17 誘《ゆう》拐《かい》犯《はん》
「池沢さん……」
と、添田刑事が近寄って来て、言った。「実は、あなたにお話ししておきたいことがあるのですが」
僕は、一《いつ》瞬《しゆん》、ひるんだ。
何しろこの迷《ヽ》刑事が、改まった口調で何か言い出すと、ろくなことはないのだ。
きっと今夜の食事は、うな重の松にしろ、とでも言い出すんだろう。
「もうすぐ、大倉高志がここへ連れて来られます」
「はあ」
大倉高志というのは、つまり僕の妻を誘拐した容疑をかけられている男だ。
「もうすぐ六時ですな」
「遅いですね。さっきから、『もうすぐ着く』とおっしゃってますが」
「交通渋《じゆう》滞《たい》に巻き込まれているのかもしれません。——それはともかく、間もなく着くことは間《ま》違《ちが》いないのです」
「はあ」
「それは、確かに十五分以内とは申し上げられませんが、明日の朝になるとは考えられません」
一体何が言いたいんだ、この刑事は?
「で、大倉という男がここへ来て、どうなるんです?」
「そこなんですよ」
と、添田は重々しく肯いた。
何だかわけが分らないで、いくら重々しく肯いたって、ちっとも感動などしやしないのである。
「池沢さん。私は、あなたに、冷静でいていただくよう、お願いしたいのです」
と、添田は言った。
これ以上、どうやって冷静になれと言うんだ? 冷蔵庫にでも入るか。
「私には、あなたの気持が、実に良く分ります」
こっちにはさっぱり分りません。
「——池沢さん、大倉はあなたの奥さんを誘拐した、憎《にく》むべき極悪人に違いありません。しかし、我を失って、襲《おそ》いかかるようなことのないようにして下さい」
「なるほど」
やっと言っていることが分った。全く回りくどい男だ。
そんなこと、いちいち言われなくたって、何しろ美奈子は僕が殺したんだから、その大倉とかいう男を、僕が襲う理由なんて、ないのである。
「ご心配なく」
と、僕は言った。「僕も理性のある人間です」
「いや、そう言っている人が危ないのです」
と添田は教えさとすように、「内心は、その男の首を引っこぬいてやりたい、五体バラバラに引きちぎってやりたい、火をつけて焼き殺したい、ビルの天《てつ》辺《ぺん》から投げ落としたい、と思っておられることでしょう。いや! それが当然です!」
冗《じよう》談《だん》じゃない! 僕は、添田って男、サディストなんじゃないか、と思った。そんな残《ざん》酷《こく》なこと、僕は考えもしなかったのに。
「しかし、そこをこらえて下さい! ぐっと抑《おさ》えて下さい。奥さんの安全のためには、じっと堪《た》える他《ほか》ないのです!」
「だから大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」
と、僕は少々うんざりして来て、言った。
「そうですか。安心しました」
と、添田はホッとしたように肯いて、「では、夕食は、うな重の松にして下さい」
僕はひっくり返りそうになった。
「わ、分りました」
「いや、これも捜査のためなのです」
「うな重がですか?」
「大倉が来る頃《ころ》には夕食の時間になります」
「そうですね」
「大倉にも、そのうな重を食べさせてやるのです。——どうせ、奴は、取調べを受けていて、何も食べていません。空腹ほど人間をみじめな気分にさせるものはありませんからね」
「なるほど」
それは真理かもしれない。
「そこへ、うな重の松が出る! しかも、自分が誘拐している女性の夫が、出してくれるのです。大倉は、人の情というものに触れて感動し、良心の呵《か》責《しやく》に、涙を流すでしょう。そして、ガバとあなたの前にひれ伏《ふ》し、総《すべ》てを告白する——」
「そううまく行きますか?」
「だめでしょうね」
と添田はアッサリと言った。「しかし、〇・一パーセントぐらいの可能性はあります。私はそこへ賭《か》けたいのです」
うな重一つに、大変な理《り》屈《くつ》がくっつくものだ。
「すると刑事さんたちは、松でなくて、竹か梅でも?」
「いや、やはり松の方がいい。同じものを食べている、つまり、同じ人間として扱《あつか》ってもらえていると思えば、大倉は感動して、ガバとひれ伏し——いや、これはさっきやりましたね」
「ともかく、うな重の松を注文するんですね。分りました!」
僕は台所へと避《ひ》難《なん》した。あの刑事に付き合っていたら、きりがない!
「あら、どうしたの?」
洗い物をしていた祐子が訊いた。
「うな重の松だってさ。——全く、この誘拐事件は、あの刑事たちが、タダ飯を食うための陰謀じゃないかと思えて来るよ!」
「まさか」
と、祐子は笑って、「——でも、その誘拐犯っていうの、いつ来るの?」
「もうとっくに着いてなきゃいけないんだってさ」
「そう」
「——どうしてだい? やっぱりうな重が気になるの?」
「違うわよ。ちょっと興味あるじゃない? 凶悪犯なんて近くで見たこと、ないんだもの」
僕はちょっと渋《しぶ》い顔になって、
「僕以外の男にも、興味があるかい?」
と言った。
祐子は笑って、
「そういう意味じゃないわ。——お馬鹿さんね!」
と、チュッとキスしてくれる。
これで、いっぺんに機《き》嫌《げん》が直るのだから、僕も単純である。
祐子は台所の電話でうな重を注文すると、コーヒーを淹れた。
「刑事さんたちへ出すわ。ドアを開けて、押《おさ》えててくれる?」
僕が言われた通りにして、盆《ぼん》を持った祐子を通してやる。——居《い》間《ま》では、刑事たちが、のんびりとおしゃべりをしたり、週刊誌を読んでいる。
TVや映画で見る緊《きん》迫《ぱく》感《かん》とは、およそほど遠いムードであった。
「——や、どうも」
と、添田が真っ先にコーヒーを受け取って、一口ガブリとやって、「アチチ!」
と飛び上った。
がっついてるんだから、全く!
そのとき、玄関でチャイムが鳴った。祐子が盆を置いて、玄関に出る。
ドアが開くと、どこかで見たような男が入って来た。——あの写真の男、大倉高志だと気付くまでに、時間はかからなかった。
しかし、受けるイメージは大分違っていた。取調べに疲れた様子など、まるでなく、ずかずかと、居間へ入って来た。
刑事たちが、後からあわてて追いかけて来る。——手錠をしていなければ、大倉の方がよっぽど威《い》張《ば》って見えた。
大倉はグルッと居間の中を見回すと、添田刑事に目を止め、ニヤリと笑った。
「何だ、添田さんじゃねえか」
すると添田が立ち上って、
「どうも、その節は——」
とやり出したので、僕はびっくりした。
「いや、元気そうだね」
「大倉さんもお変りなくて……」
「座らしてもらうぜ。パトカーってやつは乗り心地が悪くて疲れるからな」
「どうぞ、どうぞ。——さあ、こちらへ」
僕がポカンとして眺めていると、添田は僕の方へやって来て、
「——こうして、人間らしく扱ってやるのが、自白を促すコツなのです」
と低い声で囁《ささや》いた。
それにしても、やりすぎじゃないのか?
「遅かったじゃないか!」
ガラッと態度が変って、添田が、大倉を連れて来た刑事へ怒鳴った。
「すみません。大倉の奴が、腹が減った、とうるさいもんで、途中、うなぎを食って来たんです」
添田の顔がこわばった。
「うなぎだと?」
「はあ……」
「どうしてハンバーグか何かにしなかったんだ!」
怒る方が無理である。添田は、何とか怒《いか》りを抑えて、
「で——いくらだった?」
「は?」
「いくらのうなぎを食って来たんだ?」
「ええと……高い店でしてね。三千円だったと思いますが」
添田は僕の方へ、
「いくらのを注文しました?」
と訊く。
「さあ、僕は……」
祐子の方を見ると、
「二千八百円でしたわ。それが一番高いんですの」
「ああ!」
添田はため息をついた。「——私の計画は水の泡《あわ》だ!」
もともと泡みたいなもんじゃないか。
添田は急にキリッとした顔になると、
「こうなっては仕方ない。——おい、大倉! ここの奥さんをどこへやった! 素直に吐《は》け!」
よくもまあ、ここまで変れるものだ。——僕はまるで、TVのワンマンショーを見ているような気になって来た。
「知るもんかい」
大倉の方の態度は一向に変らない。「俺はやっちゃいないぜ」
「フン、しらばくれてもだめだ。お前ともう一人の仲間が、猿《さる》ぐつわをかませた女を、車に乗せていたのを、ちゃんと目《もく》撃《げき》した人間がいるんだぞ!」
これで相手が恐《おそ》れ入ると思ったら大間違いで、大倉は、ゲラゲラ笑い出したのである。
「——何がおかしい!」
添田が真っ赤になって怒鳴った。
「だってよ……。そりゃ、男一人と女一人、一緒に車には乗ってたぜ」
「じゃ、認めるんだな!」
と、添田がぐっと身を乗り出す。
「でも女は風邪《かぜ》ひいてたんだ。だからマスクをしてた。猿ぐつわなんかじゃねえよ」
なるほどマスクか!
口に布を当てているには違いない。僕は吹き出したくなるのを、必死にこらえていた……。
「——まだしつこくやってるわ」
夕食の後、片付けを終って、祐子が二階の寝室へ上って来て言った。
「あの刑事は天然記念物にすべきだね」
と僕は言った。
「でも、あの大倉って男、面白いわね」
「そうかい?」
「刑事さんが一人でカッカして怒鳴ってるのよ」
「あの刑事にまともについて行くのは大変だよ」
と言って、僕は、祐子を抱き寄せた。
「だめよ……。人が来るわ」
と言いながら、祐子は、優しくキスしてくれた。「——明日は大変よ。お金をおろして、指定の場所へ届けなきゃ」
「そういえば電話がないね。忘れてるのかな?」
「まさか。——今夜か明日の朝、かかって来るわよ」
「美奈子の死体はどこに行ったんだろう?」
「分らないわ。それに、あの浮《ふ》浪《ろう》者《しや》の死体もね」
「分らないことだらけだな」
分っているのは、僕が美奈子を殺したことぐらいだ。
「今夜は一晩中、あの大倉って男を訊《じん》問《もん》すると言ってたわ」
「一晩中?」
僕は顔をしかめた。そんなにいつまでも起きていられちゃ、祐子をベッドへ連れて来ることもできなくなる。
「でも、大丈夫よ」
と、祐子が僕の心配 を 読 み 取った ら し く、言った。
「あの刑事さん、そう言いながら、凄い大《おお》欠伸《あくび》をしてたもの」
そこへ、ドタドタと階段を駆け上って来る足音がした。あれは間違いなく、若い池山刑事だ。
「池沢さん!」
とドアが開く。「お電話です」
「電話?」
僕は緊《きん》張《ちよう》した。やはり、たまには緊張しないと、申し訳ない(?)。
「誘拐犯ですか?」
「いや、何だか分らないんです」
確かめてくれりゃいいではないか!——ともかく、出ないわけにもいかず、僕は階下へ降りて行った。
「変な女なんです」
と、添田が言った。「少しイカレてるのかもしれませんな」
僕が受話器を取って、
「池沢ですが——」
と言うと、
「ちょっと! 今、『イカレてる』とか言ってたの、誰《だれ》なの!」
と凄い声が飛び出して来た。
住谷秀子だ。——美奈子を殺したとき、亭主ともども訪ねて来た女である。
「いや——その——」
と僕はしどろもどろになった。
「柄《がら》の悪い下男を使ってるのね」
と、秀子は言った。「美奈子に代ってよ」
「それが——」
「どうしたの? まだ具合悪いの?」
「うん。——ちょっと電話に出られる状態じゃないんだよ」
「そんなに? どうして、入院させないのよ!」
「分った。頼むから、そんな凄い声、出さないでくれ」
「凄い声で悪かったわね!」
「いや、つまり——」
「今からそっちへ行くわ」
「何だって?」
「あんたに任しといたら、美奈子は死んじゃうわ」
もう死んでるのだが、そうも言えない。
「だけどね——」
「ともかく、何が何でも入院させるからね」
「ちょっと待ってくれよ!」
「じゃ、すぐに出るわ!」
「おい!——もしもし!——もしもし!」
すでに電話は切れていた。