フン、とポチはそっぽを向いた。
こんなもん、食えるか。——俺《おれ》にだって、プライドってもんがあるんだ。
大体、檻《おり》に入れられたので、頭に来ている。扱いは乱暴だし、人権——じゃない、犬権を守ってほしいもんだね。
ポチは正直なところ、腹が空いて死にそうだった。しかし、こうなると意地で、マリの持って来る弁当以上のもんが出なきゃ食うもんか、と決めている。
「——全く、どうなってるんだ、こいつは」
と、檻《おり》の外で、男が二人、ぼやいている。
「よっぽどぜいたくしてるんじゃないのか」
「野良犬《のらいぬ》が、か?——もう二時だぜ。相当腹が減ってるはずだ」
「もう一回やってみるか?」
檻の下の方の口から、同じ「食事」が差し入れられた。
ポチはタタッと駆け寄って——。
「おっ、食うかな?」
と、男が見守っているのが、ちゃんと分っている。
「今度は——」
ポチは、わざと嬉《うれ》しそうに尻尾《しつぽ》を振って、器の中へ鼻を突っ込んで——ヒョン、と器ごと、檻の外へ押し出してしまった。
「この野郎!」
と、男はすっかり頭に来ている。「人を馬鹿《ばか》にしやがって!」
ポチはフンとそっぽを向いて、
「馬鹿を馬鹿にしちゃ悪いかね」
と、言ってやった。
もちろん、人間はポチの言葉を聞きとれないのだが、二人の男はカッカして、ポチをにらみつけている。
「ぶっとばしてやろうか」
「やってみな、かみついてやる」
と、ポチは言い返した。
「おい、よせよ。——しょうがない。何かもっといいものを食わせてやろう」
そうそう。そう来なくっちゃ!
今まで粘ったかいがあった、ってもんだぜ。
二人の男は、どこかへ出て行き、ポチは檻《おり》の中で一人(?)になった。
「やれやれ……。参ったぜ、全く」
と、グチる。「悪魔が檻に入れられてちゃさまにならねえよ……」
こんなところ、ボス[#「ボス」に傍点]に見られたら、何て言われるか。——あの天使との旅も、大分飽きて来たな。そろそろ諦《あきら》めて、目標をよそへ移すか。
——ポチがマリにくっついて歩いているのは、まあ成り行きってものもあったのだが、「成績不良」で叩《たた》き出されて来たポチとしては、堕《お》ちた天使を一人、召使にして連れて行かなくては、地獄へ戻れない。
そのためには、天使が、
「人間なんて、もう信じられない!」
と、言わなくては、だめなのだ。
もちろん、何か悪いことをやった、というのでも構わないのだが、あの天使はどうもそんな真似《まね》をしそうにない。
しかし、天使らしくお人良しで、人をすぐ信じちまうから(そうでなきゃ困るわけだけど)、裏切られることも珍しくない。
今までにも、もう少しで、
「人間なんて、信じられない!」
と、言いそうになることはあったのだが——。
ともかく、今までのところ、ポチはまだマリを「召使」にできずにいる。それどころか、人間の目には、ポチがマリに飼われているわけだ。
その点、ポチも少々プライドを傷つけられているのだった。しかし、いつかきっと……。
誰《だれ》か他に捜すといっても、地上に下りて来ている天使はそう多くない(沢山いたら大混乱になってしまうだろう)。とりあえずは、やっぱりあいつにくっついているしかないかな……。
ポチのお腹がグーッと鳴った。
「おい、早くしろよ! 飢え死にさせる気か!」
と、文句を言っていると、何やら強烈な魅力ある匂い[#「匂い」に傍点]が漂って来た。
こいつは……焼鳥かな? しかも焼きたての。
足音がして、さっきの二人の男がやって来た。——間違いない! 手にした皿には、串《くし》から外した、焼きたての焼鳥が、たっぷりたれ[#「たれ」に傍点]をつけて……。
ポチのお腹が、たちまちグーグーと騒ぎ出した。
「静かにしろい! 見っともないじゃねえか!」
と、ポチは叱《しか》ったが、お腹の方は至って正直である。
「——さ、これならいいだろ」
と、檻《おり》の下の口から、皿を入れる。「ぜいたくな奴《やつ》だ。俺《おれ》たちが食ったのと同じもんだぞ」
「へへ……。すまないね」
ポチは、すぐにも食べ始めたかったが、そこは多少、見栄《みえ》ってものもあって、わざとクンクンと匂《にお》いをかいでみたり、少し首をかしげて、迷うふりをしたり……。
が、結局、食べることにした。——やれやれ! やっと飯にありつけた!
「ポチ! ポチ!」
——ん? ポチは顔を上げた。
何か聞こえたかな? どっか遠くの方で……。何だかマリの奴の声だったみたいだけど——気のせいかな。
改めて頭を下げ、その焼鳥に、口をつけようと——。
「ポチ! だめ!」
と、頭まで貫通しそうな金切り声と共に、マリが凄《すご》い勢いで飛び込んで来た。
そして目を丸くしているポチの前で、檻の外にパッと腹這《はらば》いになると、檻の中へ手を突っ込み、焼鳥ののった皿をつかんで檻の外へと投げ出したのである。
二人の男も呆気《あつけ》にとられていたが、ポチの方は頭に来た。
「何しやがるんだ! せっかく出たもんを」
「馬鹿《ばか》! あれは毒なのよ!」
「何だと?」
「あんた、殺されるとこだったのよ! 食べてないでしょ?」
「あ……ああ」
「一口も? 本当ね!」
「ああ、まだこれからだった。——毒だって? 本当か?」
「良かった! 間に合った!」
マリは、檻の前にペタンと座り込んでしまう。
「あんた、この犬の飼主かね」
と、係の男が言った。
「そうです! 殺さないで! 引き取って帰りますから」
マリがハアハア息を切らしつつ、言った。
「しかし……困るよ、鑑札《かんさつ》も何もなしで」
「すみません。私がうっかりしてて……。でも、間違いなくうちの犬なんです。野良犬《のらいぬ》じゃないんですから……。殺さないでしょ?」
マリの額に汗がふき出している。よほど必死で走って来たらしい。
「何か、身許《みもと》を証明する物はある?」
「証明する物ですか……。私、アルバイトしてるだけですから——」
「じゃ、自宅は?」
「あの——社宅に」
「犬は飼えるのかい?」
「いえ……。アパートですから」
「それじゃ困るんだよ。結果としては野良犬と変らない。そうだろ? その場合は、犬を預かってくれる人とか、もらってくれる人を捜してくれないとね」
「はあ……」
「あんまりたち[#「たち」に傍点]の良くなさそうな犬だし、誰《だれ》かにやっちまったらどうだい」
そう言われて、マリはキッとなって、男をにらんだ。
「じゃあ、人の言うことをよく聞く、おとなしい犬は大切で、そうでない犬はどうでもいいんですか?」
と、詰め寄るようにして、「そんなの間違ってます! 人の気に入るかどうかなんて、犬の値打ちとは関係ありません。そんなの、人間の都合じゃありませんか。頭のいい子と悪い子で、人間としての権利に差がつくんですか?」
「おいおい……」
と、係の男が困っている。
「失礼します」
と、声がして、「——私は田崎と申します。その犬につきましては、間違いなく、当家でお預かりいたしましょう」
何だ。こいつは?
ポチは目を丸くして、急に現われた妙な奴《やつ》を眺めていた。
「何です。あんたは?」
と、係の男はいぶかしげに見ていたが、田崎の格好が、いかにも上等で、きちんとしているのを見て、肩をすくめた。
「——分りました。じゃ、連れてって下さい。しかし、ちゃんと鑑札《かんさつ》や予防注射は受けさせておいて下さいよ」
「かしこまりました」
と、田崎が頭を下げる。
「じゃ……出してもらえるんですね!」
マリは、ホッと息をつき、「良かった!」
と言ったと思うと、ドサッとその場に引っくり返ってしまったのだった。
「——どう?」
と、マリが訊《き》くのにも、ポチはまるで返事をしなかった。
口一杯に食べ物が詰まっている状態では、いくら悪魔だって、返事はできないのである。
「ともかく、間に合って良かったわ」
マリは、息をついて、「私も、あんたの食べっぷり見てたら、お腹《なか》が空いたわ。じゃ、食べ終ったら、待っててね」
マリはピョンと飛びはねるような足取りで、田崎が先に入って待っているレストランに入って行った。
「ありがとうございました、本当に」
と、田崎に向って頭を下げる。
「いやいや、ともかく、助かって良かったですね。——かけて下さい。何か食べませんか?」
「じゃあ……。でも、私、あんまりお金持ってないんです」
「あなたに払わせたら、こっちがクビですよ」
と、田崎が笑う。
で、遠慮なくマリも食事をとることにした。——ポチの方は、買って来た弁当で満足しているのだ。もちろん、お腹が空きすぎているからだろう。
「しかし、あなたはやさしい人だな」
と、田崎が言った。「あの犬を助けようとして必死になるのを見ていたら、悪くないと思い始めましたよ」
「悪くないって……?」
「坊っちゃんの奥様としてです」
マリは、食べかけの魚が喉《のど》につかえて、むせ返った。水をガブ飲みして、やっと息をつくと、
「——すみません。私、色々役目があって……。お気持は嬉《うれ》しいんですけど」
と、言った。
「嬉しいと言ってくれただけでも、嬉しいな」
と、声がして——田崎の隣に、さっぱりしたセーター姿の若者が座る。
「は?」
マリはキョトンとして、それから、目をみはった。「あなた……。あの『何も買わないお客』?」
見違えるようにスッキリして、確かに顔色は青白いが、不健康な印象はなかった。そして、なかなか二枚目でもあった。
何しろマリも今はうら若き乙女。少々照れて顔を伏せ……そして、食事はしっかり続けていた。
「坊っちゃんが、やっと人間らしくなられてホッとしました」
と、田崎が言うと、
「オーバーだよ」
と、苦笑して、「僕は山倉|純一《じゆんいち》。君は——マリさんというんだってね」
「そうです。簡単でいいでしょ?」
「田崎から聞いたかもしれないけど——」
「お嫁入りの話ならお断りします。私、これでも忙しいんです」
と、言ってから、「そうだ! 早くとりかからないと——」
「コンビニエンスは、まだ仕事時間じゃないだろ?」
「空いた時間にやることがあるんです。お給料は出ませんけど」
「じゃあ、ボランティア?」
「そう……ですね」
天使の仕事を「ボランティア」と呼ぶのかしら……。マリは、ちょっと考えたが、ここで悩《なや》んでも始まらない。
「あ、そうそう。——新聞、新聞」
レストランのレジのそばに今日の新聞が置かれているのだ。マリは急いで取って来た。
ゆうべの大天使様の話の通りなら、死体がなくなって、大騒ぎしているはずだわ、と後でマリは思い付いたのである。
つまり、一方の死体が消えていたら、そっちが天国で間違って生き返らせた方、ということになる。もちろん、捜して見付けるのは大変だけど、少なくとも生き返ったのが、宮尾常市、勇治の兄弟のどっちなのか、それだけは分るというものである。
社会面をめくると、マリは必死で隅から隅まで目を通した。
しかし——どこにもそんな記事は出ていないのである。
「おかしいなあ……」
まだのってないのかしら? でも、時間的に言えば……。夕刊ぐらいでないと間に合わないのかな。
「どうかしたの?」
と、山倉純一が訊く。
「ええ……。死体が——」
と、マリは新聞をせっせとめくりながら言った。
純一と田崎は顔を見合せた。
「君——今、『死体』って言ったの?」
「なくなってるはずなんですけど……。出てないわ。どうしたんだろ」
マリは首をかしげて、「ね、TVのニュースでやってませんでした? 死体が消えちゃったって」
「さあ……」
と、田崎が首をかしげる。「しかし——それとあなたとどういう関係が?」
「ええ……。ちょっと。尋ね人なんです」
マリは諦《あきら》めて新聞をたたむと、「田崎さん。——死体ってどこに置いてあるんですか?」
と、訊《き》いた。
「久保《くぼ》さん、どうしたの?」
と、ミユキに声をかけられ、久保|安夫《やすお》はドキッとして、手にしていたサンドイッチを落っことした。
幸い、床まで落ちずに、膝《ひざ》の上にあったので、急いで拾って頬《ほお》ばる。
「君か……。何だい?」
と、缶コーヒーでサンドイッチを流し込む。
「別に……。ただ、何だかボーッとしてるから」
ミユキは隣の椅子《いす》をガタつかせて座ると、
「さては恋でもしてるの? 美女の死体[#「死体」に傍点]に」
と、微笑《ほほえ》んで言った。
「からかうなよ」
久保は苦笑した。「こんな冷たい[#「冷たい」に傍点]場所じゃ恋もできないさ」
自動販売機が、ブーンと音をたてている。
これが〈食堂〉なんだから! 味もそっけもありゃしない。
「ね、久保さん、今夜よかったら、付合わない?」
と、ミユキが言った。「面白いカフェバー、見付けたの。暇なら——」
「ありがとう。悪いけど、今日はちょっと残ってなきゃいけないんだ」
と、久保は首を振った。
「残業? 新人[#「新人」に傍点]が入って来るの?」
「そうじゃない。整理しとかなきゃいけない書類があってね。仕事時間中は結構忙しいだろ。だから、夜、一人でやろうと思ってさ」
「そう。——じゃ、また今度ね」
ミユキは、アーアと伸びをして、「あと二十分でおしまいか。じゃ、席に戻ってるわ」
「うん……。気を付けて」
何となく、そう言ってしまう。——普通、職場で「気を付けて」とは言わないものだが、ここは、何だかそう言いたくなる雰囲気を持っている。
ここはいわゆる「死体置場」である。
もちろん、どんなことでも「仕事」となれば、慣れてしまうし、事務的に考えられるようになる。その点、久保安夫もそうだった。
ただ、久保が、四十八歳の今日まで独身でいたのは、やはり毎日毎日、運ばれてくる老若男女の身許《みもと》のよく分らない死体、引き取り手のない死体を見つづけていたことと、多少は関係があるかもしれない。
人の命なんて、儚《はかな》いもんだ……。
ここに勤めて二十年、それは正に「実感」として肌にしみ込んでいる。
たまに、まだ二十三歳という若さの、どうしてこんな所に、と思うような、可愛《かわい》い事務員のミユキ(久保は名前しか知らない)が久保を誘ってくれる。——この一年ほど、二人は時々ホテルで泊る仲だった。
久保には、どうしてミユキが自分みたいな老け込んだ中年男に好意を持ってくれるのかよく分らないのだが、ありがたいとは思っていた。
今夜だって——事情が許せば、喜んでミユキと一緒に行っただろう。
しかし、そんな呑気《のんき》なことを言ってる場合じゃない。——二十年来で初めての、とんでもないことをやってしまったのだ。
もちろん、特別な事情だったのも確かである。双子の兄弟。信じられないくらい、よく似ている。
予《あらかじ》め、そのことは知らされていた。だから、久保も二つの死体を取り違えたりしないよう、離れた部屋に置いて、きちんと札もつけておいた。マジックで印もつけた。
ところが——その一方が、消えて[#「消えて」に傍点]しまった。
そして残る一つの死体の方は、マジックでつけた印が、消されていたのだ。
何てこった!
久保は、まだ誰《だれ》にもこのことを話していない。もちろん上司へ報告すれば大騒ぎだろう。
しかし、どうしてこんなことになったのか。未《いま》だに分らない。
誰かが死体を盗んで行った、としか考えられないのだが、一体何のために、そんなことをするのだろう?
そろそろ五時か。——みんなが帰れば、ここは久保一人になる。
久保は、一人で残って、なくなった死体を、もう一回捜してみようと思っていたのである。
何かの手違いで、どこか他の所へ紛《まぎ》れ込んだということも考えられる。——そうだ。きっと、そうなんだ。
空の缶を捨てて〈食堂〉を出ると、久保は冷たく光るリノリウムの廊下を歩いて行った。一応白衣を着ているので、医者のような外見だったが、ここには、生きて帰る者はやって来ないのだ……。
廊下の反対側から、白衣を着た男がやって来た。すれ違う時、顔を伏せ気味にしていたので、良く見えなかったが……。
あんな奴《やつ》、いたかな?
久保は首をかしげた。同時に、どこか[#「どこか」に傍点]で会ったことのある男のようにも思えたのである。
気のせいだ。——こんな所に何十年もいると、何でもないことが気になるもんだよ、と久保は思った。
五時のチャイムが鳴った。久保は、ミユキの誘いを断ったことを、チラッと後悔していた……。