15
バブル崩壊から始まった日本の不況は、今も続いている。今頃になってボディブローが効いてきて、新たに倒産する企業も出始めている。西納の家にいた頃は家の中の世界がすべて、あとは県議を務める舅の治一郎の関係筋の対応に追われるぐらいで、香苗は世の好不況もないままに時を過ごしてきた。失業して職を探し始めてみて、ようやく世の景気を実感したというところだった。職はなかなか見つからない。スーパーやコンビニのレジ係、ファミリーレストランやファーストフードチェーンのウェイトレスのような仕事ならばあるにはあるのだが、パート仕事では先の展望が開けない。二百万でも三百万でも誠治から慰謝料なり養育費なりをもらって出てきていればと、いまさらながら香苗は思う。その金があって時枝の許に身を寄せていたら、当面食べていくのはもちろんのこと、この先仕事につくのに有利なように、パソコン教室や簿記学校に通うことだってできたろう。城下の言うとおりかもしれなかった。恰好ばかりつけて後で窮している。人間の吹き溜まりのような街で育ちながら、香苗はろくに現実を知らない。時枝という強い風除けがあったから、呑気に過ごしてきてしまったのだろう。苦労が足りていない。足りないぶんの苦労は、全部時枝に負わせてきた。
春山のところをもう一度訪ねてみようかとも考えた。山上一人ぐらいの仕事ならいつでもどうにかしてやると、前に彼は請《う》け合った。頼っていけば春山は、きっとその言葉を違えることなく面倒を見てくれるだろう。ただそれは最後の手段にしたかった。ゲームセンターやラブホテルの経営を、他の商売にくらべて低く見るつもりはない。だが、それでは余りに大久保だった。春山のところに勤めに行くようになったら、香苗はどっぷり大久保暮らしに浸かってしまう。きっと一生この街で、そうした暮らしに染まって生きていくことになる。いつかここを出ていく、そう思うから先に希望が持てる。逆にずっとここで暮らしていくと考えたら、暗い穴を覗き見ている心地になる。
時枝は、別に慌てることはない、と言ってくれている。子供を育てながら長く勤められるような仕事を、今年いっぱいかけて探してみたらいいと。折しも真穂も夏休み、時枝も香苗が家にいてくれたほうがありがたいらしい。真穂が昼間学校へ行っているのならともかく、朝から晩まで狭い部屋の中で二人顔を突き合わせていると、さすがに時枝も息がつまるようだ。やはり時枝は真穂が苦手……それはたぶん、真穂が時枝に誰かを思い出させずにはおかない子供だから。
家の中に身を置き終日過ごしてみると、そこは退屈だが平和で穏やかな日常の場で、時枝と真穂の間にも、特別心配するような空気は流れていなかった。これまでは、昼間の時間をこうして自分の目で見ていることができなかったから、ああも容易に悦子のでたらめに振りまわされてしまったのだと思う。彼女も口から出任せを言って、無駄に香苗を心配させようと思った訳ではなかったろう。あれはアルコールで溶けかけた脳細胞が感知した彼女にとっての事実。とはいえ、もちろんこれですべての疑問や疑惑が氷解したということではなかった。
八海山というのは、新潟にある山の名前だという。そして新潟には「八海山」という銘酒がある。真穂があの時言ったのは、酒のほうの「八海山」。真穂も小学校の二年生になったから、八、海、山の漢字ぐらいは当然知っている。しかしそれをすんなり「はっかいさん」と読むのは少々できすぎか。しかもほかにも違う銘柄の酒瓶がたくさんあったのに、あえて新潟の酒である「八海山」の名前だけを口にした。あの時、時枝はいきなり真穂の口から「八海山」の名前が出たことに、明らかに動揺していた。香苗の知っている母は、何があっても動じたりするような女ではない。なのにどうしてそれしきのことに心揺さぶられてしまうのか。時枝の弱点は新潟にある。もはやそれは明らかと言ってよいと思った。新潟という土地、出来事、それに通じることは、恐らくすべて忘れてしまいたいことなのだ。しかし真穂は新潟を思い起こさせる。何故か新潟に連なることには妙に勘も働く。
幸か不幸か、職を失って時間ができた。次の職に就いて身動きがとれなくなる前に、香苗は新潟、N町の八木沢地区というところへ行ってみようと決めた。ここ何ヵ月か、「オンタイム」に勤めながらちまちま貯めた金がいくらか手元にあった。その金をここで吐き出してしまうのは痛いが、それに関する記憶を持っている人間がこの世にいるうちに事実を確かめておかなくては、間に合わなくなってしまう。うじうじ迷っている暇はなかった。時枝には、長野にいる学生時代の友だちを訪ねてくると話した。彼女も是非遊びにこいと誘ってくれているからと。
「いいじゃないの。行ってあちこち見物して、少しのんびりしてきたら」時枝は言った。「だけど真穂ちゃんはどうするの?」
「真穂は……連れていくわ」
真穂がいれば、どうしたって自由に動きがとりにくくなる。だから本当は、家に置いて行きたかったが、このうえ真穂の面倒まで時枝に押しつけて行く訳にもいかない。
時枝はいったん自分の居室に使っている和室へ行くと、封筒を手に戻ってきた。「はい、これ。交通費」
「いいわよ、おかあさん」
「お金なんかないくせに」
「それはそうだけど」
「お財布空にして人の家に行ったら、恥を掻くよ。宿代はいらないにしても、少しは持っていかないと」
「……ありがとう。それじゃ借りておく。また働くようになって余裕ができたら、その時はきっと返すから」
ふふ、と時枝は笑った。「あんたは昔から変なところ律儀なんだ。あんまり真面目すぎると、逆に今の世の中生きていきづらいよ」
部屋に戻ってから中を覗いて見ると、封筒の中には札が二十枚収まっていた。正直その金はありがたかった。が、時枝が隠している過去を知るために、嘘までついて新潟に行くのだと思うと、後ろめたさが胸に萌した。ことによると、これは時枝に対する一番の裏切りなのかもしれない。
八月にはいって間もなく、香苗は真穂を伴《ともな》い新潟へ向かった。途中上越新幹線を在来線に乗り換え、またバスを乗り継ぐ。
「おかあさん、ここ、長野?」
「ううん」香苗は首を横に振った。「長野の近く。でも長野じゃない。──あのね、真穂、これはおかあさんからのお願い。約束してほしいの。本当言うとね、おかあさんも真穂も長野へは行かないの。だけどそのことは、帰ってもおばあちゃんには言わないで。約束できる?」
「いいけど……。どうして?」
「おばあちゃんは、知らないほうが幸せだと思うから」
「だったら真穂たち、これからどこへ行くの?」
「おかあさんと真穂は、長野の友だちの家じゃなく、山間《やまあい》の温泉に行って旅館に泊まるの」
「ふうん……」
いかにも納得いかなげな真穂の顔だった。
上越新幹線ができたから、新潟方面へ行くのはかなり便利になったものと思っていた。けれども現実に旅してみれば、そういうことでもなさそうだった。東京から長岡、新潟へ直通の新幹線はあまり本数が多くない。高崎まで、長野新幹線と同じ線路を使っているからかもしれない。しかも新幹線を降りてしまうと在来線の目は粗く、乗り継ぎの便も悪ければ本数も少ない。うっかりひと駅先まで足を伸ばしてしまったら、その日のうちには新潟なり長岡なりの主要駅には戻ってこられないようなことにもなる。そのぶん路線バスは発達しているようで、高速バスもあちこちに向かって走っている。地元の人たちはきっとうまいことバスを乗り継いで、往き来を果たしているのだろう。だが、よそ者にはバス路線というのはわかりにくく、利用しづらい。スキー客がくる冬場はまた別だろうがそうした交通の不便さも手伝ってか、夏休みだというのに観光客の姿も疎《まば》らだった。これでは季節はずれの平日に、鎌倉あたりにでも行ったほうがよほど観光客で混み合っている。
新潟を訪れるのは初めてだった。これまで香苗は新潟というと、漠然と山に囲まれた雪深くて狭苦しい感じの田舎を想像していた。頭の上には鈍色《にびいろ》の厚い雲が垂れ籠めて、息がつまってくるような。香苗が実際に目にした新潟は違った。あまり山は見当たらない。在来線で走っていても、八海山のような高い山は稀、目にはいるのはほとんどがぼた山のような低いものばかりだ。そこから広くて平らな田んぼが、一面日本海の方に向かってひろがっている。新潟は、想像していたよりもはるかに平坦な土地だった。日本でも一、二の米どころなのだから、思えば平らな田んぼの面積が広いというのは、至極当たり前のことだった。にもかかわらず、閉塞的で息がつまるような土地や風景を勝手に思い描いていたのは、時枝が新潟での暮らしに耐えきれずに東京へ飛び出したという話が、頭の中にあったせいかもしれない。ただ、晴れてはいても、空が低く頭は重たい。日本海からの雲が、ストレートに流れてくるからかもしれない。道幅や歩道は、東京よりも広くとってあるのではないかと思うぐらいに広々としている。雪国だから、冬場雪除けをしても車や人が通れるだけのスペースは、確保しておかなければならないのだろう。ただし、道路も歩道も建物も、決してきれいとは言えなかった。降雪、積雪、それに融雪剤の影響か、道は油を撒いたような赤茶の錆色に染まっているところが多く、ビルや家にも赤黒い汗のような滴りの痕が、壁面に汚れた筋を残している。雪景色に清明な美はあっても、その後に残るものは裏腹だ。
バスを降り、N町八木沢地区に初めて立つ。ここもまたぼた山とあとは一面田んぼという、典型的な新潟の田舎町だった。あたりを見まわし息を大きく吸い込む。とりたてて懐かしいという思いを喚起されることはなかった。まだ物心つかない赤ん坊だったのだから覚えている道理もない。一方で、初めてきたという気もしない。脳のどこかには朧げな記憶として、ここの土地や風景が残されているのかもしれない。
「おかあさん、これからどこへ行くの?」真穂が訊いた。
「そうねえ……おかあさん、ちょっと訪ねてみたいところがあるのよ。真穂、つき合ってくれる?」
真穂と手を繋いで、首藤の家へと向かう。家の所在は、大久保の家を出てくる前に調べてきた。
地図を頼りに首藤の家を探す。やがて小さな杜《もり》のようなものが行く手右側に見えてきた。杜ではなくて防風林に囲まれた民家の敷地、それが恐らく首藤の家だった。
首藤と書かれた表札のある門の前に立ち、香苗は臆したように立ち竦んだ。想像をはるかに上まわる、実に立派で大きな屋敷だった。借景にするような形で裏山を背にし、周囲をぐるっと大きな防風林でとり囲んでいる。石造りの門から奥に向かって延々と小径が続いていて、中に大きな神社でもあるのかと思うほどだ。覗いてみると、奥の屋敷は古そうだった。頑丈な木を組んだような、いかにも重厚な造りをした家で、生き物ではないというのに、長い年月生き抜いてきた風格のようなものすら漂わせている。半端な農家ではなかった。N町では言うに及ばず、県下でも有数の昔からの豪農なのではないか。
ここが私が生まれた家……香苗は心の中で呟いた。すぐに実感が湧いてこないものの、もしもここで暮らし続けていたならば、まったく違った人生が展開していただろうかと、そんなことを考えてみる。
「凄い家ね」家から目が離せぬまま、香苗は真穂に囁きかけた。「このおうち、よぉく覚えておいて。きっといつかこの家がおかあさんや真穂にとってどういう家だか、話してあげられる時がくると思うから」
掌の中には確かに真穂の手の感触があった。けれどもいっこうに返事がないことに、しばらく経って気がついた。真穂……香苗はようやくかたわらの真穂の顔に目を移した。
見ると真穂が黙って涙を流していた。喜びとも悲しみともつきかねる、歪んだ表情が顔の上に浮かんでいる。それは香苗が初めて目にする種類の真穂の表情だった。
「真穂、どうしたの?」驚いて香苗は言った。
「私の家だ。ここ、私の家だ」
真穂の口から呟きにも似た嗄れ声が漏れた。香苗は目を見開き、身を屈めて真穂に顔を寄せた。こみ上げる思いに咽喉がすぼまったりすると、おかしな声になることがある。しかし一瞬香苗には、それが真穂が発した声とは信じられなかった。細く嗄れた老婆の声。しかも少し訛ってはいなかったか。
「真穂、どうしたの? ここは確かにおかあさんや真穂には関係の深いおうちよ。だけど真穂はここで生まれた訳じゃない。どうしたの、真穂? ね、しっかりして」
香苗は真穂の頬を伝わる涙を、タオルのハンカチで拭ってやった。だが真穂はなお、圧倒的な存在感を放つ首藤の家を茫然と眺めながら、苦しげに顔を歪めている。
「お前さんら、首藤の家に何か用かい?」
茫然と立ち尽くしている母子を不審に思ったのだろう、自転車で通りかかった老人が、香苗に向かって声をかけてきた。何と答えてよいのかわからない。ええ、まあちょっと……香苗は曖昧な受け応えをして、顔にも掴みどころのない薄い笑みを浮かべた。
「あ、お前さん方──」
香苗と真穂の顔を見て、途端に老人の顔色が変わった。両の目が大きく見開かれ、驚いたように香苗と真穂とを交互に眺めている。
「とうとう、戻って見えたんかい……」
老人は、口の中で呟くように言うと、自転車に乗ったまま、血相変えて首藤の家の敷地の中へ走り込んでいった。その後ろ姿を、呆っ気に取られたように見送る。やはり誰かに似ている、そういうことなのか。ひと目見て、明らかにそれとわかるほどに。
香苗は、もう一度屈み込んで真穂を見た。老人から不意に声をかけられたせいだろうか、真穂は既に自分を取り戻し、いつもの様子に戻っていた。涙したことなど忘れ果てたようなけろっとした顔だ。
「どうして泣いたりなんかしたの? おかあさん、びっくりしちゃった。それに急に私の家だなんて言いだしたりして」
「だって真穂、知っていたんだもの、この家のこと」
「ここへくるのは初めてなのよ」
「でも覚えているんだもの。昔おばあちゃんもここにいた。おかあさんもいた。おかあさんは今の真穂よりもずっと小さい赤ちゃんだったけど」
「真穂──」
合っている。それだけに、腕あたりに鳥肌が立った。
奥の家の方から、男が二人歩いてくるのが見えた。一人は先刻泡を喰って中へ飛び込んで行った老人。今度は自転車を押しながら歩いてやってくる。その老人に先立つように歩いてくる男が一人。男は、六十半ばという年恰好だった。近づいてくるにしたがい、その顔が徐々にはっきりと香苗の網膜に像を結ぶ。
険しい表情をしていた。それでも穏やかな品よい顔立ちは損なわれていない。香苗と同じ目の形をしていた。すっきりとした二重、いくぶん灰色味を帯びた茶色の瞳……目の色までもが同じだった。通った鼻筋、口角の上がった薄めの唇……派手ではないがまとまりのよい整った顔立ち。男と女の違いはあるものの、骨格、顔の輪郭までもがよく似ている。自然と胸がきゅっと締めつけられた。おとうさん──、声にはならなかった。香苗の咽喉もすぼまっていた。
春山のところをもう一度訪ねてみようかとも考えた。山上一人ぐらいの仕事ならいつでもどうにかしてやると、前に彼は請《う》け合った。頼っていけば春山は、きっとその言葉を違えることなく面倒を見てくれるだろう。ただそれは最後の手段にしたかった。ゲームセンターやラブホテルの経営を、他の商売にくらべて低く見るつもりはない。だが、それでは余りに大久保だった。春山のところに勤めに行くようになったら、香苗はどっぷり大久保暮らしに浸かってしまう。きっと一生この街で、そうした暮らしに染まって生きていくことになる。いつかここを出ていく、そう思うから先に希望が持てる。逆にずっとここで暮らしていくと考えたら、暗い穴を覗き見ている心地になる。
時枝は、別に慌てることはない、と言ってくれている。子供を育てながら長く勤められるような仕事を、今年いっぱいかけて探してみたらいいと。折しも真穂も夏休み、時枝も香苗が家にいてくれたほうがありがたいらしい。真穂が昼間学校へ行っているのならともかく、朝から晩まで狭い部屋の中で二人顔を突き合わせていると、さすがに時枝も息がつまるようだ。やはり時枝は真穂が苦手……それはたぶん、真穂が時枝に誰かを思い出させずにはおかない子供だから。
家の中に身を置き終日過ごしてみると、そこは退屈だが平和で穏やかな日常の場で、時枝と真穂の間にも、特別心配するような空気は流れていなかった。これまでは、昼間の時間をこうして自分の目で見ていることができなかったから、ああも容易に悦子のでたらめに振りまわされてしまったのだと思う。彼女も口から出任せを言って、無駄に香苗を心配させようと思った訳ではなかったろう。あれはアルコールで溶けかけた脳細胞が感知した彼女にとっての事実。とはいえ、もちろんこれですべての疑問や疑惑が氷解したということではなかった。
八海山というのは、新潟にある山の名前だという。そして新潟には「八海山」という銘酒がある。真穂があの時言ったのは、酒のほうの「八海山」。真穂も小学校の二年生になったから、八、海、山の漢字ぐらいは当然知っている。しかしそれをすんなり「はっかいさん」と読むのは少々できすぎか。しかもほかにも違う銘柄の酒瓶がたくさんあったのに、あえて新潟の酒である「八海山」の名前だけを口にした。あの時、時枝はいきなり真穂の口から「八海山」の名前が出たことに、明らかに動揺していた。香苗の知っている母は、何があっても動じたりするような女ではない。なのにどうしてそれしきのことに心揺さぶられてしまうのか。時枝の弱点は新潟にある。もはやそれは明らかと言ってよいと思った。新潟という土地、出来事、それに通じることは、恐らくすべて忘れてしまいたいことなのだ。しかし真穂は新潟を思い起こさせる。何故か新潟に連なることには妙に勘も働く。
幸か不幸か、職を失って時間ができた。次の職に就いて身動きがとれなくなる前に、香苗は新潟、N町の八木沢地区というところへ行ってみようと決めた。ここ何ヵ月か、「オンタイム」に勤めながらちまちま貯めた金がいくらか手元にあった。その金をここで吐き出してしまうのは痛いが、それに関する記憶を持っている人間がこの世にいるうちに事実を確かめておかなくては、間に合わなくなってしまう。うじうじ迷っている暇はなかった。時枝には、長野にいる学生時代の友だちを訪ねてくると話した。彼女も是非遊びにこいと誘ってくれているからと。
「いいじゃないの。行ってあちこち見物して、少しのんびりしてきたら」時枝は言った。「だけど真穂ちゃんはどうするの?」
「真穂は……連れていくわ」
真穂がいれば、どうしたって自由に動きがとりにくくなる。だから本当は、家に置いて行きたかったが、このうえ真穂の面倒まで時枝に押しつけて行く訳にもいかない。
時枝はいったん自分の居室に使っている和室へ行くと、封筒を手に戻ってきた。「はい、これ。交通費」
「いいわよ、おかあさん」
「お金なんかないくせに」
「それはそうだけど」
「お財布空にして人の家に行ったら、恥を掻くよ。宿代はいらないにしても、少しは持っていかないと」
「……ありがとう。それじゃ借りておく。また働くようになって余裕ができたら、その時はきっと返すから」
ふふ、と時枝は笑った。「あんたは昔から変なところ律儀なんだ。あんまり真面目すぎると、逆に今の世の中生きていきづらいよ」
部屋に戻ってから中を覗いて見ると、封筒の中には札が二十枚収まっていた。正直その金はありがたかった。が、時枝が隠している過去を知るために、嘘までついて新潟に行くのだと思うと、後ろめたさが胸に萌した。ことによると、これは時枝に対する一番の裏切りなのかもしれない。
八月にはいって間もなく、香苗は真穂を伴《ともな》い新潟へ向かった。途中上越新幹線を在来線に乗り換え、またバスを乗り継ぐ。
「おかあさん、ここ、長野?」
「ううん」香苗は首を横に振った。「長野の近く。でも長野じゃない。──あのね、真穂、これはおかあさんからのお願い。約束してほしいの。本当言うとね、おかあさんも真穂も長野へは行かないの。だけどそのことは、帰ってもおばあちゃんには言わないで。約束できる?」
「いいけど……。どうして?」
「おばあちゃんは、知らないほうが幸せだと思うから」
「だったら真穂たち、これからどこへ行くの?」
「おかあさんと真穂は、長野の友だちの家じゃなく、山間《やまあい》の温泉に行って旅館に泊まるの」
「ふうん……」
いかにも納得いかなげな真穂の顔だった。
上越新幹線ができたから、新潟方面へ行くのはかなり便利になったものと思っていた。けれども現実に旅してみれば、そういうことでもなさそうだった。東京から長岡、新潟へ直通の新幹線はあまり本数が多くない。高崎まで、長野新幹線と同じ線路を使っているからかもしれない。しかも新幹線を降りてしまうと在来線の目は粗く、乗り継ぎの便も悪ければ本数も少ない。うっかりひと駅先まで足を伸ばしてしまったら、その日のうちには新潟なり長岡なりの主要駅には戻ってこられないようなことにもなる。そのぶん路線バスは発達しているようで、高速バスもあちこちに向かって走っている。地元の人たちはきっとうまいことバスを乗り継いで、往き来を果たしているのだろう。だが、よそ者にはバス路線というのはわかりにくく、利用しづらい。スキー客がくる冬場はまた別だろうがそうした交通の不便さも手伝ってか、夏休みだというのに観光客の姿も疎《まば》らだった。これでは季節はずれの平日に、鎌倉あたりにでも行ったほうがよほど観光客で混み合っている。
新潟を訪れるのは初めてだった。これまで香苗は新潟というと、漠然と山に囲まれた雪深くて狭苦しい感じの田舎を想像していた。頭の上には鈍色《にびいろ》の厚い雲が垂れ籠めて、息がつまってくるような。香苗が実際に目にした新潟は違った。あまり山は見当たらない。在来線で走っていても、八海山のような高い山は稀、目にはいるのはほとんどがぼた山のような低いものばかりだ。そこから広くて平らな田んぼが、一面日本海の方に向かってひろがっている。新潟は、想像していたよりもはるかに平坦な土地だった。日本でも一、二の米どころなのだから、思えば平らな田んぼの面積が広いというのは、至極当たり前のことだった。にもかかわらず、閉塞的で息がつまるような土地や風景を勝手に思い描いていたのは、時枝が新潟での暮らしに耐えきれずに東京へ飛び出したという話が、頭の中にあったせいかもしれない。ただ、晴れてはいても、空が低く頭は重たい。日本海からの雲が、ストレートに流れてくるからかもしれない。道幅や歩道は、東京よりも広くとってあるのではないかと思うぐらいに広々としている。雪国だから、冬場雪除けをしても車や人が通れるだけのスペースは、確保しておかなければならないのだろう。ただし、道路も歩道も建物も、決してきれいとは言えなかった。降雪、積雪、それに融雪剤の影響か、道は油を撒いたような赤茶の錆色に染まっているところが多く、ビルや家にも赤黒い汗のような滴りの痕が、壁面に汚れた筋を残している。雪景色に清明な美はあっても、その後に残るものは裏腹だ。
バスを降り、N町八木沢地区に初めて立つ。ここもまたぼた山とあとは一面田んぼという、典型的な新潟の田舎町だった。あたりを見まわし息を大きく吸い込む。とりたてて懐かしいという思いを喚起されることはなかった。まだ物心つかない赤ん坊だったのだから覚えている道理もない。一方で、初めてきたという気もしない。脳のどこかには朧げな記憶として、ここの土地や風景が残されているのかもしれない。
「おかあさん、これからどこへ行くの?」真穂が訊いた。
「そうねえ……おかあさん、ちょっと訪ねてみたいところがあるのよ。真穂、つき合ってくれる?」
真穂と手を繋いで、首藤の家へと向かう。家の所在は、大久保の家を出てくる前に調べてきた。
地図を頼りに首藤の家を探す。やがて小さな杜《もり》のようなものが行く手右側に見えてきた。杜ではなくて防風林に囲まれた民家の敷地、それが恐らく首藤の家だった。
首藤と書かれた表札のある門の前に立ち、香苗は臆したように立ち竦んだ。想像をはるかに上まわる、実に立派で大きな屋敷だった。借景にするような形で裏山を背にし、周囲をぐるっと大きな防風林でとり囲んでいる。石造りの門から奥に向かって延々と小径が続いていて、中に大きな神社でもあるのかと思うほどだ。覗いてみると、奥の屋敷は古そうだった。頑丈な木を組んだような、いかにも重厚な造りをした家で、生き物ではないというのに、長い年月生き抜いてきた風格のようなものすら漂わせている。半端な農家ではなかった。N町では言うに及ばず、県下でも有数の昔からの豪農なのではないか。
ここが私が生まれた家……香苗は心の中で呟いた。すぐに実感が湧いてこないものの、もしもここで暮らし続けていたならば、まったく違った人生が展開していただろうかと、そんなことを考えてみる。
「凄い家ね」家から目が離せぬまま、香苗は真穂に囁きかけた。「このおうち、よぉく覚えておいて。きっといつかこの家がおかあさんや真穂にとってどういう家だか、話してあげられる時がくると思うから」
掌の中には確かに真穂の手の感触があった。けれどもいっこうに返事がないことに、しばらく経って気がついた。真穂……香苗はようやくかたわらの真穂の顔に目を移した。
見ると真穂が黙って涙を流していた。喜びとも悲しみともつきかねる、歪んだ表情が顔の上に浮かんでいる。それは香苗が初めて目にする種類の真穂の表情だった。
「真穂、どうしたの?」驚いて香苗は言った。
「私の家だ。ここ、私の家だ」
真穂の口から呟きにも似た嗄れ声が漏れた。香苗は目を見開き、身を屈めて真穂に顔を寄せた。こみ上げる思いに咽喉がすぼまったりすると、おかしな声になることがある。しかし一瞬香苗には、それが真穂が発した声とは信じられなかった。細く嗄れた老婆の声。しかも少し訛ってはいなかったか。
「真穂、どうしたの? ここは確かにおかあさんや真穂には関係の深いおうちよ。だけど真穂はここで生まれた訳じゃない。どうしたの、真穂? ね、しっかりして」
香苗は真穂の頬を伝わる涙を、タオルのハンカチで拭ってやった。だが真穂はなお、圧倒的な存在感を放つ首藤の家を茫然と眺めながら、苦しげに顔を歪めている。
「お前さんら、首藤の家に何か用かい?」
茫然と立ち尽くしている母子を不審に思ったのだろう、自転車で通りかかった老人が、香苗に向かって声をかけてきた。何と答えてよいのかわからない。ええ、まあちょっと……香苗は曖昧な受け応えをして、顔にも掴みどころのない薄い笑みを浮かべた。
「あ、お前さん方──」
香苗と真穂の顔を見て、途端に老人の顔色が変わった。両の目が大きく見開かれ、驚いたように香苗と真穂とを交互に眺めている。
「とうとう、戻って見えたんかい……」
老人は、口の中で呟くように言うと、自転車に乗ったまま、血相変えて首藤の家の敷地の中へ走り込んでいった。その後ろ姿を、呆っ気に取られたように見送る。やはり誰かに似ている、そういうことなのか。ひと目見て、明らかにそれとわかるほどに。
香苗は、もう一度屈み込んで真穂を見た。老人から不意に声をかけられたせいだろうか、真穂は既に自分を取り戻し、いつもの様子に戻っていた。涙したことなど忘れ果てたようなけろっとした顔だ。
「どうして泣いたりなんかしたの? おかあさん、びっくりしちゃった。それに急に私の家だなんて言いだしたりして」
「だって真穂、知っていたんだもの、この家のこと」
「ここへくるのは初めてなのよ」
「でも覚えているんだもの。昔おばあちゃんもここにいた。おかあさんもいた。おかあさんは今の真穂よりもずっと小さい赤ちゃんだったけど」
「真穂──」
合っている。それだけに、腕あたりに鳥肌が立った。
奥の家の方から、男が二人歩いてくるのが見えた。一人は先刻泡を喰って中へ飛び込んで行った老人。今度は自転車を押しながら歩いてやってくる。その老人に先立つように歩いてくる男が一人。男は、六十半ばという年恰好だった。近づいてくるにしたがい、その顔が徐々にはっきりと香苗の網膜に像を結ぶ。
険しい表情をしていた。それでも穏やかな品よい顔立ちは損なわれていない。香苗と同じ目の形をしていた。すっきりとした二重、いくぶん灰色味を帯びた茶色の瞳……目の色までもが同じだった。通った鼻筋、口角の上がった薄めの唇……派手ではないがまとまりのよい整った顔立ち。男と女の違いはあるものの、骨格、顔の輪郭までもがよく似ている。自然と胸がきゅっと締めつけられた。おとうさん──、声にはならなかった。香苗の咽喉もすぼまっていた。