「フフ、あの女《によう》房《ぼう》ったら、青くなって、見らんなかったね」
と、歩きながら、娘が言った。
「ちょっと哀《あわ》れになったよ」
と父親の方がタバコをくわえて、火を点《つ》ける。
「あら、仏《ほとけ》心《ごころ》なんか出したらだめよ」
と娘の方は澄《す》まして、「せいぜいお金をふんだくってやらなきゃ」
「しかし、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か?」
「何が?」
「あの女はともかく、父親となると、あれこれ調べて回るかもしれん」
「その隙《すき》を与《あた》えないことよ」
「どうするんだ?」
「このスキャンダルを、あちこちに売り込《こ》むと言っておどすのよ」
「なるほど」
「向うは、事実かどうかなんてことより、書かれるかどうかであわてるわ。素《す》早《ばや》くやるのよ」
「お前は利口だ」
と、笑《わら》って、「さすがに俺《ヽ》の《ヽ》女《ヽ》だよ」
と肩《かた》に手を回す。
「でも、うまい具合に、本当にあいつと一時期同《どう》棲《せい》してたしね」
「ぶっ殺してやりたかったぜ」
「殺さなくて良かったでしょ」
「全くだ」
と父親——いや、男は笑った。
「一度じゃもったいないわ。何度だって絞《しぼ》り取れる」
「じわじわ、とな。——それは俺《おれ》に任《まか》せろよ。ベテランだ」
「なるほどね」
と声がして、二人はギョッと振《ふ》り返った。
明子である。
「お話はうかがいましたよ。——たちの悪い人たちね」
「黙《だま》ってた方がいいよ」
と女が言った。「この人、おとなしそうに見えても、怖《こわ》いんだからね」
「そうとも。——お前も馬《ば》鹿《か》じゃあるまい?」
「あなたたちほどはね」
「何だと?」
男がカッとしたように前へ出る。
「少し痛《いた》い思いをさせた方がいいわ」
と、女が言った。「でも、骨《ほね》は折らないようにね」
「任せとけ」
と男が進み出て、ぐいと明子の腕《うで》を——つかんだはずだったが、明子の体がスッと沈《しず》んだと思うと、男の体はぐるっと一回転して、地面に叩《たた》きつけられた。
「ウ……」
と、呻《うめ》いて、喘《あえ》ぐ。
「あなたたちのことを、知美さんへ話して来るわ」
と、明子が戻《もど》って行く。
「待て! 畜《ちく》生《しよう》、ふざけやがって!」
男の方は、顔を真っ赤にして起き上ると、明子の背《せ》中《なか》へと駆《か》け寄《よ》った。
明子はクルリと振《ふ》り向くと、前かがみになって、男が突《つ》っこんで来る、腰《こし》の辺りへ頭を入れた。
男の体はそのまま宙《ちゆう》を真直ぐに進んで、落下した。
「——のびちゃった」
明子は、ポンと手を払《はら》って、「鼻の骨《ほね》が折れたかもね。医者へ行ってレントゲンとった方がいいわ」
と言った。
女の方は真っ青になっている。
「ねえ、あんた」
明子に声をかけられると、ピクッと身をちぢめて、
「助けて! 勘《かん》弁《べん》してよ!」
と悲鳴を上げる。
「妊《にん》娠《しん》中なんでしょ。何もしないわよ。でもね、今度知美さんに近づいたら、腕《うで》の一本ぐらい折られると思っといた方がいいわ。分った?」
女がコックリと肯《うなず》く。
明子は悠《ゆう》然《ぜん》と立ち去った。
明子が、白石の家へ戻《もど》ってみると、奥《おく》の和室に、もう知美の姿はなかった。
火《か》葬《そう》場《ば》へ行ったのかしら?
明子がまた表へ回ろうとしていると、
「知美さんは?」
と、声がした。
「さあ、さっきまでそこにおられましたけど——」
使用人らしい女《じよ》性《せい》の声。
してみると、どうやら出ているわけでもないらしい。
「もしかして……」
まさか、とは思ったが、いやな予感がして、明子は裏《うら》へ戻《もど》った。
廊《ろう》下《か》から、家の中へと走り込《こ》む。
「失礼……」
さっきの和室を通って、その奥《おく》の襖《ふすま》を開け、明子はギョッと立ちすくんだ。
鴨《かも》居《い》から紐《ひも》が下って、そこに知美が——。今まさに乗っていた椅《い》子《す》をけったところだった。
「だめ!」
明子は駆《か》け寄《よ》って、知美の体をかかえ上げた。「外しなさい!」
「死なせて! お願い!」
と、知美が暴《あば》れる。
離《はな》してなるものか、と明子は必死で、知美の足にしがみついて、体を持ち上げていた……。
「まあ、そうだったの?」
知美は、頭を下げた。「ごめんなさい、何も知らなくて」
「いいえ……」
明子は頭を振《ふ》りながら言った。「それにしても、よく殴《なぐ》ってくれたわね」
「本当にごめんなさい」
「いいの。石頭だから」
と、明子は苦《く》笑《しよう》した。
「今、お茶を——」
「コーヒーある? 少しはスッキリすると思うの」
探《たん》偵《てい》は時には殴られ、けられることに、じっと堪《た》えなくちゃいけないんだわ、と明子は思った。
——和室でコーヒーというのも、少し妙《みよう》だったが、ともかく、やっと明子の頭も正常な活動を取り戻《もど》し始めていた。
「ご主人は気の毒だったわね」
「本当に——今でも信じられなくて」
と、知美は言った。「だから、火《か》葬《そう》場《ば》にも行かなかったの」
「どうして?」
「もしかして、死んだのは、あの人とそっくりの別の人で……。よく言うでしょう。世の中には、そっくりの人がいるって」
「ええ」
「だから、ヒョイと帰って来るんじゃないかって——。そして、『今日は誰《だれ》のお葬《そう》式《しき》なんだ?』って訊《き》くの」
そう言って知美は、ちょっと笑《わら》った。
もちろん、そんなことがないのは、彼女《かのじよ》にも分っているのだ。——しかし、明子には、知美の気持も、よく分った。
「ご主人が殺されたときのことを聞きたくて来たの」
と、明子はわざと事《じ》務《む》的《てき》な調子で、言った。
「まあ。どうして?」
「実は、この間、あなた方の所へ行ったのは、お金を返しにじゃなかったの」
明子は、あの式場で死んでいた謎《なぞ》の花《はな》嫁《よめ》のことから説明した。
「——そんなわけで、あの日の何組かの夫《ふう》婦《ふ》のことを調べていたのよ」
「そうだったの」
「騙《だま》してごめんなさいね」
「いいえ、そんなこと……」
と、知美は首を振《ふ》って、「茂木こず枝……。私も聞いたことないわ」
「そう。——それはともかく、あのとき、ご主人は——」
「ええ、私たちレストランへ入っていて……」
知美は、夫が死んだときのことを、思い出しながら話した。
「——警《けい》察《さつ》は何と?」
「ただの通り魔《ま》的《てき》な犯《はん》行《こう》じゃないか、って……」
「その可《か》能《のう》性《せい》はあるわね」
「でも——ちょっと気になることがあるの、私」
「どんなこと?」
「彼《かれ》が、アルバイトをやる、と言ってたでしょう」
「ええ、それが?」
「その仕事の中身を、あの人、全然、話してくれなかったの」
「というと?」
「訊《き》いても、話しちゃいけないことになっている、って……」
「何か——よからぬことでも?」
「そうかもしれないわ。後になって、そう思ったの」
「何かそれらしいことが?」
「いいえ」
と、知美は首を振《ふ》った。「でも、正直言って、あの人は、仕事するのが嫌《きら》いだったの。怠《なま》け者だったわ。人は良かったけど」
なかなか良く見ている。
「あの人が、誰《だれ》からも押《お》し付けられずに、仕事を捜《さが》すなんて、ちょっと考えられないわ。後で主人の父なんかにも訊《き》いてみたけど、そんな話は知らない、って」
「すると、その仕事のことで、ご主人は殺されたのかしら?」
「そうかもしれないわ。あんな風に突《とつ》然《ぜん》、殺されるなんて、おかしいでしょう? 前から誰かと争ってたとかいうのなら、ともかく」
「そうねえ」
「あの人が『仕事』を見付けて来て、すぐ殺された。——それが偶《ぐう》然《ぜん》とは思えないの」
知美の言葉に、明子は肯《うなず》いた……。