期待を裏切られるというのは、いやなものである。
たとえば宝くじ一つ、取ってみても、あれが本当に当ると思って買う人はいないはずだが、それでも外れたと分ると面白くはないものだ。
いや、別にここで宝くじの話をしようというわけではない。——ドタドタと階段を上って来る足音がした、とくれば、一体何事かと腰《こし》を浮《う》かすのが普《ふ》通《つう》だろう。
実際、僕も祐子ともども、何が起こったのかと身構えたのである。
ドアをせわしげにノックする音がして、
「池沢さん!」
と、あの池山刑事の声がした。
やはり、これはただ事ではなさそうだ。
祐子が行ってドアを開ける。池山は祐子の顔を一目見ると、急にニヤニヤ笑い出して、
「こちらにおいででしたか。何をしてたんです?」
大きなお世話ってもんだ! 僕は池山刑事をにらみつけたが、向うは一向に気が付く様子もない。
ともかく祐子しか眼中にないのだ。
「色々とお仕事がありますの」
と祐子は答えた。「で、ご用件は?」
「用?——何か用ですか?」
池山はポケッとして訊き返す始末。全く、どうしようもない。
「何か急なご用でいらしたんじゃないんですの?」
そう言われて、なお十秒間はたっぷり間を置いて、
「ああ、そうでした!」
と、池山は手を打った。「添田さんが、一旦、例の誘拐犯のことで署へ戻りますので、昼食の心配はいらないとお伝えするようにと言われて来たんです」
僕はひっくり返りそうになった。そんなことを言うために、ドタドタと階段をかけ上って来たのか!
全く、期待を裏切られるのは、いやなものである……。
「今度はいつ電話があるのかな」
と、僕は言った。
「ともかく、明日になったらお金をおろして来ないとね」
祐子は言った。
僕らは台所にいた。昨夜の穴掘りのせいで、すっかりお腹《なか》が空いてしまったので、祐子が、刑事たちに出すべく作っているサンドイッチをつまみ食いしていたのだ。
祐子は料理の腕《うで》も抜《ばつ》群《ぐん》で、特にサンドイッチは旨《うま》い。何しろパンの間にハムまではさんであるのだ。
——当り前だって? それが、祐子がはさんだだけで、誰が作っても同じはずのサンドイッチがおいしくなるのだ。これこそ謎《なぞ》である。
「一億円か。——ちょいとくれてやるには、惜しい金額だな」
「大丈夫。取り戻せるわよ」
と祐子が微笑む。
この笑顔が、何よりも、マムシドリンクよりも僕を元気づけてくれるのだ。
「吉野の奴はどこにいるんだろう?」
「さっき外へ出て行ったみたい」
「じゃ、もっと食べても大丈夫だな」
「お行《ぎよう》儀《ぎ》悪いのね」
と、祐子は笑って、素早く僕の唇《くちびる》にキスした。
たちまち、僕の体内には活力が漲《みなぎ》って来た。
「刑事は何人残ってるんだ?」
「三人よ」
「じゃ充分だよ、これで」
「少し余るくらいでないと。——あなただって、ケチだと思われたくないでしょう?」
「そう。まあ……。でも、特に気前いいとも思われたくないよ」
いきなり台所のドアが開いて、池山刑事が顔を覗かせた。——ノックぐらいしろ、と怒鳴りたいのをじっとこらえる。
この週末の様々な体験で、僕は大いに成長した。以前ならカンシャクを起こしていたようなことも、じっと堪えるようになったのである。
殺人は人間を成長させるものなのだ、という真理を、僕は発見したのだった!
「あの——何かお手伝いしましょうか?」
と池山がわざとらしい口調で言う。
とっとと行っちまえ! 僕は心の中で怒鳴った。
「どうもありがとう」
と祐子は微笑んで、「じゃ、このサンドイッチの皿《さら》を運んで下さる? 私、お紅茶を淹《い》れますから」
「かしこまりました」
と、池山は召《めし》使《つかい》よろしく、言われた通り、大きな皿を手に、出て行った。
「あんな奴にニコニコして見せることなんかないぜ」
と少々ムクレていると、
「あら、やきもち?——嬉《うれ》しいわ。私を愛してくれてる証拠ですものね」
と、またニクイことを言う。「何ていったって、刑事さんよ。心証を良くしておけば、いざというとき、役に立つかもしれないわ」
「そりゃそうだけど……」
「心配しないで。愛してるのは、あなただけよ」
祐子は、僕の唇に軽く人差指をあてると、ティーポットを手に台所を出て行った。
全く……祐子にかかったら、僕なんか赤ん坊のようなものだ。
赤ん坊が女房を殺すかって?——そんなこと、どうだっていいじゃないか。
食べかけていたサンドイッチを、口の中へ丸ごと押し込んで頬《ほお》ばっていると、いきなりドアが開いて、
「社長!」
と、吉野の奴が入って来たのだ。
おかげで、こっちはびっくりして、サンドイッチを飲み込んでしまい、目を白黒させながら、あわてて水をがぶ飲みした。——吉野の奴! 僕を窒《ちつ》息《そく》死《し》させようという魂《こん》胆《たん》なのだ!
「大丈夫ですか?」
「ああ……。何とか……大丈夫だ」
人間的に成長した僕は、怒りを押えて、「何か用か?」
と訊いた。
「これからどうすればいいんでしょう?」
と、いかにも途《と》方《ほう》にくれた様子で、吉野は言った。「奥様は家出なさったんでしょう?」
「そうだよ」
この野郎、白々しい!
「それなのに、身代金の要求が来るってのはどういうことなんです?」
全く、そのとぼけ方の上《う》手《ま》さといったら!
「うん、それは……。ちょっと考えりゃ分るじゃないか」
「分りますか?」
「狂《きよう》言《げん》だよ、狂言」
「狂言……」
分らないふ《ヽ》り《ヽ》にかけては、吉野は確かに、まれに見る名優だ。
「つまり、家出したものの、今度は金が欲しくなったのさ。だから、相手の男に誘拐犯の役をやらせて、金を手に入れようとしてるんだ」
「社長はどうなさるんです?」
と吉野は訊いた。
「どうって?」
「お金を払うんですか? 狂言と分っていても」
「そりゃ——仕方ないさ。警察の手前、値切るってわけにもいかないし」
「一億円ですよ!」
僕は、ちょっと気取って、言った。
「妻が出て行くというのなら、それぐらいの金をつけてやるのが夫の誇《ほこ》りってものさ」
吉野は圧《あつ》倒《とう》された様子だった。
「さすがに……社長は大人物でいらっしゃいますね!」
うん、今のセリフはなかなか決っていた。——畜生、祐子が見ているところでやりたかったな。
ビデオテープでもう一度、ってわけにいかないし……。
しかし、それにしても、この吉野、どこまで、とぼけた図々しい奴なんだろう。それに乗せられたこっちもこっちだけど。
ドアが開いて、祐子が小走りに入って来た。
「どうかしたのかい?」
「急いでサンドイッチ、追加しなきゃ!」
「あいつ、そんなに大食いなのか?」
「違うんです。添田刑事さんたちが戻って来て、一緒に食べ出したんです。あれじゃ足りなくなっちゃう」
——あの刑事も調子いい奴だ!
「そうだわ。添田さんがお呼びでしたよ」
と、祐子が、早くもパンの耳を切り落しながら言った。
居間へ行くと、昼食のことは気にしなくてよかったはずの添田刑事が、ムシャムシャとサンドイッチを頬ばっている。
「——やあ、池沢さん! 思い出しましたよ!」
いきなり言われて面食らっていると、添田は大判の封《ふう》筒《とう》を取って、中から、一枚の写真を出した。
「これが例の誘拐犯です。名前は大《おお》倉《くら》高《たか》志《し》。見るからに凶《きよう》悪《あく》残《ざん》忍《にん》な顔をしとるでしょう」
ああ、あのことか、と思い出して写真を眺めた。
なるほど、あのドライブ・インの女の子の絵の腕《うで》は確かなものだ。正にそっくりに描けている。
しかし、僕の目には、ごくありふれた、温厚な人物にしか見えない。やはり、僕のように、偏《へん》見《けん》のない、公正な、澄《す》んだ目には、添田刑事とは違った風に映るのである。
「今度こそ取っ捕まえてやりますよ」
と、添田は正に舌なめずりという感じ。
「妻の安全を第一にして下さいよ」
僕がクールに言い添《そ》えると、添田はあわてて、
「も、もちろんです! 何よりもそれが最優先ですよ」
と言った。
これで警察はその大倉という男を追いかける。うまく行けば、美奈子を殺したのも、その男だということにできるかもしれない。
ただ、肝《かん》心《じん》の美奈子の死体が、行方不明なのだ……。
「ともかく、大倉を発見するために、目下、この地域一帯を厳《げん》戒《かい》中です。必ず見付けて、奥さんを無事取り戻します!」
いいのかね、断言しちゃって。いくら警察でも、死人を生き返らせることはできないだろう。
「ところで」
と、添田は言った。「このサンドイッチはなかなか旨いですな」
よくもこう切り換えられるものだ、と僕は感心した。
「犯人はまだ金の受取り方法を、指示して来ていませんね」
と僕は言った。「金を渡《わた》すときに相手を逮捕する気ですか?」
「それは危険だと思います」
と添田は首を振って、「万一逃げられたら、奥さんの身が危ない」
「なるほど」
「金は素直に渡す。もちろん見張ってはいます。しかし、その場では逮捕しません」
「では、小型の発信機か何かを、金を入れた鞄《かばん》に仕込んで……」
「いや、最近の犯人たちは、TVや映画、小説で、よく勉強していましてね。その辺は用心しています。まァ、お札そっくりの発信機でも開発されればともかく、すぐ見破られてしまいますよ」
と言ってから、添田刑事はふと、「——お札型発信機か……。これはいいアイデアだな」
「できりゃ便利でしょうね」
と僕は笑いをかみ殺しながら言った。
「こいつは特許の申《しん》請《せい》をしよう」
と、添田刑事は真顔で言った。「そのときは証人になって下さい」
「いいですよ」
呑《のん》気《き》な刑事だ。アルバイトにでもするつもりなのだろうか。
「しかし、大量生産はできないな……。いや、意外に今の若者には、ナウい感じで受けるかもしれん」
と一人でブツブツ言っている。
勝手にやってくれってところだ。
そのとき、玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。——祐子は台所だ。
吉野はトイレにでも行ったのか、姿が見えない。仕方なく、僕が自分で出ることにした。
ドアを開けると、目の前に、警官が立っていて、
「ワン」
と吠《ほ》えた。
いや——吠えたのは、その警官の連れている犬だった。変だと思ったのだ。
「添田さんに——」
とその警官が言い終らないうちに、
「来たか! 待ってたぞ」
と、添田刑事が出て来た。
「遅くなりました」
「頼《たの》むぞ」
と、添田は、ポケットから、何だか、くしゃくしゃのハンカチみたいな物を取り出し、
「これが、織田刑事の匂《にお》いだ。よく憶えてくれよ」
僕はハッとした。——警察犬か!
これに織田を発見させようというのだ。これはなかなか、やるじゃないか、というところだ。
添田という刑事、見かけほど馬鹿ではないらしい。
いや、感心している場合じゃないんだ。これじゃ、少々埋めといたって、すぐにかぎつけられてしまうだろう。
まあ、僕が殺した——いや正確には祐子だが、僕と祐子は一心同体なのだ——ということは分らなくても、やはり、この近くで、織田の死体が発見されるというのはまずい。
といって、今から掘り出して他へ移すわけにもいかない。
——困ったことになった、と僕は思った。