僕が住谷秀子のことを説明して、
「美奈子が病気だと言ったのを、信用してるんですよ」
とため息をつく。「どうしたもんでしょうね?」
「困りましたな、それは」
と、添田は首を吊《つ》った。いや、首を振った。
「うまく説明して下さい」
「説明して、納得すると思いますか?」
「無理だと思いますが……」
「では仕方ありません」
と添田は決然と言った。
「どうします?」
「何とかしましょう」
誠にユニークな人間だ、と僕は改めて感心した……。
——住谷秀子がやって来たのは、三十分後のことだった。
「——美奈子はどこなの?」
と、居間へ入って来た。
「いや、実は——」
「この人たち、誰?」
と見回して、「電気屋さんか何か?」
「失礼します」
と添田が言った。「私どもは警察の——」
「あっ!」
と、秀子が大声を上げて遮《さえぎ》った。「あんたでしょ!」
「は?」
「さっき、電話で、私のこと、イカレてると言ったの。——あんたね!」
「まあ、ちょっとした誤解があったのです」
「説明してもらおうじゃないの」
と、秀子は、腰に手を当てて、キッと添田をにらみつける。
「つまりその——美奈子さんは誘拐されたのです」
「誘拐?」
「はい。つまり、さらわれたのです。かどわかされたのです」
「それぐらい分るわよ。でも——本当なの?」
「そうです。こうして我々は、犯人からの電話を待っているというわけでして」
「じゃ……本当にさらわれたの?」
秀子の目が輝《かがや》いた。どう見ても、友人の安否を気づかっている顔ではない。
「で、お気の毒ですが——」
「本当に気の毒ね」
「いや、あなたのことです」
「私?——どうして?」
「つまり、このことが外へ洩《も》れては、困るのです」
「私なら——」
「大丈夫とは思いますが、念のため、今夜はここで過ごしていただきます」
僕はびっくりした。——冗談じゃない!
秀子に一晩中いられたらどうなっちまうか……。
「添田さん。それはひどいじゃありませんか!」
と僕は言った。「彼女にはご主人もいるんです。ここへ来て帰らなかったら、心配しますよ」
「あら、平気よ」
と秀子が言った。「うちの人、急に用で出かけたの。二日は帰らないわ」
「すると——」
「私、絶対にここから動かないからね!」
秀子は、ソファにデンと座って落ち着いてしまった。——僕は、すでに絶望的な気分になっていた。
楽しい時間も、辛い時間も、いつかは過ぎる。
これが真理である!
夜、十二時。祐子は、そっとベッドから抜《ぬ》け出した。
「——気づかれなかったかな?」
「大丈夫よ」
と、祐子は手早く服を着た。「シャワーを使うと、誰かが聞きつけるかもしれないわね」
「そうだね」
「いいわ、我慢する」
祐子は、暗い部屋の中で、伸《の》びをした。
「下へ行くの?」
「ソファで寝《ね》かしてもらうわ。だって、変でしょ、他のベッドで寝ても」
「そうだなあ。——じゃ、僕も、ソファで寝ようか」
「いいわよ。あなたはここのご主人なんだもの」
と、祐子は、巧《たく》みに僕の心をくすぐるのである。
「ついに電話はなかったよ」
「そうね。——明日かけて来るつもりなのよ、きっと」
「呑《のん》気《き》な犯人だな」
考えてみれば、どっちが呑気だか分らないが……。
「じゃ、おやすみなさい」
と、祐子は言って、もう一度僕にキスして、出て行った。
僕は独りまどろみに、すぐに落ちて行った……。
ふと気が付くと、誰かが僕の体を揺《ゆ》さぶっている。目を開くと——
「起きて、大変よ!」
祐子である。
「何だ、もう朝かい?」
「違うの!」
「じゃ何だい?」
「いなくなったの」
「——誰が?」
と、僕は寝ボケマナコで訊いた。
「あの男よ。大倉っていう——」
「いなくなったって……どうしたの?」
「分らないの。下へ行って、居間へ入って行ったら、みんなスヤスヤ眠ってたの。これはいいや、と思ったら、あの男だけいないじゃない」
「トイレにでも行ったんじゃないのかい?」
「一人で手《て》錠《じよう》を外して?」
僕はムックリと起き上った。
「つまり、逃げたってこと?」
「そうらしいの」
と、祐子は肯いた。
「——全く、これは、何と言えばいいんでしょうか?」
添田刑事は、芝《しば》居《い》がかった調子で言った。「こんな失敗は、私の輝かしい経歴の中で、初めてのことです!」
自分のことを、「輝かしい」とは、あまり言わないと思ったが、黙っていた。
「不覚でした。——つい、疲《ひ》労《ろう》が、深い眠りを呼んだのです」
何が疲労だ。何もしてないくせに! 僕は、腹が立った。
僕などは、穴を掘ったり、人を殺したり、大変な仕事をしているのに!
「添田さん」
と、池山刑事がやって来た。「外にいた警官は、誰も大倉を見ていませんよ」
「そうか! すると奴はまだこの中にいるんだ」
と、添田は急に元気になった。「よし! みんな捜《さが》せ! 床《ゆか》をはがし、壁《かべ》に穴を開けてでも大倉の奴を見つけるんだ!」
と叫ぶ。
僕の方がびっくりした。
「添田さん! そんな乱暴されちゃ困りますよ!」
「ああ——いや、これは単なる言葉上のことです。まさか壁と壁紙の間に隠《かく》れるわけはありませんからな」
と、添田は笑った。
「それならいいんですけど」
僕はまだ信用できなかった。この刑事ならやりかねない。
「あの——」
と、祐子が言った。「口を挟《はさ》むようで、申し訳ないんですけど」
「何でも言ってみて下さい」
この刑事、女性には極めて寛《かん》大《だい》なのである。
「これだけ人数がいて、ここはお城じゃないんですから、一つずつ、部屋を捜《そう》索《さく》して行った方がいいんじゃありませんか?」
「なるほど」
添田も、祐子のいかにも理にかなった、天才的な(はオーバーか)考えに、肯かざるを得なかったようだ。
「そうしましょう。——おい! みんな集まれ!」
と声をかけた。「いいか、二階から、シラミつぶしに捜して行くぞ。——必ず見つけるんだ!」
さすがに、添田の言葉には、多少のプライドが感じられた。
「警察の威《い》信《しん》がかかっているんだ!」
と力強く言った。「俺のクビもかかっているんだ!」
後の方は、絶《ぜつ》叫《きよう》に近くなった。
まず二階ということになり、添田たちがゾロゾロ上って行く。
一階にいる場合も考えられるので、僕と祐子、それに池山刑事の三人は、居間に残っていた。
「ちょっとトイレに行って来ます」
と、池山は居間から出て行った。
「緊張してるのね」
と、祐子は微笑んだ。「可愛《かわい》いじゃないの、あの人」
「おい——」
「また、すぐや《ヽ》く《ヽ》んだから」
と、祐子はいたずらっぽく笑った。
「大丈夫かな、調べられても」
「平気よ。そんなに隅《すみ》々《ずみ》まで調べるわけじゃないもの。人が隠れそうな所を調べるだけでしょ」
「うん、まあ……」
と僕が呟《つぶや》いたときだった。
ドタドタッという音がした。——僕と祐子は顔を見合せた。
「何だろう?」
「地下室の方よ」
「行ってみよう」
僕たちは居間を飛び出した。
階段の下に、池山刑事がのびていた。
「足を踏《ふ》みはずしたんだな」
「トイレと間違えたのかしら」
「仕方ないなあ、全く——」
と、降りて行こうとすると、突《とつ》然《ぜん》、地下室の中から、あの大倉という男が現れた。
「おい、それ以上来るな!」
と大倉は言った。
僕はおとなしく、言われるままに退《さ》がった。大倉は、拳《けん》銃《じゆう》を手にしていたのである。
「こういうドジな刑事がいてくれると助かるぜ」
と大倉は笑った。「おい、他の連中を呼んでこいよ」
「ど、どうするんだ?」
「色々と話があるのさ。——ただし、妙な真似しやがると、この刑事の頭を撃《う》ち抜くからな」
「——分った」
僕と祐子は階段の方へと歩いて行った。
ちょうど、添田が降りて来る。
「上にはおらんようです」
そりゃそうだ。
「添田さん。地下室に——」
「地下室があるんですな。何か食べる物でもあるかな」
「そうじゃないんです。大倉が地下室に——」
「何ですって!」
添田は飛び上った。「——あいつ! もう逃がさんぞ!」
「あの——添田さん!」
話をする間も何もありゃしない。添田は、駆《か》け出して行ってしまった。
そして——ドタドタッという音がした。
さっきと全く同じ音だった。
「いいか! 車を用意しろ! ちゃんとした車だぞ! オートマチックの、新車がいいな。分ったか?」
地下室から、大倉の声が聞こえて来る。「それから金を三千万用意しろ!」
「三千万か……」
と僕は呟いた。
「一人、千五百万円ね」
と祐子が言った。
下では、添田と池山が二人とも人質になっているのだった。