堀井と同じように、直良もまた、阿波池田から松山へ出てきたときは、『菊水本館』を常宿にしていたのである。しかも今回の仕事は、堀井の出張に合わせてのものだから、なおのこと、同じ旅館に泊まるほうが便利だった。
「打ち合わせは、新製品の防腐木材に関してでしたが、この技術提携がすんなりいきましてね、仕事が一日で片付いたってわけです」
堀井は東京本社へ電話を入れて年休を取り、直良も予定切り上げで、一泊で阿波池田へ引き返すことになった。
「四国観光に大歩危《おおぼけ》を落とすことはできない、と、直良さんに強く勧められましてね、工場へ帰る直良さんと、阿波池田までご一緒したのですよ」
と、堀井は言った。
池田では、ついでだからと直良の製材工場を見学し、一列車遅らせて、大歩危へ向かったという。
(それだけのことなら、下請け業者の証言でも、差し引いて聞くこともないか。大歩危までは、どうって問題もない)
と、矢島部長刑事は考えた。
問題はその夜の、�予定宿泊先�だった。土讃本線に乗り換えての四国観光だから、高知へ抜けて、桂浜《かつらはま》か室戸《むろと》岬へでも行くのかと思ったら、そうではなかった。
朝、道後温泉の『菊水本館』に頼んで予約してもらったのは、高松市中央町の、『高松アストリアホテル』だった。
「と、いうことは、大歩危峡を観光しただけで、また瀬戸内海へUターンの予定だったのですか」
「そうです。最初からそのつもりでした。土讃本線に乗ったのは、大歩危だけが目的でした」
と、堀井は言った。
人気《ひとけ》のない駅を出ると、大歩危橋を渡って国道を歩き、レストハウスの駐車場沿いに、峡谷の船乗り場まで下りた、と、堀井はつづけた。
「観光船に乗っていたのは、三、四十分だったでしょうか。船は、観光バスできた団体客で結構込んでいましたよ」
「帰りも列車でしたか」
「大歩危駅で、三十分ばかり待たされました。高松行きのL特急に乗りました。�しまんと�何号だったかな」
そうそう、大歩危駅の小さい待合室には、大きい囲炉裏《いろり》がありましたよ、と、堀井は、いかにも五日前を思い起こすようにして、こたえた。
山峡もいいが、栗林《りつりん》公園や屋島《やしま》を歩き、�オリーブライン�の高速艇で小豆島《しようどしま》へも行ってみたい。
そう考えて、港と駅に近い『高松アストリアホテル』を足場にしたのだ、と堀井は言った。
高松泊まりに、隠された意図はなかったのか。
「高松には何時に着いたのですか」
「時刻表を見なければ、正確なことは分かりませんが、夕方の五時頃だったと思います」
「それも、予定どおりですか」
「いえ、高松駅に何時に着くということまでは決めてありませんでした。屋島などの観光は翌日からなので、あの日は、夜までにホテルに入ればよかったのですから」
と、堀井は一定の口調でつづけた。
そのことばの裏に潜むものを、矢島は見逃さなかった。
夜までに『高松アストリアホテル』にチェックインするというのは、�大歩危観光�以降はフリーということではないか。この自由な時間に殺人を仕込むのは、それほど困難ではあるまい。
松山—高松間は、L特急を利用すれば、三時間とかからない距離ではないか。
松山港付近での十八時三十分頃の凶行後、人目を避けて上りのL特急に乗り、その夜のうちに高松のホテルにチェックインすることは、不可能ではない。
堀井は、夕方までに、もう一度松山へ引き返したか。
この仮説が事実なら、阿波池田—高松間の堀井の存在を証明する人間は、だれもいないことになろう。
「直良さんとは、製材工場を見学したところで別れたのですね」
「別れたのは工場ではありません。車で駅まで送ってもらいました」
直良はホームまで入ってきて、阿波池田始発の、下りの発車を見送ってくれたという。
「その後は高松へ着くまで、知人とは会われなかったわけですね」
これが、新しい質問の隠れたポイントだ。
「知人には会いませんでしたが」
と、堀井は考えるようにして、こたえた。下りホームで、たまたま直良の知人に会い、紹介されたという。
「その男性とは、途中駅まで一緒でした」
「土地の人ですか」
「ええ、大王製紙の社員で、四国本社の総務部にお勤めの、岩川《いわかわ》さんという人です」
岩川は私用で、阿波川口の本家へ行くところだった。阿波川口駅は急行が停車しないので、岩川は阿波池田駅で普通列車に乗り換え、堀井と一緒になったわけである。
池田から川口まで、いくらの時間でもなかったが、二人はことばを交わしながら、同行したという。
「岩川さんは前に、小田原の関連会社に出向していたことがあるとかで、神奈川や東京の話を、なつかしそうにしていましたね」
その岩川が下車した阿波川口は、大歩危の二つ手前の駅だ。
少なくとも、そこまでは、確かな証人がいたことになる。
と、すると、問題は、大歩危峡観光の後だ。
「刑事さん、旅先ですよ。そうそう知っている人間に会ったりしますか」
堀井は、また口元に皮肉な笑みを浮かべたが、それから以降は、矢島部長刑事の見込みどおり、ブランクだった。
証人なしの空白ではあるが、しかし堀井の説明は一貫しており、その説明に因《よ》る限り、殺人タイムを組み込むのは不可能だった。
堀井の�完全計画�に亀裂を生じさせたかと思ったアクシデント、『和平興産』社長の急死が、逆に、崩れそうなアリバイの、防護壁の役を成してきたのだ。
それは、事後工作として、社長の他界を利用したのに違いないと思われた。が、いくら工作が見え見えであったとしても、平然と堀井が口にする説明を、この場で突き破ることはできなかったのである。
堀井は、またラークに火をつけた。
「和平興産の社長が他界されたことを知ったのは、高松駅のホームでした。ええ、大歩危から引き返して、夕方高松に着いた私は、ホームで買った夕刊で、社長さんが亡くなられたことを、知りました」
びっくりした堀井は、思わず、夕刊各紙を買い求めたという。地元紙には出ていなかったが、全国紙の夕刊は、いずれも、単なる死亡記事以上の扱いをしていた。
「のんきに観光などしているわけには、いきません。私は、すぐに東京へ帰ることにしました」
堀井は、その場で『高松アストリアホテル』にキャンセルの電話をかけ、『不二通商』東京本社へも、今夜のうちに帰京する旨の電話を入れた。
そして、岡山行きの快速�マリンライナー�に飛び乗り、岡山からは新幹線に乗り換えて、東京へ戻ったという。
「なるほど、高松駅ホームで夕刊を見てから、東京へ帰るのに都合のいい列車があったわけですか」
しかし、と、矢島はここでことばに力を込めた。
都合のいい列車があったからといって、それが、すなわち、堀井が東京へ帰ったことの証明にはなるまい。『高松アストリアホテル』と『不二通商』東京本社への電話は、(高松駅ホームではなく)松山市内からだってかけられるのである。
十八時三十分に松山港付近にいたのであれば、絶対に、その夜のうちに東京へ帰る新幹線には乗れない。
だが、堀井は、
「東京へ帰ったときの証人ならいますよ」
あっさりと、部長刑事の不審を、撥《は》ね除けた。
東京駅新幹線ホームへは、『不二通商』宿直員が出迎えたというのである。
「これは家族ではありませんよ。新幹線ホームまできてくれたのは、三好《みよし》という若い社員でした。どうぞ当たってみてください」
堀井は吸いかけのたばこを消した。
相手を小莫迦《こばか》にしたような笑みが、さらに色濃く、堀井の顔中に広がっているのを、二人の刑事は感じた。
それが事実であれば、堀井のアリバイは完璧だ。
『大王製紙』の岩川と別れた阿波川口駅以降にどのような空欄があろうと、堀井を、犯行時刻に、犯行現場へ立たせることはできない。
矢島部長刑事は冷めたコーヒーに、手を伸ばした。
さらに、いくつかの質問を重ねたが、刑事の声は、低く不安定なものに変わっていた。