玄関を入って、僕は仰《ぎよう》天《てん》した。
銀行で三千万をおろして、戻《もど》って来たのは、やがて十一時になろうという時だったのだが、ともかく、一歩中へ入って、新《しん》宿《じゆく》駅か渋《しぶ》谷《や》駅のラッシュアワーの中へ間違って入り込んだのかと思ったほどだった。
そんなはずがないのは分り切っているが、しかし、家の中は、廊《ろう》下《か》から居間まで、何十人——いや、百人はいようかという、制服警官で埋《うま》っていたのだ。
もちろん、座る所なんかありゃしないから、みんな手もちぶさたに立って話をしている。
急にここで〈全国警官親《しん》睦《ぼく》会《かい》〉でも開くことになったのかしら?
「帰ったの?」
と祐子が二階から降りて来た。
「うん。しかし、これは——」
「上に行きましょう。ともかく上に」
と、祐子が僕の手を引く。
寝室へ入ると、祐子がホッと息をついて、「びっくりしたでしょう?」
と言った。
「当り前だよ。どうなってるんだい?」
「あの刑事さんたちが、応《おう》援《えん》を呼んだの。そしたら、一人ずつ、バラバラに電話したものだから、あっちこっちから、警官がワァワァやって来て……」
「ひどいもんだな」
僕は金の入った鞄を、ベッドの上に置いて言った。「一体何を考えてるんだろう?」
「ともかく、絶対逃げられない、ってことを大倉に見せて、自首させようってことなんでしょ」
「それにしたって、やり過ぎだよ!」
「仕方ないわ。ここは任せておきましょ」
「吉野や住谷秀子は?」
「下にいるわ。住谷さんなんて、見逃してなるもんか、ってワクワクして待ってるのよ」
「何を?」
「大倉が警官の弾《だん》丸《がん》を浴びてやられるのを、よ」
「あれでも女か! 全く!」
僕は呆れて、ベッドに腰をかけながら言った。
「女って、残酷なところがあるのよ」
と、祐子は僕の傍《そば》へ座った。「私にも……。分ってるでしょ?」
「うん……」
「私のことなら何でも分ってるわよね」
「隅から隅までね」
「フフ……。何だか変ね」
祐子の方からキスして来る。僕らはベッドへ倒《たお》れ込《こ》んだ。ドスン、と何か音がした。
金の入った鞄が落ちたのだ。構やしない。祐子の方が大切なのだから。
「こんなことしてちゃいけないわ……」
僕の腕の中で、祐子が言った。
「そうだね……」
「今後のことを検討しなきゃ……」
「電話は……かかって来た?」
「いえ……まだよ」
「三千万で……手を……打つかな?」
「だめ……じゃ……ない?」
「そう……かな」
やたらに「……」が入るのは、この間、僕と祐子の間で、親密な打ち合せが行われたことを示しているのである。
ドアがノックされて、僕らは、はね起きた。——祐子が髪《かみ》を直しながら、ドアを開ける。
「どうも、お騒《さわ》がせして」
と刑事が入って来た。
「下の方はどんな具合ですか?」
「はあ。——いよいよあと三十分しかありませんので、覚《かく》悟《ご》を決めなくてはなりません」
覚悟を決めるのは、添田たちの方だろう。
「じゃ、突《とつ》入《にゆう》するんですか?」
と、祐子が言った。
「ええ。百人の警官が一《いつ》斉《せい》に突っ込めば、きっと……」
あの狭《せま》い階段に百人もの人間が入るわけがない。やたらドタバタするだけで、大倉は結構どさくさに紛《まぎ》れて、逃げちまうかもしれない。
「添田さんは大丈夫ですか?」
「さっきも、『金と車はどうした!』と、怒鳴ってました。全く、心臓をえぐられる思いですよ」
と、刑事は言って、「あ、ところで、ハンバーガーの方は……」
心臓をえぐられた人間の言うことじゃないような気がした。
「この鞄の中に。——札束の上に入ってます」
と僕は鞄を開けてやった。
「どうも。——しかし、百人もいるんじゃ、奪い合いになるな。ここで一ついただいて行きます」
と刑事はハンバーガーにかみついた。
「ねえ……こうしたらどうかしら?」
と、祐子が言い出した。
「何です?」
「大倉が要求してるのは三千万円でしょ? ここにちょうど三千万円あるわ」
「それで?」
「これを大倉に見せるんです。車の方は、どうせ地下からじゃ見えないんですもの。金だけ渡せば、きっと車も用意されたと思いますわ」
「なるほど」
「大倉は安心して上って来る。そこを一斉に飛びかかって押えるんです」
祐子は僕の方を見て、「社長さんは、人情味の厚い方ですから、きっと、このお金を使わせて下さいますわ」
僕はぐっと胸を張って、
「もちろんです。この金がお役に立つのなら、どうぞ」
「いや、ありがとうございます!」
と刑事はハンバーガーを無理に口へ押し込んで、目を白黒させて、「——必ず——取り戻してお返しします!」
当り前だ! 返してくれなきゃ大変だ。
刑事が出て行くと、祐子が言った。
「あんな出しゃばったこと言ってごめんなさい。——怒《おこ》った?」
「怒るもんか。すばらしいアイデアだと思うよ」
「本当? あなたってすてきだわ!」
祐子がキスして来る。——このキスのためなら、三千万円、なくなっても——やっぱり惜《お》しいや。
「あと五分だぜ!」
大倉の声がした。「どっちを殺すか、ジャンケンさせてるところだ」
「おい、お前はパーを出せ!」
と添田が言っている。
「いやです! チョキを出すんでしょう」
「俺はお前を助けようと、グーを出すつもりなんだぞ!」
「当てになりません!」
「この俺が信じられないのか!」
「いつか、ラーメン代を踏み倒したじゃありませんか!」
ぜひともテープに取っておきたいやりとりである。
「おい、大倉!」
と、刑事が声をかける。
「何だ?」
「やっと用意ができたぞ!」
「金も車もか?」
「ああ、もちろんだ!」
「本当だろうな」
「だから出て来い! 手は出さん!」
「金をここへよこせ」
僕は、鞄を刑事に渡した。
「——今、投げるぞ」
鞄が放り出され、階段を転り落ちて行った。
しばらく、沈黙がある。調べているのだろう。
「——よし、どうやら本当らしいな」
大倉の声がした。「上って行くぞ。その辺から人を遠ざけろ」
「分った!」
「この年食った方の刑事《デカ》を連れてく。妙な真似すると、こいつを殺すぞ!」
百人の警官が隠れるところなんか、とてもないので、九十人は表で待つことになった。
十人だって、見えないように隠れているのは大変である。おまけに、住谷秀子が、
「ここにいる!」
と頑《がん》張《ば》って動かない。「機《き》関《かん》銃《じゆう》は? ショットガンは?」
戦争じゃないんだぞ、と言いたいのを、こらえていた。
「——行くぞ!」
と、大倉の声。
ピーン、と空気が張りつめた。僕は祐子と一緒に居間の入口の所にうずくまっていた。
「——うまく行くかしら?」
「さあね。あの刑事は死ぬかもしれないな」
「気の毒ね」
「そうかい?」
「そうでもないわね」
コツ、コツと足音が上って来る。
「こら! ちゃんと歩け!」
と、大倉にこづかれているのは添田だろう。「しっかりしやがれ!——何だと?——腰が抜けた?」
ズドン、と銃声がした。
「これで歩けるか?——よし。さあ、行くんだ!」
添田が、這《は》うようにして上って来た。その後から大倉が。
状《じよう》況《きよう》はかなり難しい。警官たちが身を隠している所から大倉の方へ駆け寄るのに、少しは時間がかかる。
その間に大倉の手にある拳銃は、充《じゆう》分《ぶん》に添田の頭を吹っ飛ばせるに違いない。
「さあ歩け」
と大倉がぐい、と添田を押す。右手に拳銃、左手には金の入った鞄を持っている。
僕はジリジリと居間の中へ後退した。
「——フン、隠れてやがるのは分ってんだぜ!」
と大倉が、先手を打った。「一人でもちょこっと動いてみろ、こいつの頭はなくなるぜ」
こう言われては、動きが取れないだろう。——大倉という男、なかなかの奴である。
大倉と添田が、玄関の方へ、少しずつ歩いて行く。
僕は居間のドアをそっと閉めて、細い隙《すき》間《ま》から、覗《のぞ》いていた。
添田はもう、生きた心地がしないという顔で、完全に怯《おび》え切っている。冷《ひや》汗《あせ》も、出切ってしまったのかもしれない。
大倉の、ふてぶてしい横顔が見えた。——憎らしい奴ではあるが、あの落ち着きと、度胸の良さには、感心しないわけにはいかなかった……。
そのとき、頭の上で、何だかピュッという音がしたと思うと、
「アッ!」
と、大倉が顔を押えてうめいた。
鞄が落ちる。——一《いつ》斉《せい》に、警官たちが飛びかかった。
その後はもう——大混乱だ。外の警官たちもドッとなだれ込んで来て、玄関前のホールは、満員電車の中みたいになってしまった。
「——札だ!」
と誰かが叫んだ。
「一万円札だ!」
僕は目を見張った。鞄が口を開けたのに違いない。けられ、はね飛ばされて、札が空中に舞い上ったのだ。
お札の舞は、しばし続いた……。
「申し訳ありません」
添田刑事は頭を下げて、「必ず足りない分は補《ほ》償《しよう》させますので」
「よろしく」
と僕は言った。
添田は、すっかり元の通り、平然たる様子に戻っていた。大倉は逮捕され、もちろん、池山刑事も無事である。
ただ無事でなかったのは、僕の三千万円だった。
今、刑事たちが、回収した札を数えているのだが、どうみても、何百万円か足りないのである。
「空中に分子になって散っちゃったのかもしれませんな」
などと、添田は笑ったが、僕が笑わないので、ハタと真顔に戻った。
「でも、大倉はなぜ顔を押えたんでしょうね?」
と僕が言うと、
「これですわ」
と祐子が答えた。
祐子の手から、ヒュッという音と共に、何かが飛んだ。——池山が拾い上げて、
「輪ゴムじゃありませんか!」
と声を上げた。
「ええ、輪ゴムだって、命中すればかなり痛いんですよ」
祐子がニッコリ笑った。
誰もが、言葉もなく、祐子を見ていた。さすがは祐子だ!
「いや、何とお礼を申し上げていいのか——」
と、添田が、オーバーに頭を下げる。
「あなたは女神ですよ!」
と、池山が祐子の前に跪《ひざまず》いた。
何とも大時代的な光景である。
そのとき、電話が鳴った。僕が取ると、
「池沢さんかね」
と、あ《ヽ》の《ヽ》声《ヽ》が聞こえて来た。
「——僕だよ」
「一億円は用意できたか?」
と男の声が訊く。
刑事たちが、あわてて逆探知用の機械へ飛びついた。
事件はまだまだ、これからなのである。