そのあとのぼくは、半分夢の中にいたようなもので、何がどうなったのか、正直はっきりとは覚えていない。
とにかく、ろくでもないことばかりだったのは確かで、気がつくと、ぼくは警察署の一室らしい寒々として小汚《こぎたな》い部屋で、今日の昼休みに会ったばかりの刑事——�笑い仮面�ではなく、あとから来た黒ずくめの方だった——と、机をはさんで向かい合っていた。
「あの若いのの死因は銃殺《じゅうさつ》……それも、おでこのところに至近距離《しきんきょり》からぶちこまれたんだから、たまったもんじゃない。どんなマッチョだって即死《そくし》しておかしくないところ、しばらくは生きていたというから、人は見かけによらないね。あいにく意識は最期まで戻《もど》らなかったから、凶行《きょうこう》前後の状況《じょうきょう》については何一つ聞き出せなかったが、当人にとっちゃその方が幸せだったかもしれん。ま、そういったことはともかくとして……」
刑事はひとしきりしゃべったあと、青白い顔に冷笑めいたものを浮《う》かべながら、ぼくに問いかけた。
「さて、と……何でまた、君がよりによってあんな血なまぐさい現場に居合わせたのか、そのわけを聞かせてもらおうじゃないか」
「いや、ぼくはただ、あのぅ……」
とっさにどう説明したものかわからず、言葉を濁《にご》した。すると黒ずくめの刑事は口元をニヤリとほころばせて、
「そういえば君は、昨日の学校からの帰り道で何か落とし物を拾ったとかどうとか言っていたねぇ。結局は見せてくれなかったが……。いや、ちゃーんと耳を傾《かたむ》けていたし、覚えているとも。都合のいいことしか耳に入れない入らない、あんなやつといっしょにしてくれちゃあ困るな」
�あんなやつ�とは、ぼくの事情|聴取《ちょうしゅ》をしていた刑事のことだろうが、その口ぶりには、露骨《ろこつ》な侮蔑《ぶべつ》が含《ふく》まれていた。彼はさらに続けて、
「あのとき、君は鍵《かぎ》がどうとかもらしていなかったっけ。あのコインロッカー・コーナーのあたりにいたのは、ひょっとしてそれと関係があったのかな?」
「いえ、それとこれとは、別に……」
はっきりと「鍵を拾った」とか、ましてそれがコインロッカー用のものらしかったなどとは言わなかったはずだった。どこまで見抜《みぬ》いているのかはわからないが、カマをかけられているような気もする。
別に隠《かく》す必要もなかったが、あの笑い仮面の刑事にいやな思いをさせられたこともあり、すでに消えてなくなってしまった鍵のことで、これ以上|突《つ》っ込《こ》まれるのもおっくうだった。で、なおも口ごもっていると、黒ずくめの刑事はふいに腕《うで》をのばして、ぼくの肩《かた》をつかんだ。
「わかってるんだよ。君があのコインロッカー周辺をうろうろするだけじゃなく、中に入りさえしていたこともね。何なら、あのコーナーの防犯カメラの映像を見せてやろうか?」
ぼくはぐっと言葉に詰《つ》まり、冷たいものが背中を走るのを感じた。まさかそんなものが撮《と》られていたとは——というより、防犯カメラの存在なんていう当然のことに気づかなかった自分が情けなかった。
「ずいぶんと面白いものが写っていたよ。ここに録画があるから見るかい?」
「いや、そのぅ、別に……」
尻込《しりご》みするぼくに、刑事は押っかぶせるように、
「見た方がいいんじゃないかな、自分の行動を確認するためにも」
「…………」
ぼくが返事に困っていると、刑事は椅子《いす》の背もたれがひん曲がるぐらいふんぞり返り、ドンと片っぽの靴《くつ》を机の上にのっけて、
「あの近辺の店屋さんの、それも複数の証言によると、問題のコインロッカー・コーナーには一人の高校生らしい男の子が、何度も出たり入ったりを繰《く》り返していてね。それがどうしたことか、制服といい、背格好《せかっこう》といい、どうもおれの心当たりの少年と特徴《とくちょう》が一致《いっち》するんだよなあ。しかもこの少年、被害者があんなことになったときも、すぐ近くにいたわけで、彼がもし自分は無実だと身のあかしを立てたいならば——」
「見ます」
ぼくはさらに縮み上がりながらうなずいた。すると、刑事は上機嫌《じょうきげん》で、ひょいっと椅子から起き直ると、
「そうか、じゃあ」
と、部屋の隅《すみ》にあるモニターとつながれた小型のデッキを操作した。やがて、モニターの画面に映し出されたのは、妙《みょう》に色あせて、しかも輪郭《りんかく》がにじんでいるせいで現実感を欠く、しかしまぎれもなくあのコインロッカーの光景だった。
カメラは天井《てんじょう》部分の角っこに据《す》えられていたらしく、やや左|斜《なな》め上方から俯瞰《ふかん》した構図でロッカーの列とそれらにはさまれた通路をとらえていた。しばらくは、何の変化もなかったが、
「何だ、なかなか出てこんな」
刑事が舌打ちして映像を早送りすると、まもなく一人の利用客が現われ、そのあとに何人かの出入りが続いた。いずれも全く見覚えがなかったが、やがてハッと画面を注視せずにはいられなくなった。
それは、確かにぼくが張り込みを開始して、最初にコインロッカー・コーナーに入って行った人物だった。ということは、もちろん、このあとに——?
「ほらほら、どっかで見たようなのが出てきたぜ」
刑事はからかうように言った。指摘《してき》されるまでもなく、それはぼく自身の姿だった。
そして、また何とぶざまな姿だったろう。妙な足つきで入ってきたのからして、まるでコントに出てくるステロタイプのこそ泥《どろ》だ。しかもコマ落としでちょこまかと動き回っているときては、滑稽《こっけい》さもひとしおだった。
そのあと、きょろきょろと周囲に視線を走らせたのは、怪《あや》しまれないよう空きロッカーを探すふりをしたのだが、こうして見ると何ともわざとらしい。あげく、先客が何かの拍子《ひょうし》に振《ふ》り向いたとたん、あわてて背を向けたところなど、まるでバネ仕掛《じか》けの人形で、どうにも見られたものではなかった。
唯一《ゆいいつ》の収穫《しゅうかく》といえば、画面上ではわかりにくかった357番のロッカーがどこにあるかが、自分の立ち位置から判明したことぐらいか。だが、自分では自然なつもりでロッカーの状態を確認するしぐさときては、いっそ死んでしまいたいほどの迷演技だった。
「そらそら、まただ」
悲惨《ひさん》なことに、死ぬほど恥《は》ずかしいコントは、刑事の茶々をまじえて何度か繰り返された。脱走《だっそう》だか公務執行妨害《こうむしっこうぼうがい》だかのかどで逮捕《たいほ》されてもいいから、とにかくこの部屋を逃《に》げ出しかけたくなったとき、ふいに画面の中に現われた人影《ひとかげ》があった。
その瞬間《しゅんかん》、ぼくは恥ずかしさを忘れ、息詰《いきづ》まる思いで目をこらした。そこにとらえられていたのは、あの長髪に黒縁眼鏡《くろぶちめがね》のひょろりとした青年にほかならなかったからだ。
「さて、ここからが見せ場というかクライマックスだ」
刑事は、そんなことをつぶやきながら、再生速度を標準に切り替《か》えた。にもかかわらず、この青年の持つ、どこかおかしげで哀《あわ》れっぽい印象は薄《うす》れなかった。同じ雰囲気《ふんいき》を持つ人間をどこかで見たような……そうだ、あの通学路で見かけた中年男だ!
そのことに気づいたぼくが、悪寒《おかん》のようなものを感じるのをよそに、眼鏡の青年は、目当てのコインロッカーを見つけたとみえ、いそいそとその前に歩み寄った。それこそが357番のコインロッカーだった。
扉《とびら》に記された番号を確かめるかのように指でなぞり、視線はそこに吸い寄せられたまま、ズボンのポケットを探る。
あらかじめ用意しておいたのだろう、中からつかみ出したコインを次々と投入口から流し込んでゆく。続いてキーを取り出し、やや震《ふる》えているようにも見える手つきで鍵孔《かぎあな》に挿《さ》し入れ——ひねった。
カメラがとらえた角度からは、青年の表情はほとんどうかがえない。にもかかわらず、ぼくは青年がその瞬間、ほっと安堵《あんど》の笑みをもらしたように思えた。
そのまま取っ手をつかむと、ロッカーの扉を開けにかかる。蝶番《ちょうつがい》は向かって左側についており、レンズも同じ方向から見下ろしている関係で、中のようすは開いた扉にさえぎられてしまう。青年の顔もその陰《かげ》に隠れて見えなくなり、ぼくが思わず身を乗り出した——まさにそのとき。
357番のコインロッカーの中から、パッと煙《けむり》のようなものが広がった。音のない防犯ビデオのただ中で、明らかに何かが爆発《ばくはつ》したようだった。と同時に、青年ははじかれたように後ずさりし、後方のロッカーに激しく背中をぶつけた。
「——!」
その瞬間、ぼくは声にならない叫《さけ》びをもらしていた。いや、正直に悲鳴だったと白状しよう。角度の関係で、青年の身に何が起こったのかがはっきりわからないのが、むしろ幸いだった。
「…………」
そっと黒ずくめの刑事のようすをぬすみ見ると、彼は無言のままモニターの方をあごでしゃくってみせた。どうしても見ないわけにはいかないらしかった。
一方、画面の中の青年は、それきり動かなくなった——ように見えたが、やがてギクシャクと腕をもたげると、両手で顔を覆《おお》った。それと合わせたかのように頭部が、いや、上半身全体が前にのめった。
そのままガックリと倒《たお》れかかると思いのほか、あやういところでバランスを取り戻し、ゾンビさながらの奇怪《きかい》な足取りで歩き始めた。それも、レンズのある方へ向かって——ぼくからすれば、まるで自分に近づいてくるかのように見えた。しかも、自分で自分の腕を支える力も尽《つ》きてきたらしく、顔面を覆った手のひらがズルッ、ズルッと下がり始めた。それにつれ、眼鏡がぶざまにずり落ちる。
(ま、まさか? やめろ、やめてくれ……)
心の中で哀願《あいがん》しても、無駄《むだ》なのはわかっていた。一番手っ取り早いのは目を閉じることだったが、なぜかそうはできなかった。いつのまにかガチガチにこわばった首根っ子を無理にねじ向け、せめて目をそむけようとしたときには遅《おそ》かった。
画面の中から、たとえようのない苦悶《くもん》に満ちてぼくを見すえた顔——何てことだ、あんなものを二度にわたって見せられるはめになるなんて。とりわけ、太い鉄串《てつぐし》でも力任せに突き通されたみたいな、あのおぞましい傷跡《きずあと》を!
ごていねいにも、黒ずくめの刑事が静止画にしてくれたものだから、ぼくは哀れな青年の苦悶の表情と対面し続けなければならなかった。
それから、どれぐらいの時間が過ぎただろう。つと立ち上がった黒ずくめの刑事は、冷ややかにぼくを見下ろしながら、
「もうだいたいわかったと思うが、これがあのコインロッカーを開けた結果、起きたことの全てだ。おや、どうしたね。そんな青い顔をして、おまけに小刻《こきざ》みに震えだしたりして……ひょっとして、こうなるのは自分だったかもしれないと思い当たりでもしたのかい?」
ぼくは思わず、彼を見上げた。そうなのだ、もしあの鍵をあのまま持っていて、しかも自分で357番ロッカーを開けようなんて無用の冒険心を起こしていたりしたら……?
「どうやら話してくれる気になったようだね。君があのコインロッカーの鍵を拾い、わざわざあそこへ張り込みに出かけるまでの顛末《てんまつ》を、包み隠さずに」
その言葉に、ぼくは幼児のようにこっくりとうなずくほかなかった——。
「ほほう、そういうことだったのか」
刑事は、ぼくの話を聞き終わると満足げにうなずいた。
「しかし、たまたま拾っただけのキーホルダーの数字や文字をよく覚えていたもんだ。一晩手元に置いていたし、たまたま覚えやすい数字だったから? ふん、ずいぶん損な性格をしてるようだな、君は……。そんなことはともかく、自分が拾ったその鍵が、殺された男の落とし物ではなかったかと思いついた君は、せっかくの証言を取り上げようとしないあの阿呆《あほう》に目にもの見せてやろう——え、そこまで考えたわけじゃなかった? まあいいじゃないか。で、君は教室に取りに戻ったが、どうしたことかどこにも見当たらなかった——と」
「そういうことです」
ぼくは素直かつ正直に答えた。
「どこでなくしたか、心当たりは?」
「それは……わかりません」
ぼくはこれまた素直に答えたが、こちらは必ずしも正直とはいえなかった。最も可能性の大きいのは、やはり学校に来てから、それもあの教室においてだが、それを言えばまた厄介《やっかい》なことになるような気がしていた。それ以上に、自分自身でもその可能性を検討することが恐《おそ》ろしかったのだ。
「ふむ、そうか」
刑事はそう言ったきり、しばらく考え込んだ。それから、あのグロテスクな死に顔——正確には違《ちが》うが——が静止画像になったままのモニターに気づいて、これを消すと、
「そうそう、あのコインロッカー・コーナーで何が起きたかについて教えてやろうか。ありゃ要するに——」
「何らかの自動発射装置ですか、おそらくはドアの開閉と連動した……」
ぼくは、ついついよけいなことを口にしていた。
「ほう?」
刑事は少しだけ感心したようだったが、
「ふふん、まあそれ以外に方法はないからな。ざっと説明すると、ロッカーの中に、扉の裏側と連結された金属フレームがひそませてあり、その中には拳銃《けんじゅう》が組み込まれている。拳銃の用心鉄《トリガー・ガード》——引金をとりまく輪っかの部分だ——には金属の棒が通されており、この部分は固定されて動かない。だが、扉を開くにつれて拳銃はフレームごと前へせり出す仕掛けになっているから、当然この金属棒は引金を後ろへ押すことになる。かくてBANG! というわけさ」
そういうことだったのか、と思った。いわゆる機械的トリックというやつだ。密室殺人や不可能犯罪もののミステリではあまり人気がないが、真っ暗なロッカーの中で、静かに作動のときを待ち続けている殺人マシンというのは、十分におぞましかった。
「つ、つまり」ぼくは訊《き》いた。「その仕掛けは、最初から357番のコインロッカーを開けようとする人間を狙《ねら》って?」
「そういうことになるな。つまり、何らかのいきさつで鍵を手にしたことが、死の宣告だったわけだ」
「で、でも、もしそうだったとしたら」ぼくは息をのんだ。「関係ない人が撃《う》ち殺されてたかもしれないわけですよね。もし鍵を持ってる人間が、来なかったとしたら、三日たったあとにロッカーの管理者が中身を回収にくるんだから、そのときに……」
すると刑事は呆《あき》れたような、感心したような笑いをもらして、
「君はなかなかいろんなところに気がつくようだな。というより、若いのにいろいろ気苦労なこった。なかなかいい指摘だが、幸いその心配はなかったようだよ」
「というと?」
「ついさっきのことだが、問題のからくり[#「からくり」に傍点]を鑑識《かんしき》にかけてるさなか、どうかした拍子に、フレームがバラバラに分解しちまったんだ。どうやら何かの拍子で内部のスイッチが切れたらしく、各部品を結び合わせていたマグネットが磁力《じりょく》を失ったらしいんだな。これが本来は一種のタイマー——調べると、確かにそれらしいものがついていた——の作用によるもので、どうやらロッカーの収容期限を過ぎたあとに扉を開いたものに対しては、何らの危害も及ばないようになっていたらしい。あんな手口で人ひとり額をブチ抜《ぬ》いておきながら、標的以外の人間に対しちゃそこまで気配りするなんて、ずいぶんおかしな話だろ?」
「た、確かに……」
ぼくはうなずいたものの、そうした行動原理を持つ犯罪者というものに激しい興味を燃やさずにはいられなかった。二人の人間の死の現場に足を踏《ふ》み入れ、死を直前にした彼らの姿を目撃したという事実が、ぼくを奇妙《きみょう》な興奮に駆《か》り立てていた。
「どうせなら、そんな凝《こ》った代物《しろもの》を誰かがロッカーに設置してるとこが防犯カメラに残ってりゃよかったんだが、あいにく当日の分以外はないそうだ。たぶん、そのあたりも計算ずみじゃなかったかな」
刑事がブツブツと言うのを、ぼんやり聞いていた、そのときだった。ぼくの頭の中で、きらめいた光があった。あのコインロッカー・コーナー前での張り込みのときと同じ、マッチの火にも似てささやかな、しかし熱くまばゆい輝《かがや》きだった。
「——おい、どうした?」
ぼくのようすに気づいた刑事が、訊いた。この、ものに動じなさそうな男がけげんそうな顔になったのだから、よっぽど変に見えたのだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。
そのときぼくの脳内では、一つの考えが動き始めていた。いや、再開というべきだろう。その考えというのは、中年男殺しの際の自分を含めた人間の動きに関するもので、とんだアクシデントで中断された、その続きだったからだ。
「どうした、何を急に黙《だま》り込んでる。何とか言えよ」
かすかに不安さえのぞかせながら、刑事は言った。
その言葉に、ふとわれに返ったぼくは彼を見、口を開きかけた。これまでの自分の考えを、とりあえず誰かに聞いてほしい。だが、この刑事に明かしていいのかと迷っていると、そこへ、
「おい、黒河内《くろこうち》。そんなとこで何やってんだ。あんときといい今度といい、捜査《そうさ》にゃ何の関係もないくせに勝手に動き回りやがって」
この部屋のドアが乱暴《らんぼう》に開かれたかと思うと、いきなりまくしたてたのは、あの�笑い仮面�の刑事だった。黒河内と呼ばれた刑事は、しかしいっこうこたえたようすもなく、
「ああ、ちょっと事件の目撃者から聞き取りをね」
「き、聞き取りだァ?」
あとから来た刑事はますます激高したが、そのあとにフッと憫笑《びんしょう》とも嘲笑《ちょうしょう》とも何ともいえない表情——あの�笑い仮面�復活だった——を浮かべ、続けた。
「おいおい、もう誰もお前のことを凄腕《すごうで》だとも腕利きだとも思っていないんだぜ。お情けで押し込んでもらった部署で、おとなしくしてたらどうだ。ま、そんなガキの相手をしてるようじゃ、どうあがいても同じことだがな」
そのあとに続いた痛烈《つうれつ》な罵倒《ばとう》とさげすみの言葉の数々を、黒河内という刑事は平然と聞き流していた。
そのとき気づいたことだが、今度の悲劇にからんで、警察内でぼくに関心を持っているのは、目の前にいる黒ずくめの刑事だけらしかった。そしてこの黒河内刑事が、組織の中で置かれている立場も、うすうす見当がついた。ということは——何もかも個人プレイということか? そんなものに、ぼくをつきあわせたのか!
「……さぁて、と」
浴びせられる悪口雑言《あっこうぞうごん》の雨が、ようやく小止みになったとき、黒河内刑事は大きく伸《の》びをした。ふいに立ち上がると、ぼくの肩をたたいて、
「ほい、坊や。もう帰っていいよ。ご苦労さんだったな」
相変わらずの調子でぼくをうながし、顔を真っ赤にして息を切らし、次なる言葉を探し出そうとしている同僚《どうりょう》のわきをすり抜けて、ぼくを外へ連れ出した。
こうして、ぼくは解放された。安堵もあったが、ひどい脱力感《だつりょくかん》と徒労感《とろうかん》にやられて、警察署の廊下《ろうか》を、ずんずんと先に立って歩く後ろ姿を追っかけるのがやっとだった。
その最中にも、すれ違う制服・私服の人々が黒河内刑事の姿にさまざまな反応を示した。あるものははっきりと驚《おどろ》きを表わし、あるものは縁起《えんぎ》の悪いものでも見たように顔をしかめ、だが大半のものは見てみぬふりをするように視線をそらした。
「さ、駅はあっちだ。あとは一人で帰れるだろ」
黒河内刑事は、署の玄関口まで来たところで当然のように言い放った。このあと家まで送ってくれるのかもと、かすかな期待を抱《いだ》いたが、どうやら甘かったようだ。
「……わかりました」
この男に、ほんのわずか感じかけていた親しみ——とりわけ、あの�笑い仮面�刑事の言い草を耳にして——もたちまち吹《ふ》っ飛んで、ぼくは憤然《ふんぜん》と歩き始めた。その実、今日のことをどう家族に説明したものか、とりわけ明日の学校でまた何か言われるのではと考えると憂鬱《ゆううつ》でしようがなかった。
と、その背後から声があった。
「おう、暮林《くればやし》くんとやら」
振り返ると、思いがけず黒河内刑事がまだ玄関前に立っていた。彼はぼくに向かって、何とも意味ありげな笑みを振り向けながら、
「あんまり、よけいな詮索《せんさく》はしない方がいいぞ。世の中には役割分担ってものがあるんだからな」
ぼくは、うるさいことだと思いながら「わかってますよ」と返し、こう付け加えてやった。
「——あなたもね」
そのとたん、あっけにとられた黒河内刑事にくるりと背を向け、ぼくはポケットに手を突っ込み、肩を怒《いか》らせて警察署の敷地《しきち》をあとにした。ひときわ冷え込みが身にしみた。
すると、またも背後から彼の声で、
「いいか、くれぐれも……女には気をつけろよ」
ちょうどそのとき、走り込んできた警察車両のせいで、黒河内刑事の言葉は切れ切れにしか聞こえなかった。だが、振り返ったときには彼の姿はすでになく、ぼくはその場を立ち去らざるを得なかった。さまざまな思いでたださえ|過 負 荷《オーヴァーロード》気味の脳内に、さらに新たな疑問を植えつけられながら。
(女には気をつけろ? 何のことだろう。その前に何か一言あったようだが……)