「——何だい、ずいぶん騒がしいじゃないか、ええ?」
と、電話の声が言った。
そりゃそうだ。もとからこの家にいた、添田、池山を初めとする刑事たちの他に、応援に駆けつけて来て、そして何もしなかった、何十人もの警官が家の中をウロウロしているのである。
電話の周囲がザワつくのはどうしようもない。
「おい、警察へ知らせたんじゃないだろうな?」
と、誘拐犯——といっていいかどうか分らないが、一応そう呼んでおくとして——は、至ってオーソドックスなセリフを口にした。
「い、いや、そんなことないよ」
と、僕はあわてて言った。
添田が、刑事たちに、
「静かに! 静かにしろ!」
と、怒《ヽ》鳴《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》いた。「おい、廊下の奴ら! 静かにしろ!」
一体、この刑事、どっちの味方なんだろう! 僕はため息をついた。
「——何か怒鳴っているのが聞こえたぜ」
と、電話の声が言った。
「そう? 至って静かだよ。きっと、混線してんじゃない?」
廊下の方から、
「馬《ば》鹿《か》! 静かにしないと、警官がいるってことがばれちまうだろうが!」
と、添田がわめくのが、ハッキリと聞こえて来る。
もはや救い難い、と言うべきであろう。
「やっぱり警察へ知らせたんだな」
と、電話の声は、せせら笑うように、言った。
ああ、どうしよう! これで人質の妻の命は風前の灯《ともしび》……。ん? 待てよ。
もう美奈子は僕が殺しちまっているのだ。つまり「風後の灯」(?)なのだ。
それなら何も焦ることはない。
「どうぞ、どうぞ、幽《ゆう》霊《れい》を殺せるものなら殺してごらんなさい」
と開き直ってやればいいのだが、添田たちの手前、そうもいかない。
「いや、知らせてないよ、本当だ。今のは——TVドラマの声なんだよ!」
これは、我ながらすばらしい言いわけだと思って、自分で感動したのだが、相手は大して感動しなかった様子で、
「まあいいや」
と言った。
僕《ぼく》も少々腹が立った。きっと、センスというものを持ち合せていない奴なのに違いない!
「こっちは金さえ手に入ればいいんだ」
と、男は言った。「それで、一億円はできたんだろうな?」
「いや、それが、銀行にそれだけの現金がないんだ」
「いい加減なことを言うなよ」
「本当なんだよ!」
全く、失礼な奴だ。——まあ誘拐犯で失礼でない奴というのも、想像できないが。
「じゃ、いくらできたんだ?」
「ええと……」
僕は、添田の渡したメモを見た。「二千六百三十一万……五十円」
五十円? 何で五十円が出て来るんだ?
「ずいぶん半《はん》端《ぱ》だな」
「うん。まあね。——明日なら何とか残りを揃えられると思うよ」
「よし。じゃ、明日まで待とう」
「値上げしないでくれよ」
「分らねえぞ。時は金なりだ」
男は低い声でフフ、と笑った。こっちはちっともおかしくない。
「よし。明日の午後一時にもう一度電話をかける。そのときまでに一億円、用意できてなかったら——」
「分ってるよ。美奈子の命はないっていうんだろ?」
「いや、もう一日待つ」
何だか、誘拐犯の方も、添田刑事あたりから悪い影響を受けているかのようだった。
電話が切れた。——僕はフウッと息を吐き出した。
「おい、どうだ?」
と添田が部下へ声をかける。
「切れました」
「それぐらい俺だって分る! 逆探知のことを訊《き》いてるんだ!」
「あ、いけね。忘れてた」
と、刑事は頭をかいて、「いや、ちょっとうっかりしちゃって!——だめですねえ、寝不足だと、ハハハ……」
寝不足が聞いて呆れるよ。ゆうべはあんなにグウグウ眠《ねむ》ってたくせに!
「おい、貴様——」
と、さすがに添田も、かみつきそうな顔で迫《せま》った。
およそ人間離れした顔になる。
「待って下さい。添田さんのことが心配で一《いつ》睡《すい》もしてなかったんです。それで、つい……」
刑事の言いわけを聞くと、添田の態度はガラリと変った。
「そうか——まあいい。人間、誰しも失敗はつきものだ」
そして、僕の方へ向いて、「そんなわけです。どうか、許してやって下さい」
よく言うよ、全く!
僕は呆れたが、まあ、ここで文句を言っても始まらないので、黙って肯《うなず》いておくことにした。
「その代り」
と、添田は、きりっと顔を引きしめて、言った。「あの大倉の奴を、ギュウギュウしめ上げて、必ず吐かせて見せます!」
その「ギュウギュウ」というのが、まるで真に迫っていて、僕は、一瞬、添田にサディスティックな趣《しゆ》味《み》があるのじゃないかと思った。
「でも、刑事さん」
と、祐子が言葉を挟んだ。「今の電話は誘拐犯からでしょ? ということは、誘拐犯は大倉じゃないってことになるんじゃありません?」
「それはその通りです」
と添田は肯いて、「きっと共犯者なのに違いありません」
「でも、大倉が捕まっていることを知らないんでしょうか?」
「そうですよ!」
と、添田は目を輝かせた。
普《ふ》通《つう》、目が輝くと美しく見えるものだが、添田の目はギラギラして、何ともいやらしく見える。
「どういう意味です?」
と僕は訊いた。
「チリ紙交《こう》換《かん》です」
「——あの、『毎度お騒がせして……』ってやつに、大倉を出すんですか?」
「いや、違った! 人質交換です!」
「人質交換?」
「あっちの人質、奥さんと、こっちの大倉を取り換《か》えるのです。どうです、このアイデアは!」
すっかりいい気持になっているが、そんなことができるかどうか、ちょっと考えてみりゃ分りそうなもんだ。
さすがに、添田もそこに気付いたとみえて、
「まあ——やや、法律的に問題はありますが……」
と呟いた。
「ところで大倉は?」
「大倉は地下室へ押し込めてあります。ご心配なく」
「誰かそばについてるんでしょうね」
「もちろんですよ。池山がピッタリとくっついています」
「大丈夫でしょうね?」
「もちろんです! 襲《おそ》われるようなヘマはやりませんよ」
怪《あや》しいものだ、と思ったが、ここは放っておくことにした。
ともかく、大倉がなぜあんなことをして逃げようとしたのか。そこを確かめておきたかった。——もちろん、僕の計画には関係のないことなのかもしれないが。
「では一つ、大倉を連れて来ましょう」
と、添田は言った。「火責め、水責めにしてでも……」
ヒヒヒ、と笑いはしなかったが、やはり、どこかおかしいような顔つきで、僕はゾッとした……。
「——全く、俺一人のために、ずいぶん税金をむだ使いしてるもんだな」
ソファにドカッと座り込んだ大倉は、ゆうゆうとタバコをふかしながら言った。
「フン、負け惜しみだな」
と添田がせせら笑う。
「優《ゆう》秀《しゆう》な奴を二、三人雇った方が、こんなクズばっかり何十人も置いとくより、ましだぜ」
「クズとは何だ!」
と、添田が真っ赤になって怒鳴る。
「クズじゃねえってのか? 地下室で、『命だけは助けてくれ』とか、『俺を逃がしてくれたら、君《ヽ》のことは無実だったと証言する』とか言ってたくせに」
「そんなことを言うもんか! 証《しよう》拠《こ》はどこにある!」
と、添田は、大倉につかみかかった。
「添田さん!」
池山が添田をぐっとはがいじめにして、「殿中でござる!」
とは言わなかったが、止めたので、やっと添田は引き退がった。
これじゃどっちが犯人だか分りゃしない。
「ところでよ」
と、大倉は平然として言った。「俺にゴムを飛ばしやがったのは誰だ?」
「——私よ」
と、祐子が言った。
大倉は、ちょっと目を見開いて、祐子を眺《なが》めた。——人のものをジロジロ見るな!
「あんたが? こいつは驚《おどろ》いた!」
大倉は短く笑って、「ここにいる刑事さんたちは手も足も出なかったってのにな。こりゃ正に傑《けつ》作《さく》だぜ!」
と、今度は大声で笑った。
「こいつ——」
と、また添田が顔色を変えて殴《なぐ》りかかろうとする。
「添田さん!」
と、池山が止める。
これでも刑事なのか? 僕は、失業したら刑事になろうと思った。
「——ねえ、大倉さん」
と、祐子が言った。「素直に認めなさいよ。あなたは、負けたのよ」
「そうだな」
と大倉は肯《うなず》いた。「ただし、あんたに、だぜ。この刑事たちに、じゃない」
「あなたは大物なんでしょ」
と、祐子が言う。
「うん?——まあな。その辺のチンピラとは、ちょっと違うぜ」
「じゃ、潔《いさぎよ》く、負けを認めて、何もかもしゃべっちゃったら?」
大倉は、じっと祐子を見つめていた。——あんまり見るな、って! 減るじゃないか!
「OK」
大倉は、ちょっと肩《かた》をすくめて、「あんたは大した女だよ」
と言った。
それぐらい、僕にだって分ってる。たとえ犯罪者にしろ、僕の恋人を賞《ほ》めるとは、なかなか目のある奴《やつ》だ、と僕は感心した。
「何でも訊いてくれ。答えられることは答えるよ」
「ここの奥様を誘拐したの?」
「知らねえや」
と大倉が首を振る。
「この野郎! シラを切りやがって——」
と、ま《ヽ》た《ヽ》添田だ。
「添田さん!」
と、ま《ヽ》た《ヽ》池山だ。
どうにもワンパターンの展開である。
「じゃ、なぜあんな風にして逃《に》げようとしたの?」
「いささか後ろ暗い所はあったのさ」
「この家に関係したこと?」
「そうさ」
僕は、ちょっと眉《まゆ》を寄せた。すると、やはり大倉がこの近くにいたのは偶《ぐう》然《ぜん》ではなかったのか?
「話して」
と、祐子が言った。
「ああ」
大倉は、僕の方を見た。「俺は、あんたを殺しに来たんだよ」
——しばしの沈《ちん》黙《もく》。
「おい! また一万円札が落ちてたぞ!」
玄《げん》関《かん》の方で声がして、張りつめた緊張は一度に途《と》切《ぎ》れた。
「社長さんを殺しに?——なぜ?」
と祐子が訊いた。
「僕はこんな男、知らないぜ」
「そりゃそうさ。会うのは、これが初めてだものな」
「それじゃ……」
「頼《たの》まれたんだよ」
と、大倉は言った。
「僕を殺すように?」
「ああ。三百万だったぜ」
ずいぶん安く見られたもんだ。いや、そんなことより——
「一体誰なんだ、そんなことを頼んだのは」
と僕は訊いた。
「見当がつかねえのか?」
大倉は愉《ゆ》快《かい》そうですらあった。
「ああ」
僕は仏のような(『ホトケ』である。『フランス』ではない)人間とまでいかなくとも、そう人に恨まれるタチではない。むしろ、こっちが恨みたい方である。
こんないい人間を(当人が言うのだから、間違いない!)誰が殺そうとするのだろう……。
「教えてやろうか」
と大倉はニヤニヤしながら言った。「あんたの女《によう》房《ぼう》さ」