「妙だな」
添田刑事も、困り果てた様子で頭を振った。
もっとも困り果てているにしては、夕食にと取った特上の幕の内弁当を、犬や猫《ねこ》でも腹を立てるだろうと思うくらい、きれいに平らげていたが。
家にじっとしているというのも、意外に腹が空《す》くものなのである。もちろん外で動いていても腹は空くし、家で動いていても、外でじっとしていても——結局、時間がたてば腹は空くのだ。そうでなければ、食堂は倒《とう》産《さん》してしまうに違いない。
何の話だ?——ああ、そうだった。
添田刑事としては頭が痛いのも当然で、何しろ美奈子の誘拐犯の手がかりは全くつかめておらず、そこへ持って来て、部下の刑事の一人が行方《ゆくえ》不明になっているのだ。
確かに同情すべき余地はある。しかし、幕の内弁当——四千円もしたのだ!——を全部食べてしまったのは、その同情を半減させてしまったと言っていいだろう。
「おい」
と、添田は、池山という若い刑事を呼んだ。
「はい、何か?」
「もう一度訊くぞ。織田は確かに、お前にコーヒーを買いに行けと言ったんだな?」
「そうです」
「もしかして紅茶を買って来いと言わなかったのか?」
「いいえ、コーヒーでした」
「コーラじゃなかったのか?」
「コーヒーに間《ま》違《ちが》いありません」
他人の話に口を出すのは僕の趣味ではないのだが、このときばかりはちょっと咳《せき》払《ばら》いをして、
「あの、添田さん」
と言った。「余計な差し出口かもしれませんが、コーヒーか紅茶かコーラかで、何か話は変って来るんでしょうか?」
「私は、織田の記《き》憶《おく》をチェックしているのです」
「なるほど」
ベテラン刑事ともなると、考えることがやはり凡《ぼん》人《じん》とは少々違うようである。
「それで、お前はドライブ・インへ行った」
「そうです」
「戻って来たのは一時間後だと言ったな」
「はい」
「ドライブ・インまで車でどれくらいだ?」
「五分か十分でしょう」
添田は、ちょっと得意げに、
「それなのに、コーヒーを買って帰って来たのが一時間後だと? そんなにかかるはずがあるか!」
「はあ……」
池山という若い刑事は、ちょっと後ろめたいという表情で頭をかいている。
「そんなに長い間、お前は何をやってたんだ?」
と添田はぐっと身を乗り出した。「隠すとためにならんぞ!」
これじゃまるで犯人扱いだ。
「あの——ちょっと息《いき》抜《ぬ》きをしていたのですが」
「息抜きだと? それ以上抜いてどうするんだ?」
「ですが——織田さんと二人でいると疲れるんです。色々口やかましい人なんで」
そうだ、そうだ、全くだ、と僕は内心、池山刑事に拍《はく》手《しゆ》を送った。
「先《せん》輩《ぱい》のことを口やかましいとは何だ!」
「すみません」
「その息抜きというのは?」
「はあ……車の中で寝ていたんです」
「車の中で?」
「そうです」
「どれくらい寝ていたんだ?」
「三十分ぐらいだと思います」
「それはコーヒーを買う前か後か?」
「後です」
「コーヒーが冷《さ》めるとは思わなかったのか?」
「まあ、戻ってから温め直せばいいやと思いまして」
「何ということだ!」
と添田はやたら腹を立てて、「そういう安易な考えが失敗のもとだ。温め直したコーヒーなどまずくて飲めるものか!」
「もともと大して旨《うま》くありませんから」
「まずいと分っていて、お前は買ったのか? 警察官としての良心はどこへ行ったのだ?」
警察官としての常識はどこへ行ったのだろう、と僕は思った。
「——ともかく一時間後に戻ったとき、織田の姿はなかったのだな」
「そうです」
「捜さなかったのか?」
「トイレにでも行ってるんだろうと思って、気にしなかったんです」
「それで、お前はどうした?」
「そのソファに座って——」
と、池山刑事は言い渋った。
「座ってどうした?」
「はあ。——眠っておりました」
「眠っただと? 誘拐犯からの電話を待っている刑事が居《い》眠《ねむ》りなどするとは、何たることだ!」
「申し訳ありません。でも、ウトウトしていただけですから——」
「大体、その前に車の中で眠って来たんだろう。そのくせまだ寝足りなかったのか?」
「いえ、車の中では、寝たのでして、眠ったのではありません」
「つまり……横になっていただけなのか?」
「まあ……上になったり下になったり」
「上や下?——車のか?」
「いえ、ドライブ・インの女の子です。コーヒーを買うとき、ちょっと話をしたら、えらく気が合いまして、向うもちょうど休み時間だというので、車に乗せて、ちょっとわき道へ入って、三十分ほど……」
添田刑事は、怒《おこ》るのも忘れて、ポカンとしていた。僕はおかしくて吹き出したくなったが、妻を誘拐されている夫としては、笑うのはまずいと思い、必死にこらえた。
これでなかなか、犯罪者というのも、疲れる役回りなのである。
「——全く面目ありません」
疲れ切った様子で池山刑事を行かせると、添田は、僕に頭を下げた。「あんな奴をお宅に置いていくとは……。私の不明でした」
「いや、若い方は仕方ありませんよ」
僕は、笑って気持の広いところを見せた。「刑事も人間ですからね」
「そうおっしゃっていただくと、却って心苦しくなります」
「しかし、もう一人の方はどこへ行かれたんでしょうねえ?」
「全く奇《き》妙《みよう》です。あの織田こそ、実直な刑事の手本のような男なのです」
冗談じゃない! こっちの弱味につけ込んで金をゆすり取ろうとするのが、「実直な刑事」だって?
しかし、そうも言えないので、
「まあ、何か急用でもできたんじゃないですか」
と言った。
「あなたはお休みになってたわけですね、その間」
「ええ、前の日からあまり眠っていないものですから、すっかり疲れてしまって。——妻が誘拐されているというのに、冷たい奴だと思われるかもしれませんが」
「とんでもない! あなたの態度は、夫として、実に立派なものですよ」
「恐れ入ります」
僕はいささか芝《しば》居《い》じみたゼスチャー入りで礼を言った。「起きて来たのは、例の犯人からの脅《きよう》迫《はく》電話があったときです」
「するとその間、起きておられたのは——」
「私と吉野さんです」
と、祐子が、お茶を出しながら言った。
「でも、ここにはいませんでしたから、あの刑事さんがいつ、ここから出て行かれたのか、気が付きませんでした」
「そうですか……」
添田は心配そうに言った。「しかし、織田の奴、どこへ行ったのか……」
「何かこの、心配する理由があるんですか?」
と僕は訊いてみた。
「実はこの間、織田に一万円貸してあるのですよ。踏《ふ》み倒《たお》されてはかなわないと思いまして——」
この刑事、どこまで本気なのか、よく分らない。
「それなら、社長の奥様のことを心配するべきじゃありません?」
さすが祐子だ。穏《おだ》やかな表現ではあったがピシリと言ってやった。
「いや、これは恐《おそ》れ入りました。全くその通りです。もちろん、我々としても、人質の奥さんのことを何よりも心配しておりまして、今後とも前向きに鋭《えい》意《い》努力したいと——」
国会での首相答弁みたいになって来た。
夜もふけた。
では寝るか。——と思ったが、それでは話が進まないので、僕はしばらく起きていることにした。
十一時を過ぎると、刑事たちも交《こう》替《たい》で眠ることになり、祐子が毛布を持って来て、刑事たちに配った。ついでに吉野にも毛布を渡した。
要するに、お前はこの居間で寝ろ、ということである。
「——池沢さん、どうぞおやすみになって下さい。ここは我々が引き受けます」
と添田刑事が言った。
「しかし、僕の妻のために、皆さんが起きていらっしゃるのに、僕が一人で寝てしまうというのは、申し訳が——」
「いやいや、これは我々の仕事ですから」
「そうですか、では、お言葉に甘《あま》えさせていただいて……」
あんまり早く、じゃおやすみ、とやっては疑われるかもしれないと思ったが、何しろ、ここへ来て、また眠気がさして来て、ダウン寸前だったので、意地を張らずに、添田の言葉に従うことにした。
僕は、居間を出ようとして、祐子の方をチラッと見た。祐子も僕の方を見て、ちょっと肯いて見せる。
それが何の意味なのか、歯をみがいたか、という問いかけか、それとも単におやすみなさいという挨《あい》拶《さつ》なのか、僕には分らなかった。
よくTVの刑事物なんか見ていると、刑事たちが顔を見合わせてウンと肯き合う場面があるが、あれでどうして分り合っちゃうのか、不思議である。
たまには肯いた後、一人は犯人を追いかけ、一人はトイレに走る、といったことがあっていいのではないか。現実とは、味気ないものなのである。
ともかく僕は二階の寝室へ上って、ベッドに入った。
さて、これから一体どうなるのだろう? 僕はちょっと考えたが、考え出すと眠くなるという体質なので、すぐに瞼《まぶた》がくっついて来た。——ともかく、眠っている間は、何も起こらないでほしいと祈りつつ、眠りの中へ入って、カーテンを閉めたのだった……。
誰かに揺《ゆ》り起こされたのは、少し眠ってからのことらしかった。
目を開くと、祐子が立っている。これが吉野とか刑事だったら、こん畜《ちく》生《しよう》、とにらむところだが、
「起こしてごめんなさい」
と祐子が言うと、
「いや、もうそろそろ起きるかな、と夢《ゆめ》の中でちょうど考えてたところだったんだよ」
と僕は優しく微《び》笑《しよう》した。
「お話があるの」
と、祐子が言う。
「何だい?」
僕はベッドを出た。「——今何時だろう」
「一時過ぎ。みんな眠ってるわ」
「刑事も全部?」
「交替で起きてるはずの人も、居《い》眠《ねむ》りしてるの。だから上って来たのよ」
「たるんでるな、全く!」
「ともかく、こっちへ来て」
と、祐子はドアの方へ僕を引っ張って行く。
「どこへ行くんだい?」
「隣《となり》の寝室」
と祐子は言った。「静かにね」
「了解」
廊下へ出てみると、確かに、階下は、静まり返っている。みんないびきもかかずにお休みらしい。
向いのドアを開け、即《そく》製《せい》の僕の寝室に入ると、祐子はいきなり僕に抱きついて来た。こういう不意打ちは、いつでも大《だい》歓《かん》迎《げい》なのである。
「お願い……抱いて」
と、祐子はいつになく熱っぽく囁いた。
「大丈夫かい、下は?」
「平気よ、そっとやれば、分りゃしないわ」
と祐子は言って、「——ともかく、今、ここで抱いて欲しいの!」
可愛い女の子にこう言われて——いや、とても拒《こば》めるものではない。大体、もとから拒む気などなかったのだが。
——ここでしばし目をつむって、見ざる聞かざるということにしていただき、さて三十分後、ベッドの中で、僕と祐子は互いに肌《はだ》を寄せ合っていた。
「——嬉しいわ」
と祐子は言った。
「そんなに?」
「あなたが勇気を出してくれたからよ」
「勇気を?」
人間は、自分にないものまで、他人に与《あた》えることができるのだろうか、と僕は哲《てつ》学《がく》的《てき》なことを、一《いつ》瞬《しゆん》考えたりした。
「でもホッとしたわ。あなたに今度こそ嫌われるんじゃないかと思ってたの」
「どうして君を嫌うんだ?」
「だって……分ってるじゃないの」
こういうとき、
「分ってないよ」
と本当のことを言うのは勇気がいる。
だから、僕は何も言わずに、曖《あい》昧《まい》に笑うことにした。これは実に重宝なやり方なのである。
「明日は日曜日ね」
「そうだ」
「月曜日には身《みの》代《しろ》金《きん》を用意しておかないと」
「しかし、誰《ヽ》に《ヽ》払《はら》うんだい? そこがさっぱり分らないよ」
「吉野さんよ、決ってるわ」
「でも、あいつ、電話がかかって来たとき、そばにいたぜ」
「共犯者がいるのよ! 当然じゃないの」
共犯者か! そこまでは考えなかった。さすが祐子だ、と僕は祐子を改めて見直した。
それにしても吉野の奴、共犯者まで使うとは汚《きたな》い奴だ!
もっとも、考えてみると、僕にも祐子という共犯者がいるのだが。
「差し当り、死体を発見されないようにしなきゃね」
「浮浪者の? でも僕のベッドの下まで調べやしないよ」
「新《ヽ》し《ヽ》い《ヽ》死《ヽ》体《ヽ》のことよ」
「何だ、新しいやつか」
と僕は言って、しばらくしてから、訊いた。「——何だって?」
「新しい死体」
「新しいって……どれくらい? まだいたんでない?」
果物か何かみたいだ。「それ……どこにあるんだい?」
「そこよ」
と祐子は、洋服ダンスを指さした。
「脅《おど》かすなよ。こんなタンスの扉《とびら》を開けると死体が倒れて来るなんて、よくTVでやるじゃないか」
僕は笑いながら、ベッドを出て、洋服ダンスの扉を気軽にヒョイと開けた。「ほら、だから何も——」
ゆっくりと、男の死体が倒れて来た。——まるで映画のスローモーションを見るように、その動きは滑《なめ》らかだった。
「本当だ」
と僕は言った。
その男は、織田刑事だった……。