23
その夜、法子は再び和人の運転する車に乗せられ、夜更《よふ》けの道を西へ向かうことになった。今度は公恵と綾乃の二人だけが一緒だった。車の中では、三人は終始無言で、法子にただの一言も話しかけてはこなかった。法子はぐったりと疲れた身体を車にもたせかけ、もうにっちもさっちもいかない気分で、流れ去る街灯や、見知らぬ町の、自分とは縁のない家々の明かりを、ぼんやりと眺めていた。空腹を感じてはいたのだが、もう、彼らの与えるどんな飲物も、どんな食べ物も受けつけたくはなかった。
「いい、法子さん。大きな真実の為には、小さな嘘《うそ》は許されるものなのよ。その真実を貫く為には、多少の犠牲はやむを得ないのよ」
蓼科の別荘に着くと、法子は再び八畳の洋間に入れられ、そこで三人に囲まれた。公恵の表情はいつになく厳しく、口調は断固としていた。別荘に着くなり、片時も法子の傍を離れず、法子の手を握り続けていた和人が、しっかりと頷《うなず》いた。
「君が身体で分かっていなければならないことだったんだよ。僕らだって、全員が経験したことなんだ。僕らの家族が、ずっと守り続けているものを、君には身をもって知って欲しかった」
和人の口調、その表情は、これまでに見たこともない程にある種の決意をみなぎらせ、法子を射すくめる程の力がこもっていた。
「お義姉《ねえ》さんなら分かるでしょう? 私達は、誰も望んでお義姉さんに嘘をついてなんかいない。必要なことの為の、これはステップなんだわ」
綾乃は早くも涙ぐみ、法子の、もう片方の手を握りしめながら言った。両手を和人と綾乃に握られ、正面には膝《ひざ》を触れあわさんばかりの位置に公恵がいる。三対一、これでは、何をどうしてもかなわない。
「私達が守っている真実は、理屈で左右出来るようなものじゃないの。だからこそ、私達はより絆《きずな》を強くして、全員の愛情と信頼と、そして協力の中でそれを守っているのよ。和人の嫁になったあなたにも、是非とも学んで欲しいことだったの」
公恵の表情は真剣そのもので、どこかに謎《なぞ》めいた雰囲気があった。法子は、好奇心をそそられ、無意識のうちにゆっくりと頷いていた。
「これから言うことを良く聞いて欲しい。君を不安にさせるつもりはないんだ。物事には順番がある、それだけなんだ」
幼い頃から、秘密は大好きだ。それに、もはや、彼ら以外に頼れる存在はない。彼ら以外に、法子に手を差しのべてくれる人達はいないのだ。その彼らが今、あらたな秘密を明かそうとしている。法子は生唾《なまつば》を飲み、ひたすら和人を見つめていた。
「君が食べたのは、ベニテングダケというキノコで、ごく軽い幻覚を起こす作用がある。けれど、僕らは決して無理な量を食べさせていないし、勿論《もちろん》、それには習慣性もない」
「知ってるわ──」
法子は弱々しく頷いた。書店で図鑑を立ち読みしたのだと白状すると、和人達もゆっくりと頷いた。
「じゃあ、話は早いかも知れない。キノコには、例えばドクツルタケとかタマゴテングタケとか、コレラと同じ症状を起こすような猛毒を持つものもある。そんなものを使えば、まず間違いなく死ぬだろうっていう種類のね」
それも、図鑑で読んだ記憶がある。法子は、黙って頷くだけで和人の話を促した。
「でも、僕らが使うキノコは、ごく限られてる。ベニテングダケの他にもセンボンサイギョウガサとか、アンセンボンタケとか、そういった類《たぐい》のものなんだけどね。それは、実は、素人《しろうと》じゃ見つけられないくらいに貴重なものなんだ」
彼らが採取するキノコは、幻覚症状を起こすものに限られているということだった。タイやバリ島などで、俗にマジック・マッシュルームなどと言われるキノコがもてはやされているという話があるが、センボンサイギョウガサなどは、国内で入手できる強力なドラッグだということだった。志藤家の人々は、そのキノコの在処《ありか》を知っている。そして、それを有効に使っているということだった。
「有効って──」
「待って。質問は、最後まで聞いてからにして欲しい」
和人にきっぱりと言われて、法子は慌てて口をつぐんだ。けれど、今度こそ、最後には質問を許されるだろう。その時になったら、ヱイの言葉の意味も、何もかも聞きたい。それまで待とうと、法子は思った。
「小金井のね、あの家で栽培している植物のほとんどは、勿論《もちろん》他の効能があるものもあるけれど、主体となっているのは、幻覚剤としての作用が強いものなんだよ」
「────」
「分かるかい、僕の言う意味」
「──ドラッグっていうことでしょう」
「そういう言い方も出来る。勿論、合法的なね」
和人は、厳かな口調で、いわゆるドラッグと言われる幻覚剤が、これまでにどれほど多くの人々を助けてきたか、人々から必要とされてきたかを語った。
「戦後間もなくね、ヒロポンという覚醒《かくせい》剤が流行《はや》ったことがあったの。戦時中から使われていたものだけど、戦争で疲れて、貧しくて、国中が混乱していた頃にね、一般人の間で流行ったのよ」
今度は公恵が口を開いた。ヒロポンという名称くらいは、法子も聞き覚えがあったから、法子は今度は公恵の顔に見入った。
「あれは、本当の覚醒剤だから、中毒になって苦労した人は後を断たなかったと思うわ。でも、うちでは習慣性のない植物を栽培していた。そのおかげで救われた人は、数知れない程だったのよ。だれだって、苦しい時代だった。ヒロポンなんかに手を出して、転落していった人は大勢いるはずよ。でも、私達が栽培していたキノコや植物のおかげで、ほんの少しでも現実を忘れて幸せになった人は、本当に多かったの」
法子は、思わず公恵の話に引き込まれ、半ば感動しながらその話を聞いた。現在だって、覚醒剤に対する取締りの強さは、相当なものがある。法子には経験はなかったが、覚醒剤がいかに恐ろしいものであるかは、その取締りの強さや覚醒剤の使用、所持などの容疑で検挙された有名人に対する報道の大きさなどからうかがい知ることは出来る。
「だから、僕らは今でも人助けの意味で、栽培を続けている。大切なキノコの繁殖地を守り続けてる。あくまでも合法的に、人々の心を救う為にね」
「中でもいちばん私達が大切にしてるのは、温室のサボテンなのよ。あれは、本当に貴重なものなの。私達の家、この家族を支えている、守神みたいなものなのよ」
今度は綾乃が口を開いた。いつも、健晴と遊んでいる時には無邪気な表情を隠さない彼女が、今夜は神々しいくらいに毅然《きぜん》としていた。
温室と聞いて、法子は遠い日の夕暮れのことを思い出した。あの、武雄に連れていかれた日から、いったい何日が経過しているのだろう。あの時、武雄はそれを見せようとしていたのだろうか。
「烏羽玉《うばたま》ともペヨーテともいう、刺《とげ》のないサボテンだけどね。綾乃の言う通り、あれは、まさしく宝だ」
法子は、新しく脳に流し込まれる知識を整理分類することも出来ないまま、それらに溺《おぼ》れそうになっていた。とにかく、キノコにしてもペヨーテにしても、法に触れる植物ではない。それも求める人がいるからこそ、植物に詳しかった志藤家の先祖が、その栽培に乗り出した、ということだった。
「君を傷つけるつもりなんかないことを、とにかく知って欲しい。僕らは、君が家に来てくれたこと、そして家族の絆《きずな》を強めようと努力してくれていることに、何よりも感謝してるんだからね」
それから二日間、今度は法子は明確な意識を保ち続けながら、あらゆる植物の話を聞かされた。とにかく、最後まで質問は控えること、一通りの説明を聞き終えるまでは、話題をそらさないこと、と言われて、法子はひたすら話を聞き続けた。夜になれば、和人と二人きりになれるだろうかと思ったのに、公恵も綾乃も同じ部屋で眠るから、結局、法子は一度として自分の意志で行動することは出来なかった。
「これは、ボランティア以外のなにものでもないのよ。今時、東京でそんな植物の栽培に乗り出している家なんか、他にはないでしょう。それで幸せになれる人達が山ほどいるからこそ、続けていることなの」
東京に戻る車の中で公恵に言われた時には、法子の気持ちは既に落ち着き、しっかりと頷《うなず》くことも出来た。それは、爽快感とは異なる、いわば諦観《ていかん》に似た落ち着きだった。疑問は何一つとして解明されていないのだ。氷屋の死のことだって、ヱイの言葉のことだって、法子は聞きたいことが山ほどあったと思う。だが、そんなことは、もうどうでも良いという気分になっていた。大きな真実の前には小さな嘘《うそ》も許されると公恵は言ったではないか。法子がこだわり続けていることがあるとすれば、それは、大きな真実の前の小さなつまずきに過ぎないのかも知れない、という気がした。
「良かった、待ってたの!」
帰宅すると、ふみ江が飛び出してきた。法子は、一瞬何が起こったのか分からず、ぽかんとして飛び跳ねているふみ江を見ていた。
「おじいちゃんがね、喋《しやべ》ったのよ!」
ふみ江は声を震わせてそう言った。「ええっ」「まさか!」という声が上がり、歓声が法子を包んだ。
──おじいちゃんが喋るのは、前から分かってたことじゃないの?
法子は、下らない茶番劇でも見せられているような、奇妙に白けた気分で、今にも抱き合いそうな勢いで喜んでいる家族を眺めていた。公恵も綾乃も、そして和人も、靴を脱ぐのでさえもどかしそうで、ひたすら瞳を輝かせている。
「法子さんだわ」
ふみ江がひたと法子を見て、ゆっくりと呟《つぶや》いた。法子は靴を脱ぎながら、何を言われているのかも分からないまま、ふみ江を見た。少しの間、瞳を潤ませて法子を見つめていたふみ江は、急に顔中を皺《しわ》くちゃにして笑顔を作ると、「とにかく、会ってあげて」と法子の手を取った。ヱイとは感触のことなる、けれど、やはり乾いて柔らかい手に導かれて、法子は松造の部屋へ向かった。
「──おじいちゃん」
ベッドに横たわっていた松造に、ふみ江が声をかける。部屋には薬と蚊取り線香の匂《にお》いが満ちていた。法子は、ごくりと唾《つば》を飲み込みながら、顎《あご》に銀色の髭《ひげ》を輝かせている老人を見おろした。松造は、ゆっくりと首を巡らせ、順番に家族を見た後、最後に法子の位置で視線を止めた。
「──お帰り、法子さん」
松造は嗄《しやが》れた声で、だが、十分に聞き取れる発音で話した。
──氷が欲しいんだよぉ、ふみ江ぇ。
法子は二の腕から首筋、頬《ほお》にかけて、ぞくぞくと鳥肌がたつのを感じた。
「──ただいま、おじいちゃん」
おそるおそる、話しかけると、松造は「ああ、お帰り」ともう一度言った。
「蓼科に、行ったかね」
「はい、また行ってきました」
「天気は、どうだったね」
「ええ、夕方になると霧が出て。でも、涼しくて気持ちが良かったです」
松造は満足そうに頷いた。そして、「蓼科は、いいね」と言った。
「奇跡よ。法子さんが奇跡を起こしたんだわ!」
ふみ江が震える声を上げる。法子は突然何を言い出したのかと思って、驚いてふみ江を見た。いつの間にか、和人に肩を抱かれていた。
「夢を見たんですって。夢の中でね、法子さんが、おじいちゃんに『たすけて、たすけて』って言ってたんですって。それで、おじいちゃんは必死で法子さんを呼ぼうとしたらしいの。そうしたら、口が動いたって、そう言うのよ」
嘘《うそ》だ。松造は前から喋《しやべ》っていた。法子はそれをこの耳で聞いている。それを忘れているはずがないのに、法子は頷きながらふみ江を見、改めて松造を見た。ベッドの上から、松造は真剣な表情で法子を見上げていた。
「夢でよかった。法子さんは、元気だね」
「──はい。おじいちゃん、元気です」
法子は、出来る限り優しい微笑《ほほえ》みを浮かべて松造を見た。こんな老人を苦しめる必要がどこにある。彼自身、自分の嘘を信じ込んでいるのかも知れないのだと、そう思った。
「ああ、大ばばちゃんの言う通りだった。法子さんは、この家を救う人なんだわ。これは、奇跡よ」
「法子は、自分の素晴らしさに気がついていないんだよ。でも、見てごらん、おじいちゃんがいちばんよく分かってるはずだよ」
清潔な寝具に横たわる老人は、喋れるようになっただけで、随分生き生きと見えるようになったと思う。
「おじいちゃん、これからは、色々なお話を聞かせてくださいね」
「ああ、聞かせてあげる。法子さんにね。法子さんに、話してあげよう」
ふみ江は、またもや感激の涙を流している。健晴までが、ベッドの脇《わき》で歓声を上げながら飛び跳ねていた。
──いいじゃない、これで。私はこの家の人達を悲しませてはいけない。笑いを、笑いを。
腹の底の方で何かが蜷局《とぐろ》を巻いている。少しでもそれが動き出すと、すぐに吐き気や頭痛が襲って来そうな気がしてならない。
「でも、お話し出来るようになったからって、あんまりお小言は困りますよ」
法子の言葉に、家族は声を揃《そろ》えて笑った。後から帰宅した武雄さえも、法子の起こした奇跡を知ると、目を潤ませて「ありがとう」と言った。
「これは、大ばばちゃんにも相談して、法子さんにお礼をしなきゃいけないな」
「やめてください、お義父《とう》さん。私は、皆さんの家族なんですから」
法子は、大げさに顔の前で手を振り、急いで和人を見た。
「いいじゃないか、ご褒美《ほうび》もらえば」
「駄目よ、この間いただいたばかりよ」
「遠慮すること、ないんだよ。それこそ、家族なんだから」
家族なんだから──その一言が、法子の中に重苦しく響いた。だが、余計なことは考えないに限る。法子が少しでも混乱すると、この家の人達は、一家総出で動くのだ。そんな迷惑は、もうかけたくなかった。第一、面倒ではないか。だから法子は、ひたすら「これで、良いのだ」と思うことにした。とにかく、皆が喜んでいるのなら、奇跡などであるはずはないが、これ以上、松造が下手な芝居をせずに済むようになったのならば、それはそれで良いことなのだろうと思うことにした。
「いい、法子さん。大きな真実の為には、小さな嘘《うそ》は許されるものなのよ。その真実を貫く為には、多少の犠牲はやむを得ないのよ」
蓼科の別荘に着くと、法子は再び八畳の洋間に入れられ、そこで三人に囲まれた。公恵の表情はいつになく厳しく、口調は断固としていた。別荘に着くなり、片時も法子の傍を離れず、法子の手を握り続けていた和人が、しっかりと頷《うなず》いた。
「君が身体で分かっていなければならないことだったんだよ。僕らだって、全員が経験したことなんだ。僕らの家族が、ずっと守り続けているものを、君には身をもって知って欲しかった」
和人の口調、その表情は、これまでに見たこともない程にある種の決意をみなぎらせ、法子を射すくめる程の力がこもっていた。
「お義姉《ねえ》さんなら分かるでしょう? 私達は、誰も望んでお義姉さんに嘘をついてなんかいない。必要なことの為の、これはステップなんだわ」
綾乃は早くも涙ぐみ、法子の、もう片方の手を握りしめながら言った。両手を和人と綾乃に握られ、正面には膝《ひざ》を触れあわさんばかりの位置に公恵がいる。三対一、これでは、何をどうしてもかなわない。
「私達が守っている真実は、理屈で左右出来るようなものじゃないの。だからこそ、私達はより絆《きずな》を強くして、全員の愛情と信頼と、そして協力の中でそれを守っているのよ。和人の嫁になったあなたにも、是非とも学んで欲しいことだったの」
公恵の表情は真剣そのもので、どこかに謎《なぞ》めいた雰囲気があった。法子は、好奇心をそそられ、無意識のうちにゆっくりと頷いていた。
「これから言うことを良く聞いて欲しい。君を不安にさせるつもりはないんだ。物事には順番がある、それだけなんだ」
幼い頃から、秘密は大好きだ。それに、もはや、彼ら以外に頼れる存在はない。彼ら以外に、法子に手を差しのべてくれる人達はいないのだ。その彼らが今、あらたな秘密を明かそうとしている。法子は生唾《なまつば》を飲み、ひたすら和人を見つめていた。
「君が食べたのは、ベニテングダケというキノコで、ごく軽い幻覚を起こす作用がある。けれど、僕らは決して無理な量を食べさせていないし、勿論《もちろん》、それには習慣性もない」
「知ってるわ──」
法子は弱々しく頷いた。書店で図鑑を立ち読みしたのだと白状すると、和人達もゆっくりと頷いた。
「じゃあ、話は早いかも知れない。キノコには、例えばドクツルタケとかタマゴテングタケとか、コレラと同じ症状を起こすような猛毒を持つものもある。そんなものを使えば、まず間違いなく死ぬだろうっていう種類のね」
それも、図鑑で読んだ記憶がある。法子は、黙って頷くだけで和人の話を促した。
「でも、僕らが使うキノコは、ごく限られてる。ベニテングダケの他にもセンボンサイギョウガサとか、アンセンボンタケとか、そういった類《たぐい》のものなんだけどね。それは、実は、素人《しろうと》じゃ見つけられないくらいに貴重なものなんだ」
彼らが採取するキノコは、幻覚症状を起こすものに限られているということだった。タイやバリ島などで、俗にマジック・マッシュルームなどと言われるキノコがもてはやされているという話があるが、センボンサイギョウガサなどは、国内で入手できる強力なドラッグだということだった。志藤家の人々は、そのキノコの在処《ありか》を知っている。そして、それを有効に使っているということだった。
「有効って──」
「待って。質問は、最後まで聞いてからにして欲しい」
和人にきっぱりと言われて、法子は慌てて口をつぐんだ。けれど、今度こそ、最後には質問を許されるだろう。その時になったら、ヱイの言葉の意味も、何もかも聞きたい。それまで待とうと、法子は思った。
「小金井のね、あの家で栽培している植物のほとんどは、勿論《もちろん》他の効能があるものもあるけれど、主体となっているのは、幻覚剤としての作用が強いものなんだよ」
「────」
「分かるかい、僕の言う意味」
「──ドラッグっていうことでしょう」
「そういう言い方も出来る。勿論、合法的なね」
和人は、厳かな口調で、いわゆるドラッグと言われる幻覚剤が、これまでにどれほど多くの人々を助けてきたか、人々から必要とされてきたかを語った。
「戦後間もなくね、ヒロポンという覚醒《かくせい》剤が流行《はや》ったことがあったの。戦時中から使われていたものだけど、戦争で疲れて、貧しくて、国中が混乱していた頃にね、一般人の間で流行ったのよ」
今度は公恵が口を開いた。ヒロポンという名称くらいは、法子も聞き覚えがあったから、法子は今度は公恵の顔に見入った。
「あれは、本当の覚醒剤だから、中毒になって苦労した人は後を断たなかったと思うわ。でも、うちでは習慣性のない植物を栽培していた。そのおかげで救われた人は、数知れない程だったのよ。だれだって、苦しい時代だった。ヒロポンなんかに手を出して、転落していった人は大勢いるはずよ。でも、私達が栽培していたキノコや植物のおかげで、ほんの少しでも現実を忘れて幸せになった人は、本当に多かったの」
法子は、思わず公恵の話に引き込まれ、半ば感動しながらその話を聞いた。現在だって、覚醒剤に対する取締りの強さは、相当なものがある。法子には経験はなかったが、覚醒剤がいかに恐ろしいものであるかは、その取締りの強さや覚醒剤の使用、所持などの容疑で検挙された有名人に対する報道の大きさなどからうかがい知ることは出来る。
「だから、僕らは今でも人助けの意味で、栽培を続けている。大切なキノコの繁殖地を守り続けてる。あくまでも合法的に、人々の心を救う為にね」
「中でもいちばん私達が大切にしてるのは、温室のサボテンなのよ。あれは、本当に貴重なものなの。私達の家、この家族を支えている、守神みたいなものなのよ」
今度は綾乃が口を開いた。いつも、健晴と遊んでいる時には無邪気な表情を隠さない彼女が、今夜は神々しいくらいに毅然《きぜん》としていた。
温室と聞いて、法子は遠い日の夕暮れのことを思い出した。あの、武雄に連れていかれた日から、いったい何日が経過しているのだろう。あの時、武雄はそれを見せようとしていたのだろうか。
「烏羽玉《うばたま》ともペヨーテともいう、刺《とげ》のないサボテンだけどね。綾乃の言う通り、あれは、まさしく宝だ」
法子は、新しく脳に流し込まれる知識を整理分類することも出来ないまま、それらに溺《おぼ》れそうになっていた。とにかく、キノコにしてもペヨーテにしても、法に触れる植物ではない。それも求める人がいるからこそ、植物に詳しかった志藤家の先祖が、その栽培に乗り出した、ということだった。
「君を傷つけるつもりなんかないことを、とにかく知って欲しい。僕らは、君が家に来てくれたこと、そして家族の絆《きずな》を強めようと努力してくれていることに、何よりも感謝してるんだからね」
それから二日間、今度は法子は明確な意識を保ち続けながら、あらゆる植物の話を聞かされた。とにかく、最後まで質問は控えること、一通りの説明を聞き終えるまでは、話題をそらさないこと、と言われて、法子はひたすら話を聞き続けた。夜になれば、和人と二人きりになれるだろうかと思ったのに、公恵も綾乃も同じ部屋で眠るから、結局、法子は一度として自分の意志で行動することは出来なかった。
「これは、ボランティア以外のなにものでもないのよ。今時、東京でそんな植物の栽培に乗り出している家なんか、他にはないでしょう。それで幸せになれる人達が山ほどいるからこそ、続けていることなの」
東京に戻る車の中で公恵に言われた時には、法子の気持ちは既に落ち着き、しっかりと頷《うなず》くことも出来た。それは、爽快感とは異なる、いわば諦観《ていかん》に似た落ち着きだった。疑問は何一つとして解明されていないのだ。氷屋の死のことだって、ヱイの言葉のことだって、法子は聞きたいことが山ほどあったと思う。だが、そんなことは、もうどうでも良いという気分になっていた。大きな真実の前には小さな嘘《うそ》も許されると公恵は言ったではないか。法子がこだわり続けていることがあるとすれば、それは、大きな真実の前の小さなつまずきに過ぎないのかも知れない、という気がした。
「良かった、待ってたの!」
帰宅すると、ふみ江が飛び出してきた。法子は、一瞬何が起こったのか分からず、ぽかんとして飛び跳ねているふみ江を見ていた。
「おじいちゃんがね、喋《しやべ》ったのよ!」
ふみ江は声を震わせてそう言った。「ええっ」「まさか!」という声が上がり、歓声が法子を包んだ。
──おじいちゃんが喋るのは、前から分かってたことじゃないの?
法子は、下らない茶番劇でも見せられているような、奇妙に白けた気分で、今にも抱き合いそうな勢いで喜んでいる家族を眺めていた。公恵も綾乃も、そして和人も、靴を脱ぐのでさえもどかしそうで、ひたすら瞳を輝かせている。
「法子さんだわ」
ふみ江がひたと法子を見て、ゆっくりと呟《つぶや》いた。法子は靴を脱ぎながら、何を言われているのかも分からないまま、ふみ江を見た。少しの間、瞳を潤ませて法子を見つめていたふみ江は、急に顔中を皺《しわ》くちゃにして笑顔を作ると、「とにかく、会ってあげて」と法子の手を取った。ヱイとは感触のことなる、けれど、やはり乾いて柔らかい手に導かれて、法子は松造の部屋へ向かった。
「──おじいちゃん」
ベッドに横たわっていた松造に、ふみ江が声をかける。部屋には薬と蚊取り線香の匂《にお》いが満ちていた。法子は、ごくりと唾《つば》を飲み込みながら、顎《あご》に銀色の髭《ひげ》を輝かせている老人を見おろした。松造は、ゆっくりと首を巡らせ、順番に家族を見た後、最後に法子の位置で視線を止めた。
「──お帰り、法子さん」
松造は嗄《しやが》れた声で、だが、十分に聞き取れる発音で話した。
──氷が欲しいんだよぉ、ふみ江ぇ。
法子は二の腕から首筋、頬《ほお》にかけて、ぞくぞくと鳥肌がたつのを感じた。
「──ただいま、おじいちゃん」
おそるおそる、話しかけると、松造は「ああ、お帰り」ともう一度言った。
「蓼科に、行ったかね」
「はい、また行ってきました」
「天気は、どうだったね」
「ええ、夕方になると霧が出て。でも、涼しくて気持ちが良かったです」
松造は満足そうに頷いた。そして、「蓼科は、いいね」と言った。
「奇跡よ。法子さんが奇跡を起こしたんだわ!」
ふみ江が震える声を上げる。法子は突然何を言い出したのかと思って、驚いてふみ江を見た。いつの間にか、和人に肩を抱かれていた。
「夢を見たんですって。夢の中でね、法子さんが、おじいちゃんに『たすけて、たすけて』って言ってたんですって。それで、おじいちゃんは必死で法子さんを呼ぼうとしたらしいの。そうしたら、口が動いたって、そう言うのよ」
嘘《うそ》だ。松造は前から喋《しやべ》っていた。法子はそれをこの耳で聞いている。それを忘れているはずがないのに、法子は頷きながらふみ江を見、改めて松造を見た。ベッドの上から、松造は真剣な表情で法子を見上げていた。
「夢でよかった。法子さんは、元気だね」
「──はい。おじいちゃん、元気です」
法子は、出来る限り優しい微笑《ほほえ》みを浮かべて松造を見た。こんな老人を苦しめる必要がどこにある。彼自身、自分の嘘を信じ込んでいるのかも知れないのだと、そう思った。
「ああ、大ばばちゃんの言う通りだった。法子さんは、この家を救う人なんだわ。これは、奇跡よ」
「法子は、自分の素晴らしさに気がついていないんだよ。でも、見てごらん、おじいちゃんがいちばんよく分かってるはずだよ」
清潔な寝具に横たわる老人は、喋れるようになっただけで、随分生き生きと見えるようになったと思う。
「おじいちゃん、これからは、色々なお話を聞かせてくださいね」
「ああ、聞かせてあげる。法子さんにね。法子さんに、話してあげよう」
ふみ江は、またもや感激の涙を流している。健晴までが、ベッドの脇《わき》で歓声を上げながら飛び跳ねていた。
──いいじゃない、これで。私はこの家の人達を悲しませてはいけない。笑いを、笑いを。
腹の底の方で何かが蜷局《とぐろ》を巻いている。少しでもそれが動き出すと、すぐに吐き気や頭痛が襲って来そうな気がしてならない。
「でも、お話し出来るようになったからって、あんまりお小言は困りますよ」
法子の言葉に、家族は声を揃《そろ》えて笑った。後から帰宅した武雄さえも、法子の起こした奇跡を知ると、目を潤ませて「ありがとう」と言った。
「これは、大ばばちゃんにも相談して、法子さんにお礼をしなきゃいけないな」
「やめてください、お義父《とう》さん。私は、皆さんの家族なんですから」
法子は、大げさに顔の前で手を振り、急いで和人を見た。
「いいじゃないか、ご褒美《ほうび》もらえば」
「駄目よ、この間いただいたばかりよ」
「遠慮すること、ないんだよ。それこそ、家族なんだから」
家族なんだから──その一言が、法子の中に重苦しく響いた。だが、余計なことは考えないに限る。法子が少しでも混乱すると、この家の人達は、一家総出で動くのだ。そんな迷惑は、もうかけたくなかった。第一、面倒ではないか。だから法子は、ひたすら「これで、良いのだ」と思うことにした。とにかく、皆が喜んでいるのなら、奇跡などであるはずはないが、これ以上、松造が下手な芝居をせずに済むようになったのならば、それはそれで良いことなのだろうと思うことにした。