がいいのかもしれない。
添田という刑事、年《ねん》齢《れい》は四十そこそこであろう。きちんとした身なりで、刑事イコール貧《びん》乏《ぼう》くさいというイメージとは無《む》縁《えん》であった。
「犯人は、昼過ぎにまた電話すると言ったのですね?」
「ええ。警察へ知らせると命がない、とも。でも……やはりこれは市民の義務ですから」
「信《しん》頼《らい》を裏切らないように努力しますよ」
と添田刑事は肯いた。
居間は大変だった。刑事たちが、電話にテープレコーダーを取り付けたりする仕事にかかっていた。
「おい、まだか?」
と添田刑事が声をかける。
「もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。いつかかって来ても、テープに取れますよ」
「OK。では待ちましょう」
「何もお構いできなくて申し訳ありません」
と僕は言った。「何しろ、使用人がみんな休みを取っているものですから」
「いや、どうぞご心配なく」
と添田刑事はソファに腰をおろした。
「——社長」
と、吉野が声をかけて来た。
「ああ、君はもうあっちへ行ってくれないか。僕と美奈子のことは、病気とか何とか、巧く話してくれ」
「かしこまりました」
吉野は馬鹿丁寧に頭を下げて、出て行った。
「——奥さんも不運ですね。お父さんをなくされた上に……」
「全くです」
「誰かお心当りはありませんか。最近この辺をうろついていたとか……」
「さあ。僕は何も気付きませんでしたが……」
「個人的に奥さんやあなたを恨《うら》んでいる人はありませんか?」
「まあ社長業なんて、多少は人に恨まれるものですよ」
と僕は肩をすくめて見せた。「家内はどうでしょうか……。ともかく、誰からも愛される性格で、家内を恨むなんて人間は、よほど狂《くる》ってるとしか思えません」
いかに演技とはいえ、ここまで言うのは、容易なことではなかった。やはり僕は根が正直なのだろう。
その後、添田刑事は、僕に美奈子のことをあれこれと訊いた。細かいことばかりで、大して重要でもないようなことだったが、せっせとまめにメモしている。
よほど暇なのか、それとも電話を待つ緊《きん》張《ちよう》を少しでも和らげるためだったのかもしれない。
吉野が出て行って三十分が過ぎた。
「もうお昼ですな」
と添田刑事が言ったとたん、電話が鳴った。居間にいた刑事たちが一《いつ》斉《せい》に色めき立つ。
「——落ち着いてしゃべって下さいよ」
と、添田刑事は言った。「——さ、どうぞ」
僕はそっと受話器を上げた。
「もしもし」
と、僕が言った。
「池沢さんだね」
低い男の声。びっくりした。吉野の奴、やるじゃないか!
「そうだ」
「奥さんは預かってるぜ」
「要求を言え」
相手が低く笑う。その声は正に、誘拐犯らしい、不気味なものだった。
こいつはアカデミー賞ものだ。
「金を用意しろ」
「今日は土曜日で、もう銀行は——」
「分ってるさ。こっちは急がねえ。月曜日に一億円、揃えてもらおう」
「一億?」
吉野の奴、話が違うぞ! 仕方ない。こっちが合せる他はないのだ。
「分ったよ」
「その先はそれからだ。また夕方に電話するぜ」
電話は切れた。
「だめだな」
と添田刑事は首を振った。「時間が短くて逆探知は無理です」
僕は、受話器を戻して考え込んだ。今のは、本当に吉野の声だろうか……。