14
肩を落とし気味にして夕暮れ時の大久保通りを歩く。思えば東京に戻ってきてからというもの、胸を反らしてこの通りを歩いたことなどほとんどなかった。行き交う人々は相変わらず元気がいい。香苗には意味の取れない言葉で声高に話しながら、時に大きな笑い声を立てる。雑然とした街、窮屈で小汚いアパート、不法滞在、中間搾取、肉体労働、夜の仕事、モンキービジネス……彼らの置かれている状況は、香苗のそれよりはるかに劣悪なはずだ。気にしない、気にしない──、東南アジアの人々のどこか底の抜けたような気質が、今は少し羨ましい。
時計を見る。いつもよりも遅い帰宅。香苗は途中スーパーに寄り、鶏《とり》のから揚げとポテトサラダ、それにホウレン草の白和えと稲荷ずしをひとパックずつ買った。全部出来合い。スーパーの白いビニールの袋を手に歩きながら、これでは昔の時枝と同じではないかと、香苗は苦みの強い嗤《わら》いを頬に滲ませた。だが、明日からは料理にも時間がかけられる。何せ香苗は、今日で職を失った身の上だ。
マンションの前まで来ると、もう夕刻だというのに運送屋の小型トラックが駐まっていて、何やら荷物を積み込んでいた。引っ越しにしては車が小さい。誰かが家財道具を一部処分するために呼んだ便利屋かもしれない。その様子を横目で見ながらエレベータに乗る。四階まで上がってみると、四〇四号室の部屋のドアが開いていて、中に人の気配が感じられた。志水悦子の部屋。
通りすがりにちらりと覗いて、香苗は肝を潰した。部屋の中はひどく散らかっていて、足の踏み場もない。引っ越しのため家財道具が雑然としているというのとも違う。空き巣だの泥棒だのがはいって荒らしたというのとも違う。言ってみれば長い時間かけて、積み重ねるようにとり散らかしていったというありさまだ。脱いだものも古新聞もゴミも食器も一緒くた、酒の空き瓶が床にゴロゴロ転がっている。いずれにしても臭うような散らかり方で、今にも床のチラシや生ゴミの袋の下からゴキブリが這い出してきそうだった。夜には隙のない化粧をして、派手なドレスやスーツで身を飾りたてて仕事に出かけていく悦子。疲れた素顔は知っていても、彼女の部屋がこんなにも荒れ果てているというのが信じられない。奥の部屋では、何事かを相談するような人声がする。
ふと見ると、香苗の家のドアも細く開いていて、そこから表の様子をうかがうように、真穂が顔を覗かせていた。
「おかえりなさい」
香苗と目が合うと、真穂は笑みを浮かべて言い、ドアを大きく開けて香苗を中に迎えた。台所では、昔で言うアッパッパのようなワンピースを着た時枝が、何やら夕食の支度めいたことをしていた。そのワンピースは、香苗が子供の頃に時枝が着ていたものではなかったか。時枝の物持ちのよさには、時に感心するより呆れてしまう。家電も道具も昔のままで、時枝は実際、贅沢ということから縁遠い。いつか春山も言っていたが、この三十年必死で稼いだはずの金は、いったいどこに浮いているのか。
「ねえ、お隣さん、何かあったの?」
香苗は着替えに部屋に戻ることもせず、時枝に尋ねた。
「ああ、今日、岐阜だかにいる両親が出てきてさ、ひと悶着あったすえに無理矢理あの娘《こ》を連れていったんだよ」
「連れていったって、故郷《くに》に連れ帰ったってこと?」
「たぶん違うんじゃない? まずはどこかの病院に入れたんだろ」
「病院って、あの人、からだが悪かったの? 病人みたいな顔色はしていたけど」
「アル中だよ」事もなげに時枝は言った。「あんた、気がつかなかった? あの人いつ会ったって酒臭かったじゃない。それを誤魔化そうとしてぷんぷん香水つけたりミントの口臭除去剤みたいなものを使ったり」
朝会ったというのに、化粧もしていない悦子がふんだんに香水の匂いを漂わせていたことを思い出した。話をした時、ぷんとメンソールの匂いが漂ってきたことも。あの時は、歯磨きをした直後なのだと思っていたが。
「このところどうも言動がおかしかったらしいよ。それで親御さんが様子を見にやってきてみたら、という顛末。部屋の中、滅茶苦茶だったろ? あれでよく店にだけは出ていたよね。酒飲みたさ、酒代欲しさの一心かね」
「あの人がアル中……」
ピンポンと、呼び鈴が鳴った。香苗は「はい」と返事をしてから玄関口へ立った。管理人の荻野正勝。六十代後半の、白髪頭の痩せた男だ。
「ああ、山上さん。どうも夜分にお騒がせしてしまって申し訳ありません。作業のほう、あと一時間かそこらで終わらせますんで。中を見ちゃった以上、ゴミだけはどうしたって今日中にある程度カタをつけてしまわないと、こっちも気分が悪くて」
言いながら、ほら、と荻野は四〇四号室の方に目をやった。つられて身を乗り出して見てみると、表に車を駐めていた便利屋が、部屋に散乱していた酒瓶をカートのようなもので運び出していくところだった。一升瓶が主だが、焼酎やウィスキーの瓶も混じっている。いずれにしても半端な量ではない、五、六十本はあるのではないか。しかもあれで全部ではないと荻野は言う。
「ベランダに、日増しに段ボールの箱みたいなのが増えていくな、とは思っていたんですよ。その中身が、すべて酒の空き瓶だったっていうんですから。台所のシンクの下も押入れの中も空き瓶だらけ」
「どうしてそんなに……」
「瓶の収集は週に一度ですからね。一日一本空ければ週に七本。さすがに毎回それだけの酒瓶を出すのは憚《はばか》られる。それで小出しにしていたら、どんどん後がつかえて、気づいた時にはどうにもならないような酒瓶の山……そういうことだったんじゃないんですか。──志水さん、おたくにも何か変なことを言いに行きませんでしたか?」
「いえ……別に」香苗は荻野の目を見ずに、ぽつりと答えた。
「だったらいいんですけど、あの人この頃、時々変なこと言ったりしていたから。実を言うとあたしも、ちょっと危ないな、とは思っていたんですよ」
「変なことと言いますと?」
「わざわざ管理人室にやってきましてね、このマンションの地下室にホームレスの男がはいり込んで寝泊まりしている、なんて言う訳です。それも背恰好から風体から、まるで自分の目で見たみたいに事細かに話すんですよ。顔つきだって真剣そのもの、実に真に迫っていてねぇ」
「あの、ここ、地下室なんてものがあるんですか?」
香苗の言葉に、荻野は、はは、と声を立てて笑った。「ありませんよ。なのに何度も『今日もいた』なんて大真面目に言いにくるから余計に気味が悪くって。終いにはこっちも影響されて、電気管理室にはいるのまで怖くなっちゃったりして」
香苗に真剣に訴えていた時の、悦子の昏い瞳と顔が脳裏に浮かぶ。
「要は幻覚ってやつ。中毒症状ですね、アルコールの。電話での様子がどうも変だと、親御さんが出てきてくれてよかったですよ。だってあれじゃこれからますます暑くなるっていう時に、まったく大変なことでしたもの。業者に頼んできれいにクリーニングしてもらって手を入れたうえで、また別の方にはいっていただくことになると思います。しばらくは、そんなこんなで多少ばたばたするでしょうが、ま、ご勘弁ください。そのことだけまずお伝えしておこうと思いまして」
わざわざどうも、と荻野に頭を下げ、ドアを閉める。知らず知らずに吐息がひとつ。アルコール中毒による幻覚、幻聴……結局は、そういうことだったのだろうか。だとしたら、振りまわされた香苗はとんだ道化だ。重たい疲労が身にひろがる。浩子、城下、悦子……人の言葉はみんな偽り。
「今日、お隣のおねえさん、すごかったんだから」真穂が言った。「ギャーギャー叫んじゃって、真穂、パトカーが来るんじゃないかと思ったよ。お部屋の中は滅茶苦茶だし、おねえさんは引きずられて連れていかれちゃうし。おかあさんが見たらきっとびっくりしたと思うな」
「今見ただけでもびっくりしたわよ」
香苗はビニール袋から惣菜のパックを出し、テーブルの上に並べ始めた。食卓には既に、時枝の作った焼き茄子、冷や奴、それに鰯の生姜《しようが》煮が置かれていた。
「おかあさん、ごめんね。今日ちょっと遅くなっちゃって……。お惣菜少し買ってきたから一緒に食べよう」
「そうだね」
時枝はテーブルに着き、グラスに冷や酒を注いだ。時枝のいつもの習慣だった。
「たいがいの人は気がついていた訳ね」香苗は言った。
「何が?」
「お隣さんがアル中じゃないかってこと」
「ま、そうだろうね」
「直接話をしながら気がつかなかったのは私ぐらいのものか。やっぱり世間に疎いのね。反省しちゃう」
溝《どぶ》育ちのお嬢様──、城下の言葉を思い出す。
「ふうん……今夜はやけに殊勝なんだ」
「おかあさん」
「何さ?」
「あのね、実は私、今日で失業しちゃったの」
「そう」ろくに香苗の顔も見ずに、グラスの酒を口に運びながら時枝は言った。素っ気なくてさりげない相槌の打ち方だった。
「今度は、少し将来の見込みがあるような仕事を探す。だからしばらく厄介かけると思うけど、なにぶんよろしくお願いします」
「馬鹿だね。いちいち頭なんか下げなくったっていいんだよ。喫茶店からの上がりや何かで、女三人食べていくぐらいのことはできるんだから」
「ありがとう」
「ほらまた。頭なんか下げなくていいって言ったのに」
親子だからそんな挨拶は抜きでよいということか。やはりこの人は私の母、私はこの人の娘、そんな思いにふとほだされかける。
「だけど本当にすごかったんだよ」稲荷ずしに箸を伸ばしながら、いくぶん興奮気味に真穂が言った。「真穂、あんなの初めて見ちゃった。瓶がお部屋からごろごろ……瓶に埋もれて寝てたのかなって、おじさんたちも言ってたよ」
香苗は軽く息をつき、首を小さく横に振りながら言った。「真穂、子供はそういうことに首を突っ込まないの。あっちこっちでべらべら喋ったりしたら駄目だからね」
「どうして?」
「どうしてって、どうしても」
「変な理由。だけどあれ、みんなお酒の瓶でしょ?」
「さあねえ」
「そうだよ。真穂知ってるもん。中に『八海山』もあったしさ」
「『八海山』? 何よ、『八海山』て?」
「おかあさん、知らないの? 『八海山』は『八海山』だよ。ねえ、おばあちゃん」
見ると時枝の顔つきが変わっていた。今し方まで、素っ気ないふうを装いながらも和《やわ》らいだ空気を感じさせていた面が、いきなり硬直したものにすり替わってしまっている。思わず香苗は箸を持つ手を止めた。
「おかあさん、どうかした?」
「あ……ごめん。ちょっと考えごとをしていた」
「だから『八海山』だよ」なおも真穂が言う。
「私は……知らない」
強張ったままの顔で時枝は言い、真穂の顔も香苗の顔も見ずに、グラスの酒をきゅっと呷った。また石の如くに閉ざされた時枝の顔、時枝の心。八海山……香苗は頭の中で繰り返していた。
時計を見る。いつもよりも遅い帰宅。香苗は途中スーパーに寄り、鶏《とり》のから揚げとポテトサラダ、それにホウレン草の白和えと稲荷ずしをひとパックずつ買った。全部出来合い。スーパーの白いビニールの袋を手に歩きながら、これでは昔の時枝と同じではないかと、香苗は苦みの強い嗤《わら》いを頬に滲ませた。だが、明日からは料理にも時間がかけられる。何せ香苗は、今日で職を失った身の上だ。
マンションの前まで来ると、もう夕刻だというのに運送屋の小型トラックが駐まっていて、何やら荷物を積み込んでいた。引っ越しにしては車が小さい。誰かが家財道具を一部処分するために呼んだ便利屋かもしれない。その様子を横目で見ながらエレベータに乗る。四階まで上がってみると、四〇四号室の部屋のドアが開いていて、中に人の気配が感じられた。志水悦子の部屋。
通りすがりにちらりと覗いて、香苗は肝を潰した。部屋の中はひどく散らかっていて、足の踏み場もない。引っ越しのため家財道具が雑然としているというのとも違う。空き巣だの泥棒だのがはいって荒らしたというのとも違う。言ってみれば長い時間かけて、積み重ねるようにとり散らかしていったというありさまだ。脱いだものも古新聞もゴミも食器も一緒くた、酒の空き瓶が床にゴロゴロ転がっている。いずれにしても臭うような散らかり方で、今にも床のチラシや生ゴミの袋の下からゴキブリが這い出してきそうだった。夜には隙のない化粧をして、派手なドレスやスーツで身を飾りたてて仕事に出かけていく悦子。疲れた素顔は知っていても、彼女の部屋がこんなにも荒れ果てているというのが信じられない。奥の部屋では、何事かを相談するような人声がする。
ふと見ると、香苗の家のドアも細く開いていて、そこから表の様子をうかがうように、真穂が顔を覗かせていた。
「おかえりなさい」
香苗と目が合うと、真穂は笑みを浮かべて言い、ドアを大きく開けて香苗を中に迎えた。台所では、昔で言うアッパッパのようなワンピースを着た時枝が、何やら夕食の支度めいたことをしていた。そのワンピースは、香苗が子供の頃に時枝が着ていたものではなかったか。時枝の物持ちのよさには、時に感心するより呆れてしまう。家電も道具も昔のままで、時枝は実際、贅沢ということから縁遠い。いつか春山も言っていたが、この三十年必死で稼いだはずの金は、いったいどこに浮いているのか。
「ねえ、お隣さん、何かあったの?」
香苗は着替えに部屋に戻ることもせず、時枝に尋ねた。
「ああ、今日、岐阜だかにいる両親が出てきてさ、ひと悶着あったすえに無理矢理あの娘《こ》を連れていったんだよ」
「連れていったって、故郷《くに》に連れ帰ったってこと?」
「たぶん違うんじゃない? まずはどこかの病院に入れたんだろ」
「病院って、あの人、からだが悪かったの? 病人みたいな顔色はしていたけど」
「アル中だよ」事もなげに時枝は言った。「あんた、気がつかなかった? あの人いつ会ったって酒臭かったじゃない。それを誤魔化そうとしてぷんぷん香水つけたりミントの口臭除去剤みたいなものを使ったり」
朝会ったというのに、化粧もしていない悦子がふんだんに香水の匂いを漂わせていたことを思い出した。話をした時、ぷんとメンソールの匂いが漂ってきたことも。あの時は、歯磨きをした直後なのだと思っていたが。
「このところどうも言動がおかしかったらしいよ。それで親御さんが様子を見にやってきてみたら、という顛末。部屋の中、滅茶苦茶だったろ? あれでよく店にだけは出ていたよね。酒飲みたさ、酒代欲しさの一心かね」
「あの人がアル中……」
ピンポンと、呼び鈴が鳴った。香苗は「はい」と返事をしてから玄関口へ立った。管理人の荻野正勝。六十代後半の、白髪頭の痩せた男だ。
「ああ、山上さん。どうも夜分にお騒がせしてしまって申し訳ありません。作業のほう、あと一時間かそこらで終わらせますんで。中を見ちゃった以上、ゴミだけはどうしたって今日中にある程度カタをつけてしまわないと、こっちも気分が悪くて」
言いながら、ほら、と荻野は四〇四号室の方に目をやった。つられて身を乗り出して見てみると、表に車を駐めていた便利屋が、部屋に散乱していた酒瓶をカートのようなもので運び出していくところだった。一升瓶が主だが、焼酎やウィスキーの瓶も混じっている。いずれにしても半端な量ではない、五、六十本はあるのではないか。しかもあれで全部ではないと荻野は言う。
「ベランダに、日増しに段ボールの箱みたいなのが増えていくな、とは思っていたんですよ。その中身が、すべて酒の空き瓶だったっていうんですから。台所のシンクの下も押入れの中も空き瓶だらけ」
「どうしてそんなに……」
「瓶の収集は週に一度ですからね。一日一本空ければ週に七本。さすがに毎回それだけの酒瓶を出すのは憚《はばか》られる。それで小出しにしていたら、どんどん後がつかえて、気づいた時にはどうにもならないような酒瓶の山……そういうことだったんじゃないんですか。──志水さん、おたくにも何か変なことを言いに行きませんでしたか?」
「いえ……別に」香苗は荻野の目を見ずに、ぽつりと答えた。
「だったらいいんですけど、あの人この頃、時々変なこと言ったりしていたから。実を言うとあたしも、ちょっと危ないな、とは思っていたんですよ」
「変なことと言いますと?」
「わざわざ管理人室にやってきましてね、このマンションの地下室にホームレスの男がはいり込んで寝泊まりしている、なんて言う訳です。それも背恰好から風体から、まるで自分の目で見たみたいに事細かに話すんですよ。顔つきだって真剣そのもの、実に真に迫っていてねぇ」
「あの、ここ、地下室なんてものがあるんですか?」
香苗の言葉に、荻野は、はは、と声を立てて笑った。「ありませんよ。なのに何度も『今日もいた』なんて大真面目に言いにくるから余計に気味が悪くって。終いにはこっちも影響されて、電気管理室にはいるのまで怖くなっちゃったりして」
香苗に真剣に訴えていた時の、悦子の昏い瞳と顔が脳裏に浮かぶ。
「要は幻覚ってやつ。中毒症状ですね、アルコールの。電話での様子がどうも変だと、親御さんが出てきてくれてよかったですよ。だってあれじゃこれからますます暑くなるっていう時に、まったく大変なことでしたもの。業者に頼んできれいにクリーニングしてもらって手を入れたうえで、また別の方にはいっていただくことになると思います。しばらくは、そんなこんなで多少ばたばたするでしょうが、ま、ご勘弁ください。そのことだけまずお伝えしておこうと思いまして」
わざわざどうも、と荻野に頭を下げ、ドアを閉める。知らず知らずに吐息がひとつ。アルコール中毒による幻覚、幻聴……結局は、そういうことだったのだろうか。だとしたら、振りまわされた香苗はとんだ道化だ。重たい疲労が身にひろがる。浩子、城下、悦子……人の言葉はみんな偽り。
「今日、お隣のおねえさん、すごかったんだから」真穂が言った。「ギャーギャー叫んじゃって、真穂、パトカーが来るんじゃないかと思ったよ。お部屋の中は滅茶苦茶だし、おねえさんは引きずられて連れていかれちゃうし。おかあさんが見たらきっとびっくりしたと思うな」
「今見ただけでもびっくりしたわよ」
香苗はビニール袋から惣菜のパックを出し、テーブルの上に並べ始めた。食卓には既に、時枝の作った焼き茄子、冷や奴、それに鰯の生姜《しようが》煮が置かれていた。
「おかあさん、ごめんね。今日ちょっと遅くなっちゃって……。お惣菜少し買ってきたから一緒に食べよう」
「そうだね」
時枝はテーブルに着き、グラスに冷や酒を注いだ。時枝のいつもの習慣だった。
「たいがいの人は気がついていた訳ね」香苗は言った。
「何が?」
「お隣さんがアル中じゃないかってこと」
「ま、そうだろうね」
「直接話をしながら気がつかなかったのは私ぐらいのものか。やっぱり世間に疎いのね。反省しちゃう」
溝《どぶ》育ちのお嬢様──、城下の言葉を思い出す。
「ふうん……今夜はやけに殊勝なんだ」
「おかあさん」
「何さ?」
「あのね、実は私、今日で失業しちゃったの」
「そう」ろくに香苗の顔も見ずに、グラスの酒を口に運びながら時枝は言った。素っ気なくてさりげない相槌の打ち方だった。
「今度は、少し将来の見込みがあるような仕事を探す。だからしばらく厄介かけると思うけど、なにぶんよろしくお願いします」
「馬鹿だね。いちいち頭なんか下げなくったっていいんだよ。喫茶店からの上がりや何かで、女三人食べていくぐらいのことはできるんだから」
「ありがとう」
「ほらまた。頭なんか下げなくていいって言ったのに」
親子だからそんな挨拶は抜きでよいということか。やはりこの人は私の母、私はこの人の娘、そんな思いにふとほだされかける。
「だけど本当にすごかったんだよ」稲荷ずしに箸を伸ばしながら、いくぶん興奮気味に真穂が言った。「真穂、あんなの初めて見ちゃった。瓶がお部屋からごろごろ……瓶に埋もれて寝てたのかなって、おじさんたちも言ってたよ」
香苗は軽く息をつき、首を小さく横に振りながら言った。「真穂、子供はそういうことに首を突っ込まないの。あっちこっちでべらべら喋ったりしたら駄目だからね」
「どうして?」
「どうしてって、どうしても」
「変な理由。だけどあれ、みんなお酒の瓶でしょ?」
「さあねえ」
「そうだよ。真穂知ってるもん。中に『八海山』もあったしさ」
「『八海山』? 何よ、『八海山』て?」
「おかあさん、知らないの? 『八海山』は『八海山』だよ。ねえ、おばあちゃん」
見ると時枝の顔つきが変わっていた。今し方まで、素っ気ないふうを装いながらも和《やわ》らいだ空気を感じさせていた面が、いきなり硬直したものにすり替わってしまっている。思わず香苗は箸を持つ手を止めた。
「おかあさん、どうかした?」
「あ……ごめん。ちょっと考えごとをしていた」
「だから『八海山』だよ」なおも真穂が言う。
「私は……知らない」
強張ったままの顔で時枝は言い、真穂の顔も香苗の顔も見ずに、グラスの酒をきゅっと呷った。また石の如くに閉ざされた時枝の顔、時枝の心。八海山……香苗は頭の中で繰り返していた。