浦上は、七時十分過ぎに関内駅に降りていた。
浦上の方が先に、伊勢佐木町裏手にある土佐料理の店に入っていた。
三十人ほどで満席になりそうな、店だった。左手の一部がカウンターになっている。まだ、店はそれほど込んでいない。
浦上がためらいながら、奥のテーブルに腰かけると、
「毎朝さんの、谷田キャップのお知り合いの方ですか」
中年の女店員が声をかけてきた。
どうやら谷田から電話が入ったらしい。『毎朝日報』横浜支局が、ひいきにしている店だった。
店員は、男子も女子も、同じ半天姿だった。その、半天を着た女店員が、谷田キープのボトルをテーブルに載せたとき、
「やあ、早かったな」
谷田が、のれんを分けて入ってきた。
谷田は、浦上より三つ年上の三十五歳。中肉中背の浦上に比べて、谷田の方はぐっと大柄である。
浦上は、多分に根暗な部分を備えているけれども、谷田は、声も大きいし、性格も明るい。
谷田は結婚も早かった。すべての面で対照的な、先輩と後輩である。それだけに、逆に気が合うのかもしれない。
共通点は、二人とも酒が強く、将棋を唯一の趣味としていることだった。
谷田も、学生時代から将棋に熱中しており、現在、町のクラブでは、浦上同様四段で指している。
「きみとは、しばらく対局してないね」
谷田は笑顔を見せると、水割りで乾杯し、なじみの女店員に、二人前の皿鉢《さわち》料理を注文した。
「新宿のセンターで指していたところを、『週刊広場』に呼び出されたのだって?」
「留守番電話も、善し悪しですよ」
「それじゃ、うまい言い訳ができる女房でも、もらうんだね」
谷田は高い声で笑い、
「それにしても、今度の事件《やま》は、ちょっとばかし、緒戦の手順が異なっているぞ」
とつづけた。
「ある意味では、定跡無視の駒組みもいいところだな」
「でも、初心者ゆえの、乱暴な序盤とは違うでしょう」
「オレもそう思うんだ。有段者が、あえて定跡を外してきたとなると、この犯人《ほし》は、半端じゃない」
将棋好きの先輩と後輩は、ごく自然なうちに、こうして将棋用語を口にしていることが多い。
「事件関係者の全員が、横浜と深いかかわりを持っているだろ。そこで、警視庁では神奈川県警に協力を要請してきたが、新聞記者《ぶんや》も同じことだ。各社とも、横浜支局が全面バックアップの態勢を敷いている」
谷田はそう言って、取材帳をテーブルに広げた。
五人の名前が書き出してあった。
宮本淑子二十九歳(被害者) 主婦 元『浅野機器』経理課勤務 現コンビニエンスストア『浜大』パート店員
宮本信夫三十一歳(淑子の夫) 『日東カー用品』(本社・鳥取市)横浜支店販売課主任
村松俊昭三十五歳(淑子の愛人) 『浅野機器』(本社・横浜市)仙台支社営業部第一課長
村松真理三十二歳(俊昭の妻) 主婦 元『浅野機器』社長秘書
手塚久之三十三歳(真理の愛人) 『浅野機器』社長の長男で常務
「捜査一課へ寄って、淡路警部に会ってきたのだけどね、殺された淑子の周辺にいる四人は、いずれも、明確な、殺人《ころし》の動機を備えているっていうんだな」
谷田は取材帳を、ぱらぱらとめくった。四人の�動機�を箇条書きにしたメモを、浦上に見えるように置いた。
「まず、淑子の亭主だが、この宮本には、当然、妻の背信に対する憎悪と怒りが渦巻いているはずだ」
宮本は鳥取出身で、純朴な性格だ、と、谷田は説明してつづけた。
「それだけに、内向した怒りが爆発すれば、殺人《ころし》に発展する可能性は十分だ」
「淑子の愛人の村松の場合は、これまでの不倫関係の清算。それが、殺人の動機となるのですか」
浦上は、取材帳の走り書きを読んで、質問した。
「村松が、淑子との関係を清算しなければならないのは、どうしても、女房の真理と別れるわけにはいかないからなんだ」
谷田は、捜査一課の淡路警部から聞き込んだ情報として、村松の狙いが、真理の実家、高峰家の財産に絞られていることを言った。
「財産狙いの話は、東京の刑事《でか》さんに真理が打ち明けたことだが、淡路警部は、これは信憑性《しんぴようせい》も高く、無視できないと考えているようだ」
「なるほど。平気で女房を裏切る男なら、財産目当てに人の生命を奪うことぐらい、何とも感じていないかもしれませんね」
「村松は生い立ちが貧しかったせいか、ともかく、金銭には細かいようだ」
「そんな男が、他人の女房と情事をつづけていたってわけですか」
「こればっかりは別さ」
「真理の�動機�は、村松と離婚するため、と、書いてありますね」
浦上は、もう一度、谷田の取材帳をのぞき込んだ。
「真理が、浅野機器社長の長男、手塚常務と結婚したい気持ちは、本物らしい。手塚と結婚するためには、当然ながら、村松と離婚しなければならない」
谷田はそうこたえて、水割りを口にした。味わうように水割りを飲んでから、
「これは、村松が、上野西署の部長刑事《でかちよう》に漏らしたことだが」
と、前置きして、村松が強調した�一石二鳥�説を浦上に伝えた。
「先輩、真理は夫の愛情を奪った淑子を抹殺し、なおかつ、村松を犯人に仕立てる算段ですか」
「真理は気が強くて、我がままで、そして回転の速い女だ。村松が繰り返したという真理の�動機�も、相当な重さを持っている、と、捜査本部では見ているらしい」
「しかし、いかに気性が激しくても、真理が直接手を下したわけではないですよね」
「そこで登場するのが、真理の愛人である手塚、ということになる。手塚は、どうやら典型的なプレイボーイだが、現在は人妻の真理にメロメロでね、万事、真理の言いなりって話だ」
「すると、実行犯は、宮本、村松、手塚、この三人の中のだれか、ということは、もう決まりと言っていいですね」
「捜査初期の段階で、早々と容疑者が特定された。こんな例は珍しいのではないか」
「あとは、物証とアリバイですか」
「さすがに、その辺りは、淡路警部も口を滑らせてくれなかった」
谷田は苦笑して、新しい水割りを作った。
「直接、自分のところで扱っている事件《やま》とは違うだろ、警部の発言は、いつになく慎重で、神経質だったよ」
と、谷田は言った。
県警本部捜査一課の課長補佐淡路は、谷田が昵懇《じつこん》にしている警部で、浦上も、谷田を通じて親しい交際を持っている。
淡路警部からは、何度か、取材上の貴重なヒントを与えられたことがあるし、浦上の方から、横浜が絡んだ殺人事件の、アリバイ崩しの発見を提供したこともある。
「だが、警察《さつ》の口は堅くとも、容疑者は浮き彫りにされている」
「明日から、われわれの手で、三人の男のアリバイを当たればいいわけですね」
「ターゲットは絞られている。ルポライター浦上伸介の、腕の見せどころじゃないか」
「宮本、村松、手塚。容疑者三人が、いずれも一メートル八十を超える長身なのは、こりゃ偶然でしょうか」
「おい、何を思い付いたんだ? 背の高い男は小柄な女性を好み、小作りな女性が長身の男に惹《ひ》かれるってのは、世間一般で、よく見られる取り合わせだ。今度の五人は、そうした組み合わせが、交錯したってことだろ」
「いや、そうじゃないんですよ」
と、浦上が遠くに目を向けたとき、二人前の皿鉢料理が運ばれてきた。客席も、勤め帰りのサラリーマンたちで、ぼつぼつと込み始めている。
(殺人の現場は、なぜ、公園でなければならなかったのか)
浦上を見舞った疑問が、それだった。過程とか伏線がどうあろうとも、突発的な凶行であるなら、現場はどこでも構わない。
しかし、今回の事件は、最初から殺人が目的で、計画的に、淑子を不忍池へ誘い出したのではないか。
浦上は、さっき時間をかけて撮影した池畔を思い返しながら、言った。
「先輩、長身の三人がそろったのは偶然かもしれませんが、三分の一のひとり、真犯人《ほんぼし》は、その偶然を活用したのではないでしょうか」
「どういうことかね」
「犯人《ほし》は三人の男女に目撃された。あれは目撃されたのではなくて、目撃させたのと違いますか」
浦上の内面に、雲のような疑惑が浮かび、それが、しゃべっているうちに、次第に形を整えてくる。
「カムフラージュ、ということは考えられませんか」
と、浦上は言った。
「真犯人《ほんぼし》は、素顔を見られることなく、長身を印象付けることで、不審を、他の二人にも向けさせようとしたのではないでしょうか」
「それゆえ、宵闇迫る屋外での犯行になったというのか。なるほどね。きみらしい、見方だ」
「やはり、この線でしょうね」
浦上は自分に言い聞かせるようにつぶやいてから、つづけた。
「あの時間帯では、白昼と違って、正確な目撃は無理です。しかし、ポイントは、つかむことができます」
「ポイントは、長身であり、男性であるということか」
「必ず、目撃者となる人間がいる場所で、しかも決定的な特徴までは、いまいち把握されない状況。そして、逃亡に便利な条件を備えているとなれば、宵闇の不忍池は最適です」
浦上は、発見をまとめているうちに、ファイトが高まってくるのを感じた。
「分かった」
と、谷田もうなずいた。
「きみは、あの時間、あの場所を選んだところに、犯人《ほし》の、完全犯罪の意図を見るというのだね」
「この場合の完全犯罪は、自分と似た体型の、他の二人のうちのどちらかを犯人に仕立てることで、自らの安全を確保する、といった内容になります」
「すると、何が何でも、真犯人《ほんぼし》のアリバイは絶対というわけか」
「そうでしょうね。当人の偽装アリバイ工作が完全でなければ、この犯罪計画は成立しません」
「と、なると、アリバイの完璧であるやつが、怪しいってことか」
「淑子の周辺にいる四人の動機が、それぞれの意味で説得性を持って成立するのであれば、これは、アリバイ崩しだけがテーマとなりそうな事件《やま》ですね」
浦上は、改めて、谷田の取材帳に目を向けた。谷田はピース・ライトをくわえ、新しく、水割りを二人前作った。
明朝からの取材を考えて、
「今宵はほどほどに」
と、谷田は笑顔で提案したが、結局は、八分通り残っていた谷田のキープボトルを空にするまで、腰を落ち着ける仕儀となった。
浦上と谷田が、土佐料理の店を出たのは、午後九時を回る頃だった。横浜の中心地は、まだ、人も、車の流れもにぎやかだ。
羽衣町の交差点で、信号待ちをしているとき、
「そうだ、『浅野機器』の前を通って行こう」
と、谷田が言った。
それは、関内駅に面して建つ、東京ガスのすぐ近くだった。四階建てだった。この辺りでは、こぢんまりとしたビルである。
しかし、場所はいい。
「これなら、走れば関内駅まで一分ですね」
浦上は『浅野機器』の本社ビルを見上げた。四階建てのビルは、すでにどの窓も明かりが消えている。
駅には近いが、人気の少ない小路だった。その狭い舗道に、外車が一台、ゆっくりと走り出てきた。『浅野機器』の裏手から出てきたのは黒塗りのベンツであり、くわえたばこでハンドルを握っているのは、細面のハンサムだった。
細面の男は、薄い色付きの、メタルフレームの眼鏡をかけている。
「あの男じゃないですか」
浦上は思わず、谷田の耳元に口を寄せていた。
外車を運転するハンサムを、手塚久之であると確認したのは、翌朝である。