つい先日、『死ぬほど好き』という短編集を出した。中の一編にストーカーの女のコを主人公にしたものがある。とっくに冷めた恋人につきまとって、彼のアパートをちょろちょろする女のコの話である。
ついこのあいだ仕事の席で、何人かに、
「ハヤシさん、ストーカーの気持ち、よくわかりますね」
と誉められた。
「だってあれ、私のことだから。私って、別れた男に、いじいじつきまとうタイプだから」
家のまわりをうろちょろ、ということはなんとかやめたが、電話をしつこくかけるということを、よくした。
「とにかく一回でも会ってくれさえすれば、お互いの誤解もとけて、すぐにうまくいくはずなのに」
「とにかく、もう一回そーゆーことをすれば、きっと元通りになるはずなのに」
という�とにかく�が、私をしつこい、ますます嫌われる女にしたと思う。ところがまわりにいた編集者、キレイで頭がよくて、いかにもモテそうな女性が二人、実は私も、と言い出すではないか。
「テレビでストーカーのニュースをやると、絶対に見ないようにしてます。自分もいつかそうなるんじゃないかと思って不安で──」
ということであった。
そうか、みんなこれについては悩んでいるのか。よく「女の美学を貫こう」とか、「別れる時はカッコよく」などと書かれたり言われたりするけれども、実際はそういうことになるとむずかしいよなあ……。もちろん男の人に対する愛情や未練というものがことを複雑にしているけれども、年増になるとプライドというものがからんでくる。自分がコケにされたんじゃないかという思いだ。
男と女の別れに、対等のものはない。お互いに理解し合って、サヨウナラ、なんてものはドラマの中でだけの話だ。必ずフラれた人とフッた人が出現する。どんなふうにうまくやったとしても、この力関係は歴然だ。するとどういうことが起こるかというと、フラれた側の人間は、なんとかこの状況から脱しようと必死になる。
とにかく会って、すがって、元通りの男女の仲になる。そして彼を自分に夢中にさせる。
「やっぱりオレには、お前しかいない」
などということを言わせる。そうしたら今度は自分の方からフッてやるんだ、と女はつまらんストーリーを考えるわけだ。そんなことなんて、まず起こるわけがないのにね。
ところで私は若い頃フラれて、とてもとても傷ついたことがある。私が無名のコピーライターをしていた頃、とてもみじめな捨てられ方をしたのだ。ビンボーで才能もない私は、あの時こう思った。別に復讐《ふくしゆう》を誓う、といったおおげさなものではない。昔からよくした妄想というやつですね。
うんと有名でエラいコピーライターになった私は、業界人が集まるカッコいいバーでとりまきに囲まれて飲んでいる。一流の業界人じゃないとなかなか来られないお店よ。するとそこに二流の業界人の彼が、おずおずと人に連れられて入ってくる。そして女王さまのように振るまう私を見るの……。彼の心に深い悔悟と私への関心が再びわくの……。
そして時がたった。私はひょんなことから、単なる業界の有名人のコピーライターどころじゃない、テレビや雑誌にひっぱりだこの有名人になった頃の話。
雑誌の仕事で新宿発の「あずさ」に乗ることになった。当時私は東麻布《ひがしあざぶ》に住んでいて、どこへ行くのもタクシーを使った。そう、十五年前というのはテレビに出まくっていた頃で、今よりもずっと顔が知られていて、とても電車に乗れなかったのだ。
ところがタクシーがなかなかつかまらないうえに、やっと乗ったところが大渋滞、私は仕方なく降りて、地下鉄の駅へと走った。もう髪をふり乱し、ものすごい形相で階段を下り、汗びっしょりかいて車輛《しやりよう》に飛び乗った。ドアがばたんと閉まる。驚いたのなんのって、そこに彼が立っていたのだ。
口惜《くや》しいことに相変わらずカッコいい。そお、私って昔から面喰《めんく》いだったのよね。
「あ、マリちゃん、久しぶりだね」
他に連れもいたので、彼はそう馴《な》れ馴れしくなることもなく話しかけてきた。
「ええ、ごぶさたしています」
と私はよそよそしく言った。警戒していたからじゃない。あまりにもみじめだったからだ。バーで女王のように振るまう私はいったいどこへ行ったのよ。私っていつもは車使うのよ。あちらからハイヤー来ることだって多いのよ。本物の有名人になったんだから、地下鉄に乗ることなんかめったにないのよ。それなのに、それなのに、よりによってどうして、こんなにカッコ悪いところを見られてしまうんでしょうか。
私は趣味が悪いと言われようとも、何かの口実を使って昔の男の人に会うのって、なかなかいいことだと思う。うんとおしゃれして、お店の照明まで計算に入れて男の人と会う。二人だけにわかる懐かしい話をして、時々うっかりと「○○ちゃん」なんて恋人時代の呼び方してさ。ま、むこうも大人だから何も起こらないけど、あってもいいかな、なんて思っていろいろ考えたり、悩んだりするのも好き。ナマナマしい若い人には無理かもしれないけど、年増になるとこういう楽しみがある。スルメみたいに思い出を噛《か》んで噛んで、深い味を楽しむのさ。