23
車の窓から見る風景が、次第に見覚えのあるものになりつつあった。確実に、車はO町に近づいている。窓こそ開けてはいないものの、O町の匂いもあたりに漂い始めている。松の内が明けたばかりの、まだ正月ののんびりとした雰囲気を残す田舎の平野、茫洋とした風景。右手には、とりとめのない平たい海が見渡す限りに続いている。霞む水平線、青味よりも白味の強い海の色。反射する日の光。なだらかで穏やかな太平洋の顔。
結局、また戻ってきてしまった……太平洋を眺めながら、心の中で香苗は呟く。出てきた時は二度と帰ることはないと思っていたし、出てきてからもまたここへ戻ってくることなど想像したことさえなかったというのに。
帰る決心をしたのは、ひとつには、この先も大久保で作田や春山みたいな人間たちに囲まれて暮らしていくことに嫌気がさしたからだ。弱みを見せれば、いつ喰らいついてくるとも知れぬ彼ら。脅えて暮らすのは真っ平だが、時枝のように正面から受けて立つ強さもない。加えて香苗には、子供を養いながら食べてゆくだけの経済力もなかった。もうひとつには、過去の自分の十年を、無駄にはしたくないという思いがあった。西納の家で、いつか奥向きをあずかる「奥様」になることだけを楽しみに、姑の執拗な厭味に耐えてきた日々。下女さながらに働き続けた毎日。それがようやく報われる機会に恵まれたというのに、自ら放擲してしまう手はないと思った。西納の家のことならば、香苗もよく心得ている。自信を持って立ち働けるし、明日のことに迷うこともない。
「町の人は、やっぱりいろいろ言うでしょうね」香苗は誠治に言った。
「何をしたって言いたい人間は何か言うさ。だけど俺自身は、誰にも一度も君と離婚したとは言っていないよ」
「え?」
「俺は香苗にいつか帰ってきてもらうつもりだったから。むろん君がいなくなったことにはみんな気がついていたし、お袋はお袋で好きなことを言っていたから、周りは別れたんだろうと思ってはいただろうけどね」
離れていてもなお、誠治は香苗のことを自分の妻だと思ってくれていたのかもしれない。その誠治の気持ちにほだされるような思いになると同時に、一抹の後ろめたさを覚える。当然誠治も、城下のことは承知しているはずだ。それについてはひと言も触れない。寂しさ、寄る辺なさに、相手がどんな男かもろくに見極めず、藁を掴むように縋りついてしまった馬鹿な自分──。
残る問題があるとするなら、茨城に戻ることに真穂が何と言うかだった。ところが、香苗がそのことを口にすると、真穂は瞳を輝かせた。「茨城の、O町のおうちに帰れるの?」
「真穂はO町より東京のほうがよかったんじゃないの?」いくぶん呆っ気に取られて香苗は言った。「いつもそう言っていたじゃない?」
「それはこっちにおばあちゃんがいたからだよ。おばあちゃんももう死んじゃったし……。だったら真穂、茨城のほうがいい。だってあっちにはおとうさんがいるもの」
「だけど真穂、向こうにはおばあちゃまもいるのよ」
「大丈夫だよ」真穂は言った。「だっておばあちゃまはご病気で、もう動けないんでしょ? おとうさん、そう言ってたじゃない。真穂のことだってもうぶてやしない。怖くなんかないよ」
以来香苗は、真穂の中にいちのを見ていない。しかし近頃香苗は、真穂はきわめて繊細でひよわそうでいて、その実、したたかなものを持った子供だと気づかされることが多くなった。状況に応じてころころと態度を変えるその移り身の早さも、あどけなさを楯にしているぶん末恐ろしい。いちのが自分に宿っていた時も、それを知りながら何も語らず、知らんぷりを決め込んでいた。この子の頭の中はどうなっているのか、時に香苗はそんな思いで真穂を見てしまう。
「あー、真穂ここ覚えてるゥ」車から窓の外を見ていた真穂が、大きな声を上げた。「前におとうさんと一緒に海水浴に来た浜だ。ね、そうだよね、おとうさん?」
真穂の歓声に、ハンドルを握る誠治の横顔が緩んだ。
「そうだよ、真穂。よく覚えていたな」
「じゃあ、おうちももう近くだ。真穂のお部屋、どうなっているかなぁ」
「そのままだよ。おとうさんが、そのままにしておくようにって、みんなに言っておいたから」
「本当?」
「本当だよ」
「机も本棚もみんな?」
「本棚の中の本も何もかもだよ」
「やったー! だから真穂、おとうさん大好きなの」
着いてみると、夫婦の居室も出ていった時と、寸分変わっていなかった。そのことに、香苗も少し驚き、心揺さぶられる。
「本当に、何も手をつけていなかったのね……。昔のまんま」
「だからそう言ったじゃないか」
治一郎は、地方視察で留守にしていた。治一郎とは、暮れに彼が仕事で東京に出てきた折に、香苗も一度顔を合わせて話をしている。治一郎は、香苗が戻ってくることに異論はないと、その時明言してくれた。あんたが戻ってきてくれるのならばそれが一番だと。
残るはちず──。
「お義母さまに、ご挨拶させて」
いくぶん緊張が身に走るのを覚えながら、意識的にそれを抑えて香苗は言った。
「うん。それじゃ一緒に部屋へ行こう」
ちずには、三村民枝という元看護婦が付き添っていた。三十代後半の、人柄のよさそうな女だった。民枝は香苗に挨拶をすると、あえて自分は席をはずすように、部屋の外へ出ていった。
その部屋の様子だけが変わっていた。以前は和室だったものが、今は洋間に作り替えられている。恐らくはそのほうが、介護する側にもされる側にも、何かと都合がよいのだろう。
「お義母さま……」
ベッドに身を横たえたちずは、ひとまわりどころか三まわりぐらいは小さくなって、枯れかけた老木のように力なく見えた。黒々として艶のあった髪も色が脱けて干し草のようになってしまっているし、顔もからだもしわしわとして乾涸びてしまっている。香苗に目は向けても、ものも言わない。
「見る影もない、って感じだろ?」部屋を出てから、誠治が囁くように香苗に言った。
そうね……と、香苗は曖昧に頷く。確かに、ちずはいっぺんに十も十五も歳をとってしまった感じがした。いつもきれいに化粧をしていた上品ぶった顔も、今は装うことも表情をとり繕うこともできず、すっかり面変わりして別人のようだ。
「あれでも少しはマシになったんだ。民枝さんが一所懸命リハビリめいたこともやってくれているから。だけど、伝えたいことをきちんと口にでき、自分の身のまわりぐらいのことは自分ででき、という状態にまではもう戻らないだろうな。親父も内心諦めているよ」
しかし香苗は見た。黒目の色さえ脱けてしまったような薄い茶色をしたちずの瞳の底に、香苗に対する厭悪と憎悪の光が明らかに灯るのを。ちずは香苗をはっきりと認識していた。香苗がこの家に戻ってきたことに、強い不快の念と憤りを覚えていた。ちずの眸の強い光に、香苗は小さな稲妻に打たれたような思いがした。
ちずは、はたの人間が思っているほど弱っていない。ちずの中には命の火が、埋《うず》み火《び》どころかまだ赤々と炎を揺らして燃えている。
悪い嫁だと思う。しかしそのことは、やはり香苗の気持ちを重たくした。心の底では、ちずがもっと廃人に近い状態にあることを望んでいた。香苗が誰だかの判断もつかなければ、つねっても叩いても何も感じないぐらいに。だが、残念ながらちずは、まだ人間だった。
真穂の部屋にも行ってみた。東京には持っていくことのできなかったぬいぐるみやおもちゃ、道具、本、それに衣類……車の中で誠治が言っていたとおり、ここもまた、何もかもがそのままの状態に置かれていた。
「わあ、ベッドも前のまんまだ」真穂が言った。「おかあさん、まるで時間が昔に逆戻りしたみたいだね」
大人みたいな真穂の言いように、香苗はかすかに苦笑を滲ませた。
「だけどおばあちゃま、ずいぶん変わっちゃってたね」真穂はベッドに腰を下ろし、両方の脚をぶらぶらさせながら言った。「何か汚らしいって感じ。あれじゃ猿の干物だね」
真穂、と香苗はやんわり窘めた。心の中で思ったことは、香苗も変わりはなかったかもしれない。だが、少なくとも八歳の子供の口から、それを聞きたいとは思わなかった。
結局、また戻ってきてしまった……太平洋を眺めながら、心の中で香苗は呟く。出てきた時は二度と帰ることはないと思っていたし、出てきてからもまたここへ戻ってくることなど想像したことさえなかったというのに。
帰る決心をしたのは、ひとつには、この先も大久保で作田や春山みたいな人間たちに囲まれて暮らしていくことに嫌気がさしたからだ。弱みを見せれば、いつ喰らいついてくるとも知れぬ彼ら。脅えて暮らすのは真っ平だが、時枝のように正面から受けて立つ強さもない。加えて香苗には、子供を養いながら食べてゆくだけの経済力もなかった。もうひとつには、過去の自分の十年を、無駄にはしたくないという思いがあった。西納の家で、いつか奥向きをあずかる「奥様」になることだけを楽しみに、姑の執拗な厭味に耐えてきた日々。下女さながらに働き続けた毎日。それがようやく報われる機会に恵まれたというのに、自ら放擲してしまう手はないと思った。西納の家のことならば、香苗もよく心得ている。自信を持って立ち働けるし、明日のことに迷うこともない。
「町の人は、やっぱりいろいろ言うでしょうね」香苗は誠治に言った。
「何をしたって言いたい人間は何か言うさ。だけど俺自身は、誰にも一度も君と離婚したとは言っていないよ」
「え?」
「俺は香苗にいつか帰ってきてもらうつもりだったから。むろん君がいなくなったことにはみんな気がついていたし、お袋はお袋で好きなことを言っていたから、周りは別れたんだろうと思ってはいただろうけどね」
離れていてもなお、誠治は香苗のことを自分の妻だと思ってくれていたのかもしれない。その誠治の気持ちにほだされるような思いになると同時に、一抹の後ろめたさを覚える。当然誠治も、城下のことは承知しているはずだ。それについてはひと言も触れない。寂しさ、寄る辺なさに、相手がどんな男かもろくに見極めず、藁を掴むように縋りついてしまった馬鹿な自分──。
残る問題があるとするなら、茨城に戻ることに真穂が何と言うかだった。ところが、香苗がそのことを口にすると、真穂は瞳を輝かせた。「茨城の、O町のおうちに帰れるの?」
「真穂はO町より東京のほうがよかったんじゃないの?」いくぶん呆っ気に取られて香苗は言った。「いつもそう言っていたじゃない?」
「それはこっちにおばあちゃんがいたからだよ。おばあちゃんももう死んじゃったし……。だったら真穂、茨城のほうがいい。だってあっちにはおとうさんがいるもの」
「だけど真穂、向こうにはおばあちゃまもいるのよ」
「大丈夫だよ」真穂は言った。「だっておばあちゃまはご病気で、もう動けないんでしょ? おとうさん、そう言ってたじゃない。真穂のことだってもうぶてやしない。怖くなんかないよ」
以来香苗は、真穂の中にいちのを見ていない。しかし近頃香苗は、真穂はきわめて繊細でひよわそうでいて、その実、したたかなものを持った子供だと気づかされることが多くなった。状況に応じてころころと態度を変えるその移り身の早さも、あどけなさを楯にしているぶん末恐ろしい。いちのが自分に宿っていた時も、それを知りながら何も語らず、知らんぷりを決め込んでいた。この子の頭の中はどうなっているのか、時に香苗はそんな思いで真穂を見てしまう。
「あー、真穂ここ覚えてるゥ」車から窓の外を見ていた真穂が、大きな声を上げた。「前におとうさんと一緒に海水浴に来た浜だ。ね、そうだよね、おとうさん?」
真穂の歓声に、ハンドルを握る誠治の横顔が緩んだ。
「そうだよ、真穂。よく覚えていたな」
「じゃあ、おうちももう近くだ。真穂のお部屋、どうなっているかなぁ」
「そのままだよ。おとうさんが、そのままにしておくようにって、みんなに言っておいたから」
「本当?」
「本当だよ」
「机も本棚もみんな?」
「本棚の中の本も何もかもだよ」
「やったー! だから真穂、おとうさん大好きなの」
着いてみると、夫婦の居室も出ていった時と、寸分変わっていなかった。そのことに、香苗も少し驚き、心揺さぶられる。
「本当に、何も手をつけていなかったのね……。昔のまんま」
「だからそう言ったじゃないか」
治一郎は、地方視察で留守にしていた。治一郎とは、暮れに彼が仕事で東京に出てきた折に、香苗も一度顔を合わせて話をしている。治一郎は、香苗が戻ってくることに異論はないと、その時明言してくれた。あんたが戻ってきてくれるのならばそれが一番だと。
残るはちず──。
「お義母さまに、ご挨拶させて」
いくぶん緊張が身に走るのを覚えながら、意識的にそれを抑えて香苗は言った。
「うん。それじゃ一緒に部屋へ行こう」
ちずには、三村民枝という元看護婦が付き添っていた。三十代後半の、人柄のよさそうな女だった。民枝は香苗に挨拶をすると、あえて自分は席をはずすように、部屋の外へ出ていった。
その部屋の様子だけが変わっていた。以前は和室だったものが、今は洋間に作り替えられている。恐らくはそのほうが、介護する側にもされる側にも、何かと都合がよいのだろう。
「お義母さま……」
ベッドに身を横たえたちずは、ひとまわりどころか三まわりぐらいは小さくなって、枯れかけた老木のように力なく見えた。黒々として艶のあった髪も色が脱けて干し草のようになってしまっているし、顔もからだもしわしわとして乾涸びてしまっている。香苗に目は向けても、ものも言わない。
「見る影もない、って感じだろ?」部屋を出てから、誠治が囁くように香苗に言った。
そうね……と、香苗は曖昧に頷く。確かに、ちずはいっぺんに十も十五も歳をとってしまった感じがした。いつもきれいに化粧をしていた上品ぶった顔も、今は装うことも表情をとり繕うこともできず、すっかり面変わりして別人のようだ。
「あれでも少しはマシになったんだ。民枝さんが一所懸命リハビリめいたこともやってくれているから。だけど、伝えたいことをきちんと口にでき、自分の身のまわりぐらいのことは自分ででき、という状態にまではもう戻らないだろうな。親父も内心諦めているよ」
しかし香苗は見た。黒目の色さえ脱けてしまったような薄い茶色をしたちずの瞳の底に、香苗に対する厭悪と憎悪の光が明らかに灯るのを。ちずは香苗をはっきりと認識していた。香苗がこの家に戻ってきたことに、強い不快の念と憤りを覚えていた。ちずの眸の強い光に、香苗は小さな稲妻に打たれたような思いがした。
ちずは、はたの人間が思っているほど弱っていない。ちずの中には命の火が、埋《うず》み火《び》どころかまだ赤々と炎を揺らして燃えている。
悪い嫁だと思う。しかしそのことは、やはり香苗の気持ちを重たくした。心の底では、ちずがもっと廃人に近い状態にあることを望んでいた。香苗が誰だかの判断もつかなければ、つねっても叩いても何も感じないぐらいに。だが、残念ながらちずは、まだ人間だった。
真穂の部屋にも行ってみた。東京には持っていくことのできなかったぬいぐるみやおもちゃ、道具、本、それに衣類……車の中で誠治が言っていたとおり、ここもまた、何もかもがそのままの状態に置かれていた。
「わあ、ベッドも前のまんまだ」真穂が言った。「おかあさん、まるで時間が昔に逆戻りしたみたいだね」
大人みたいな真穂の言いように、香苗はかすかに苦笑を滲ませた。
「だけどおばあちゃま、ずいぶん変わっちゃってたね」真穂はベッドに腰を下ろし、両方の脚をぶらぶらさせながら言った。「何か汚らしいって感じ。あれじゃ猿の干物だね」
真穂、と香苗はやんわり窘めた。心の中で思ったことは、香苗も変わりはなかったかもしれない。だが、少なくとも八歳の子供の口から、それを聞きたいとは思わなかった。