僕の受けたショックは、しかし、さして大きなものではなかった。
一つには、大分慣れて来た、というせいもある。金曜、土曜の二日間で、こうも死体に振り回されていると、少々のことでは応《こた》えない。
もう一つは、織田が、およそその死を惜《お》しみたくなるような人間ではなかったせいである。僕のような平《へい》凡《ぼん》、善良な市民が妻を殺すというのはまだ許せる(自分のことだからだが)としても、刑事が人をゆすったりというのは、許されることではない。
ここは一つ、織田を成敗したのだと——言っても警察は納得しないだろうな、やはり。
「これ……君がやったの?」
「ええ。でも、殺す気じゃなかったのよ」
と、祐子はベッドに起き上って言った。
裸《はだか》の上半身がうす暗い部屋の中に光って、僕は呑《のん》気《き》にそれに見とれたりした。
「差し当りは、織田と交渉して、向うの言い値と折り合いをつけるつもりだったの」
「う、うん、そうだったね」
「ところが話をする内に……織田がこの部屋へ私を連れて来たのよ」
「どうして?」
「何だか……下にいると、いつ池山が帰るかもしれないとか言って。それに吉野さんがそばにいたせいもあるわね」
と祐子は言った。「ともかく——この部屋へ入ったの。すると——突《とつ》然《ぜん》、織田が私に襲《おそ》いかかって来たのよ」
「な、何だって?」
僕は思わず訊き返していた。
「抵《てい》抗《こう》すると、私の過去をばらすと言って、ここで私を力ずくで犯そうとしたのよ」
祐子は毛布で身を包んで、身《み》震《ぶる》いすると、「私、一度でも、他の男に汚《けが》された体であなたに抱かれるなんて、堪《た》えられなかったの。だから、必死に抵抗したわ。そして……気が付くと、織田を刺《さ》し殺していたのよ。でも——これだけは信じてね、私、あなたのために、織田を殺したのよ!」
祐子がすすり泣く。僕は感極まって、祐子に駆《か》け寄り、その体を抱きしめた。
「分った。——分ったよ。君の責任じゃない。それは正当防衛というもんだよ」
「ありがとう、分ってくれて!」
祐子はもう一度僕にキスした。
「じゃ、一つ、下の刑事たちを呼んで来ようか」
「どうするの?」
「この織田の死体を片付けてもらうのさ」
「何ですって?」
と、祐子は目を丸くした。
僕は、何かまずいことを言ったのかしら、と不安になった。
「いや……だって、織田を殺したのは正当防衛だよ。だから、刑事にも良く説明すれば、ちゃんと——」
「だめよ、そんな!」
と、祐子は遮った。
「どうして?」
「警官を殺したりしたら、それこそどんな正当な理由があったって有罪に決ってるじゃないの」
「そ、そうかね」
「そうよ。じゃ、あなたは私が手《て》錠《じよう》をかけられて連行されて行っても構わないって言うのね?」
祐子が、じっと涙《なみだ》のうるんだ目でこっちを見つめる。僕はあわてて言った。
「そんなこと、僕がさせるもんか!」
「ありがとう! きっとそう言ってくれると思ってたわ!」
また僕らはひ《ヽ》し《ヽ》と抱き合った。あんまり映画っぽいというか、芝居がかった感じもして、ちょっと気《き》恥《は》ずかしかったが、しかし、人生、たまにはドラマチックになるのもいいもんじゃないか。
「で、この男を刺したナイフは?」
と、僕は訊いた。
「え?——ああ、そうね、どうしたのかしら、私」
と祐子は口に手を当てた。その仕草が、また可愛い。
「もう夢《む》中《ちゆう》になっていて……忘れちゃったわ、ごめんなさい」
と祐子はしょげ返った。
「いや、当り前だよ、それが。——でも、どこかに落ちていて見付かったりするとまずいんじゃないかな。殺したのはここなんだろ? じゃ、きっとどこかにあるよ」
「私が捜して見付けるわ。私に任せて」
「そうしてくれる?」
僕は内心ホッとしていたのだ。何しろ物を失くす名人で、かつ見付けられない天才なのだから。
「いっそ、ナイフが残ってて、死体の方がどこかへ行ってくれるとありがたいのにな」
「そんな——無理よ」
と、言って、祐子は笑い出してしまった。
これで、二人の間の、深刻な気分は一度に吹っ飛んだ。僕のユーモアのセンスもなかなかのものだ。
「ともかく、この死体をどうするか考えなきゃね」
と僕は言った。
「ここに置いといちゃまずいわ。だって、添田って人が、織田を捜して、この家の中を調べ回るかもしれないし」
「そうだね。でもどこか、置いとく所はあるかい?」
「あの浮浪者の死体もあるしね」
「そうか! つい忘れてた。二つも二階にあるんだ。——どうしよう?」
「表よ」
と祐子は言った。
「表? 地下じゃまずいの?」
「地下は危ないわ。ただ誘拐事件だけならともかく、刑事が行方不明ということになれば、地下室も調べてみようとするかもしれないわ。——奥《おく》さんの死体も運び出す必要があるわ」
僕はウンザリした。
地下へ死体を持って行くのは難しくない。足を引っ張って、引きずって行きゃいいのだから。しかし、かつぎ上げるというのは……考えただけで息切れがして来る。
「でも、死体がこれで三つだよ。表へ持って行って、どこへ隠《かく》すのさ」
「すぐ裏は林じゃないの。あの中へ埋《う》めるのよ」
「埋めるには穴を掘《ほ》らなきゃいけないよ」
と僕は言った。かなり、情けない顔をしていたのだろう。
「私のために、頑《がん》張《ば》って! 巧《うま》く行けば、私たち、ずっと一《いつ》緒《しよ》に暮らせるのよ!」
と、祐子が励《はげ》ましてくれる。
僕は体中に力が漲《みなぎ》って来るのを感じた。
「よし、やるぞ! 何ならもう一つぐらい死体が増えたっていい!」
心にもないことを言ったもんだ。
そのとき、
「あの——すみません」
と、ドアの外で男の声がした。
僕も祐子もあわてて服を着た。
「落ち着いて!」
と祐子が低い声で言った。「あれは池山って刑事よ」
「ああ、あのドライブ・インの女の子と車の中で——」
「そう。ほら、向うのドアを叩いてるわ。——あなた、ここにいて。私が相手するから」
「君が?」
「私に任せて」
これが出ると僕はもうすっかり安心してしまうのである。
僕がドアの横に身を寄せていると、祐子がドアを開けて出て行った。
「あら、刑事さん」
「やあ、あなたは……」
「早川祐子です」
「そうでしたね。池沢さんは眠ってるんですかね」
「お疲《つか》れなんですわ。奥様のことをご心配になって、昨夜は一《いつ》睡《すい》もなさってないんですもの。——できれば、そっとしておいてあげて下さい。私でよろしければ、ご用をうかがいますけど……」
そう言って、祐子は、池山刑事を促《うなが》して下へ降りて行った。大したもんだ。祐子にかかると、どの男も彼女の思いのままに動かされてしまう。
あの祐子が僕一人のものなのだから、僕という人間は正に世界一の幸せ者と言う他はない。——さて、その祐子のためにも、頑張って穴を掘らなきゃならない。
ところで我が家にシャベル、スコップの類があったかしら? スプーンならあるが、いくら大きくてもスープ用のスプーンで、人間三人を埋める穴を掘るのは容易ではあるまい。
そういえば地下室にあったかしら? ともかく捜してみよう。
しかし、今降りて行くのはまずい。祐子がまだあの池山刑事と話をしているに違いない。戻って来るのを待っていよう。
ともかく、一旦織田の死体を洋服ダンスへ戻して扉を閉めておくと、僕は洗面所へ入って、手を洗った。
「——ん?」
変だな、と思った。どうも排《はい》水《すい》口《ぐち》がつまって、水が流れて行かないのだ。石《せつ》鹸《けん》でも入っちゃったのかな。
指を入れてみると何か、固い物が触れる。二本の指でつまんで持ち上げてみると、ナイフが出て来た。
「こんな所にあったのか」
と僕は呟いた。
これは実に珍しい出来事である。僕が何かを発見したのだ!
そうだ。これは隠しておいて、後で祐子をびっくりさせてやろう。僕はそのナイフを洗面台の小物入れにしまっておいた。
「——どこなの?」
ドアが開いて、祐子の声がした。
「やあ、ここだよ。——ちょっと手を洗ってたんだ」
「下は大丈夫よ」
「あの池山って刑事は?」
「眠ってるわ」
「君は催《さい》眠《みん》術《じゆつ》でもやるのかい?」
「睡《すい》眠《みん》薬《やく》よ。薬を入れたジュースを飲ませたの」
「奴の話は何だったんだい?」
「やっぱり織田のことよ。多少責任を感じてるんじゃない? あなたが何か知らないかと思って、話がしたかったんですって」
「で、君、何て言ったの?」
「何も言わないで薬を飲ませたのよ」
と祐子は微《ほほ》笑《え》んだ。「——さ、今がチャンスよ。みんなぐっすり眠ってるわ」
「よし。ともかく一度地下室へ行って、穴を掘る道具があるかどうか、捜してみよう」
「私も行くわ。——織田の死体は?」
「洋服ダンスに戻したよ」
僕はナイフのことを話そうかと思ったが、すぐにしゃべってしまうのももったいない気がして、黙っていた。
「でも、いつ誰が目を覚ますかもしれないわ。足音をたてないでね」
と、祐子は言った。
二人して、そっと一階へ降りて行く。居間を覗いてみると、みんないい気分で眠りこけている。
これで誘拐犯を捕《つか》まえられるのだろうか?——僕はいささか心配になって来た。
「大丈夫だわ。地下へ行きましょう」
と祐子が囁く。
地下への階段を降りて行くと、やはり多少気が重くなった。かなり楽天家の僕であるが、死体との対面は、あまり嬉しいものではない。
その点、女性の方が気が大きいのは事実のようで、
「早くやらなきゃ」
と、祐子がさっさとドアを開け、明りをつけた。「——あら。どうしたの、あなた?」
「え? 何が?」
と僕は訊いた。
「ここにあった奥さんの死体、どこへやったの?」
僕も呑気ではあるが、さすがにびっくりして中を覗き込んだ。——美奈子の死体は、影も形もなかったのである。