「ねえ、見た?」
「何? 殺人の記事?」
「そう。凄《すご》いじゃない、切り裂《さ》かれてたんですって?」
「今朝《けさ》のTVのニュースでやってたわよ、現場」
「本当? 見なかったわ、凄かった?」
「そんなにはっきり写らないけど、血が広がっているのがちょっと見えた」
「へえ! 怖《こわ》いねえ」
「変質者かしら」
「でも、女を狙《ねら》ってるわけじゃないのね。恨《うら》みかもしれないわよ」
地下鉄の話し声は、騒《そう》音《おん》と競って、どうしても大きくなる。
そのOLたちの話は、すぐそばに立っている私の耳に、いやでも飛び込んで来た。
顔を上げれば、こんな満員電車で、やめればいいのに、小さく折りたたんだ新聞を読んでいる人がいる。
その見出しが、自然、私の目に入るのだ。——
〈霧の夜の殺人〉。
私が夢《ゆめ》見た通りの見出しである。さすが一流紙は、〈切り裂きジャック〉を引き合いに出してはいなかったが、もう少し大衆的な新聞は、まともに〈切り裂きジャックの再来か!〉と大々的に報じていた。
そうだ。望んだ通りになった。
ただ、問題は、桜田を殺したのが、私ではないということだった。
出社すると、社内でも大《おお》騒《さわ》ぎになっていた。もちろん桜田が顧《こ》問《もん》だったこと、昨夜、ここに来ていたことも、みんな知っているのだろう。
「おい平田!」
席へつくなり、山口課長が呼《よ》んだ。
「はあ、何か……」
「何か、じゃない。新聞を見たろう」
山口は不《ふ》機《き》嫌《げん》だった。
「はい。桜田さんはお気の毒でした」
「お気の毒か。——全くいい迷《めい》惑《わく》だ」
「といいますと……」
「警《けい》察《さつ》が何か訊《き》きたいそうだ。小浜君とお前にな。九時半にここへ来る」
「分りました」
「いいか、うちの社の名前が出ないように気を付けてしゃべれ」
「はあ。でも、何もお話しするほどのことはありませんが」
「そう言えばいいんだ。余計なことは言うなよ」
「分りました」
「小浜君にもそう言っておけ」
どうやら山口は、K物産の名が傷《きず》つけられて、その責任を取らされるのが怖いらしい。
私は小浜一美の席へ行った。——まだ彼女は出社していなかった。
珍《めずら》しいことだ。いつも彼女は十分前には出社している。
受付に行って、
「小浜君、休みって連《れん》絡《らく》は来てる?」
と訊いてみた。
「いいえ、何も」
ただ遅《おく》れているだけなのか。私は、何となく落ち着かない気分で席に戻《もど》った。
——昨夜、あの細いわき道を覗き込んで、血まみれになっている桜田を見付けたときの驚《おどろ》き……。
気が付いたときは、夢《む》中《ちゆう》で大通りへ向って歩いていた。霧の中から、オートバイが飛び出して来て、危《あや》うくはねられそうになり、そのせいでやっと気持が鎮《しず》まったのである。
アパートへ帰り着いて、私は、冷静に思い出してみた。桜田を誘《さそ》っている女がいた。
そして、桜田の呻《うめ》き声。——女が出て来て、私を見ると背を向けて逃《に》げて行った。
あの女が犯人なのだ。他には考えられない。まさか、女が、とも思うが、鋭《するど》い刃《は》物《もの》なら、力は大して必要としないだろう。
だが、あの女のことはほとんど分らない。深い霧の中、白っぽいコート姿だったが、それ以外、何も見えなかったのだ。中肉中背、長い髪か。——それだけではとても手がかりにはなるまい。
もちろん、桜田をつけていたことや、犯人らしい女を目《もく》撃《げき》したことを、警察にしゃべるわけには行かない。
それにしても……切り裂きジャックの再来を目指す私の目の前で、全く、ジャックそのままの手口の殺人が起こるとは。
何という皮肉な巡《めぐ》り合せだろうか。
九時半にならない内に、刑《けい》事《じ》が二人、やって来た。
「——桜田さんはここの会議に出ておられたそうですね」
応接室で、二人の刑事の内、若いほうが訊いて来た。
「そうです」
と私は答えた。
「会議は何時頃《ごろ》までかかりました?」
「ええと……九時頃ですね」
「桜田さんはその後、〈S〉というバーへ行っていたようですが」
「そうらしいですね。新聞で見ました。桜田さんのごひいきの店でした」
「二人ほど連れがいたようですが、誰《だれ》だか見当はつきますか?」
「たぶん……池《いけ》屋《や》さんと水《みず》島《しま》さんじゃありませんか。確か帰りがけにあのお二人に声をかけておられたようです」
若《わか》い刑事はその二人の住所や連絡先をメモした。
「帰るときに——いや、会議の途中でもいいんですが、桜田さんが誰かに命を狙《ねら》われているとか、そんな様子はありませんでしたか?」
「さあ、特に気付きませんでしたが」
と私は首を振《ふ》った。
「いつもと違《ちが》っていたところとかには、気付きませんでしたか?」
「さあ、別に」
「そうですか」
若い刑事は、やや不満そうだった。しかし、言うべきことがないのに、でたらめも言えない。
もう一人の、中年の刑事が口を開いた。
「我々としては、通《とお》り魔《ま》的な犯行と、怨《えん》恨《こん》による犯行という、二つの線を追って行く方《ほう》針《しん》なんですよ。それで、しつこくお訊《き》きしているわけです」
「はあ」
と私は言った。
他に言いようがないではないか。
「昨夜、会議に出ておられた社員の方は、あなただけですか?」
「いや、もう一人、女性が……」
「その方にもお会いしたいですね」
「今日は休んでいるようです」
「お名前は?」
「小浜一美です。——ええ、その字です」
「どこにお住まいです?」
「調べて来ますか?」
「できれば」
「お待ち下さい」
全く警察というのはしつこい連中だ。私は受付へ行った。
「小浜君から連絡は?」
「ありません」
「そう。彼女の住所と電話、教えてくれないか。——うん、メモしてくれ」
応接室へ戻ると、私はそのメモを渡した。
「どうもお邪《じや》魔《ま》しました」
中年のほうの刑事は会《え》釈《しやく》して言った。若いほうは、ぶっきら棒《ぼう》に、
「どうも——」
とだけ言った。
やれやれ。私は席に戻って、仕事を始めた。
「おい、平田」
と山口課長がやって来て、「何か訊かれたか?」
「別に大したことは……」
「そうか。それならいい」
なぜ課長はああも気にするのかな、と私は首をひねった。
まあいい。そんなことを考えている暇《ひま》があったら、仕事をさっさと片付けよう。
昼休み、外はよく晴れ上がって、昨夜の霧が嘘《うそ》のようだ。
私は例によって、会社の食堂には行かず、近くのピザハウスで昼食を済ませた。コーヒーをゆっくりと飲んで、一時二、三分前に会社へ戻ったのだが……。
「おい! どこにいたんだ!」
とたんに山口課長の声が飛んで来る。
「昼食ですが」
「こっちへ来い!」
山口はまた何やら苛《いら》々《いら》しているらしかった。
「どうして黙《だま》っていたんだ!」
いきなりかみつかれて、私は当《とう》惑《わく》した。
「何の話ですか?」
「ゆうべのことだ」
「ゆうべ……。会議のことで何か?」
「桜田さんがえらく怒ったというじゃないか!」
「ああ、あのことですか」
私は、ホッとした。山口が何を言い出したかと思ったのだ。
「ちょっとタイミングが悪くて——」
「小浜君を怒《ど》鳴《な》りつけていたんだそうだな」
「ええ。ですが、小浜君に責任はありません。むしろ桜田さんが不注意だったんです」
「どうでもいい」
山口はなぜか急に元気を失ったようで、「えらいことになった」
と呟《つぶや》いた。
「あの件で何か?」
「警察は小浜君を疑《うたが》っているらしい」
私は呆《あつ》気《け》に取られ、それから、笑ってしまった。
「まさか……」
「本当だ。小浜君のアパートへ行ったらしい。彼女《かのじよ》はいなかった」
「そりゃ、出かけることぐらい、あるでしょう」
「そうじゃない!」
山口は手で机《つくえ》をバンと叩《たた》いた。「アパートから出て行ったんだ。身の回りのもの、現金、全部持って出ているらしい」
私には到《とう》底《てい》信じられなかった。彼女が犯人だということではなく、警察が、本当に彼女に容《よう》疑《ぎ》をかけているということが、である。
いくら、仕事で怒鳴られたからといって、その相手をナイフで切り裂いたりするはずがないではないか。
「彼女はお母さんと暮《くら》してるんじゃないんですか?」
「小浜君の母親は去年亡《な》くなってるよ。知らなかったのか?」
「ええ。じゃ、独り暮しだったわけですね」
「そうだ。——全く、えらいことになった」
「小浜君はそんなことはしませんよ」
「俺《おれ》がどう思うかは関係ない。警察がどう思うかだ。お前の話もまた聞きたいと言って来たぞ」
私は席へ戻った。
さっき、刑事に教えた、会議の出席者が、きっとあの出来事をしゃべったのに違いない。余計なことを!
それにしても、小浜一美はどこへ行ったのだろう? アパートを出たというが……。
午後の仕事は、さっぱり手につかなかった。一時半頃、またあの二人の刑事がやって来た。
今度は同行せよということだった。公用だから仕方ない。私は山口課長に断って、社を出た。
パトカーに乗ると、若いほうの刑事が、
「なぜ隠《かく》してたんだ?」
と脅《おどか》すような調子で言った。
「お茶をひっくり返したぐらいのことを、なぜしゃべらなきゃいけないんです?」
私は言い返した。中年の刑事が、若い刑事をたしなめるようににらんでから、
「すみませんね」
と私に向って微《ほほ》笑《え》みかけた。「いや、悪気はないんです。いつも一《ひと》筋《すじ》縄《なわ》で行かない連中を相手にしているのでね。つい口も悪くなります」
「どこへ行くんですか」
「小浜一美のアパートです」
私はチラッと刑事のほうを見て、
「もう呼《よ》び捨《す》てですか。逮《たい》捕《ほ》状でも出てるんですか?」
「これは一本取られたな」
と中年の刑事は笑って、「いや、我々もね、小浜さんが行方《ゆくえ》をくらましたりしなきゃ、まさか疑ったりしませんよ」
「どこかへ出かけてるんでしょう」
「旅行へ行くとか、そんな話を聞いていますか?」
「いいえ。別に小浜君と親しかったわけではありませんからね」
「なるほど。——昨夜の出来事について、あなたの口から聞かせて下さい」
あれは桜田の不注意だったのだ、と私は説明した。
「もちろん、彼女としては悔《くや》しかったでしょう。涙《なみだ》も浮《う》かべていました」
「カッとなって殺すぐらいに?」
と若い刑事が、また突《つ》っかかって来る。
「あの程度のことで相手を殺していたらね、サラリーマンは全員人殺しですよ」
と私は言った。「それに彼女は、実に良くできた人でした。会社の誰にでも訊いてみるといいですよ」
しばらく沈黙が続いた。——やがてパトカーは、入りくんだ道を縫《ぬ》って、アパートの建ち並《なら》ぶ一角で停《とま》った。
「この奥が、小浜さんのアパートです」
私は、馬《ば》鹿《か》馬鹿しいと思いつつ、仕方なく二人の刑事について行った。
「これですよ。——誰か来たぞ」
と、中年の刑事が、走って来る男に目を止めた。
「川《かわ》上《かみ》さん!」
と、やはり刑事らしい若い男は、中年の刑事に声をかけた。
「何かあったか?」
「凶《きよう》器《き》らしいナイフを見付けました。来て下さい」
そんな馬鹿な! 私は思わず口に出しそうになって、あわてて口をつぐんだ。