24
庭に水撒《みずま》きをしていると、松造がふみ江を呼ぶ声が聞こえてくる。「ふみ江ぇ、ふみ江ぇ」という声が、この家に響くようになってから、既に十日余りが過ぎていた。法子は、二度目に蓼科から戻って以来、公恵から教わって庭の草花の世話をするようになった。夏の盛りに太陽に照りつけられて、法子は随分日焼けした。
──これが私の幸せ。これが、私の生きていく道。
時折、頭の中をそんな言葉がよぎる。それが良いことなのかどうかは、もはや問題ではなかった。ただ、こうして志藤の家を守ること、近い将来、和人の子どもを身ごもって、ヱイに玄孫《やしやご》を抱かせてやることが、現在の法子の大切な使命だった。
「もう、いい子にしなきゃ駄目って、言ってるでしょう。たぁくん!」
今度は綾乃の声が響く。それから、ばたばたと階段を駆け降りてくる音が聞こえた。健晴と綾乃は、相変わらずいつでも密着していて、こんなに暑い季節だというのに、常に身体を寄せあっていた。
「お母さん、たぁくんのこと、叱《しか》ってよ。私の言うことなんか、全然聞いてくれないんだから、もう」
「弟っていうのは、そういうものですよ。あんたに甘えてるのよ」
公恵の鷹揚《おうよう》な声も聞こえてくる。日々は、再び平和に過ぎ始めていた。何も考えなければ、全ての疑問を吹き飛ばしていれば、家族は皆が優しく、明るく、朗らかなだけのことだ。法子は一人、つばの広い麦わら帽子をかぶり、庭先に屈《かが》みながら、心の中が日照りのように乾いているのを感じていた。
「だって、お姉ちゃん、痛くするんだよう、お母さん」
「しょうがないじゃない、うんちが出ないんだから。指を入れて出さなきゃ、もっと苦しくなるんだからって言ってるのに、ちっともじっとしてないんだから」
自然に顔が歪《ゆが》んでしまう。そんな会話を耳にするのは、今や珍しいことではないのだが、法子にはどうしても、「そこまではできない」という思いが立つのだ。それは、まだ完璧《かんぺき》な家族になれていない証拠、彼らの全てを受け入れる態勢が出来ていない証拠なのかも知れない。だが、いったい、どこまで密着すれば良いものやら、法子にはそれが分からなかった。便秘の弟を気遣っているといえば、それは美談に他ならないが、何か、それ以上に奇妙な粘りけを感じてならなかった。
「お父さんの子どもの時にそっくり」
「お父さんも、そうだったの?」
「そうねえ、たぁくんの便秘症はお父さん譲りなのかも知れない。お母さんも、よく掻《か》き出してあげたものだもの」
心の中に小さなあぶくが浮かび上がる。それは、これまで抱いてきたものとはまた異なる、新しい疑問だった。法子は、今すぐにでも、それを口にしたい衝動に駆られた。だが、同時に「喋《しやべ》るな!」という、強い指令が電気のように全身を鋭く貫いた。喋るな、考えるな、質問するな。法子は反射的に身構える姿勢になり、少しの間は心臓を締めつけられる程の緊張状態におかれる。少しすれば、やがて穏やかな無気力が広がってくると分かっている。そう、考えたところでしようがない。全てをありのままに受け入れさえすれば、それで良い、という気持ちになるのを待つだけのことだ。
「痛いってばあ、もう! あああん、お母さん!」
「よしよし、じゃあ、おばあちゃんが見てあげようね。どれ」
そういえば、初めて綾乃と健晴が一緒に風呂《ふろ》に入っているのを知ったのは、いつのことだっただろうか。今となってはごく当たり前の、日常的なことを知っただけなのに、あの時の法子はひどく気まずい思いをし、どうしても薄気味の悪い想像を余儀なくされた。
──そう、そんなことも、あったわね。
あまりにも混乱した時期が続いたせいだろうか、今となっては、それさえも懐かしい気がする。あの頃、小さなことにさえ一喜一憂していた法子は、もうどこにもいなかった。
家族は、全てにおいてそうなのだ。
綾乃と健晴ばかりでなく、この家では誰もがためらいもなく各々のプライバシーに入りこんでいるようだった。それが、最近になって分かってきた。
例えば、言葉は話せるようになったものの、半身不随だけは治らない松造を、武雄や和人、公恵が入浴させるのは分かる。足の萎《な》えてしまっているヱイについても、そうだ。自由に身動きの取れない人間を入浴させるのは、たとえ相手が小さな老婆だとしても、想像以上の重労働だし、男性に任せた方が、それは安心できるに決まっている。だが、入浴させる相手がふみ江となると、話は違ってくる。武雄や和人がふみ江と入浴することが、法子にはどうも分からなかった。何故《なぜ》、息子に嫁を取らせたような男が年老いた母と入浴するのか、その息子である和人までが祖母と入浴出来るのか。だが、彼らは当然の如く、そうするのだった。
「大きな風呂なんだもの、いいじゃないか。のろのろしてたら冷めちゃうんだし、順番を待つのだってたいへんだろう? 銭湯と一緒さ」
和人は、ごく当たり前の表情でそう言った。法子も、和人と入浴することはあった。その他にも綾乃や公恵と入浴することもある。けれど、健晴や武雄とは、どうしても一緒に風呂に入りたいとは思わなかった。
「──それが、当たり前なんだろうか」
ホースから撒《ま》かれる水は、太陽の光を受けてきらきらと輝き、小さな虹《にじ》を作り出していた。それをぼんやりと眺めながら、法子は人知れずため息をついた。
家族なのだと思い、彼らの為に生きると決心していながら、奇妙な疎外感だけは、どうにもぬぐい去ることが出来ないままだ。不満など、何もない。けれど、法子の中に、どうしても現状を納得出来ない、もう一人の法子がいる。生まれた時から守り続けている何かを、頑《かたく》なに保ち続けようとする法子がいた。
「今日も暑いですね」
「あら、いらっしゃいませ」
ふいに声をかけられて、法子はその時だけ立ち上がって頭を下げた。客は、汗を拭《ぬぐ》いながら渡り廊下を伝い、離れに向かうところだった。
「銀行に寄ってたものでね、少し遅れました」
「あら、そんなこと」
「でも、ご迷惑はおかけできませんからね」
「──はあ」
五十代、というところだろう。頭の禿《は》げ上がった男は、愛想の良い笑顔をふいに引っ込め、ほんの少しばかり怪訝《けげん》そうな顔になったが、「やっ、じゃ、また」と手を振ると、そのまま離れに行ってしまった。法子は、その後ろ姿にわずかに頭を下げ、またしゃがみ込んだ。
──銀行。迷惑。
一日に何人か訪れる客の顔も、次第に覚え始めた。今の男は、線路を隔てて反対側の商店街にある、布団屋の主人だ。最初の頃は顔を伏せ、法子の方など見ないようにしていた客の何人かは、今の布団屋のように、法子を見ると嬉《うれ》しそうに会釈《えしやく》さえするようになってきた。志藤さん、奥さんと呼ばれて、はいと返事をするのにも、もう何のためらいもなくなっている。
──そう。私は、志藤法子だもの。
和人は真面目でよく働いた。時折、配達の途中で家に立ち寄ることがあって、そんな時には、法子を部屋に押し上げて、ひどく慌ただしく法子を求めることもある。
「会いたかったんだ。どうしても」
熱い息で囁《ささや》きかけられる時、法子は自分が愛されていると実感した。家族に言われるまでもなく、法子自身が、一日も早い妊娠を望んでいた。そうすれば、今よりももっと家族の一員として落ち着くことが出来るだろう。子どもを通して彼らと血のつながりの出来た時こそ、全てのためらいを捨てて、本当の家族になれるのかも知れないという気もする。
「そうなったら、何も気にならなくなるんだわ」
つい、独り言が出てしまう。足元に濃い影の落ちる時刻に、法子は我が家にいて、家族に囲まれて、そして一人だった。
「どうしたの、ぼんやりしちゃって」
はっとして顔を上げれば、いつの間にか公恵が隣でにこにこと笑っている。
「嫌だ、全然気がつかなかったわ。蟻《あり》をね、見てたんですよ、ほら」
法子は自分でも驚くくらいに愛想の良い、そして元気な声で答えた。公恵は、法子の指し示す方向に顔を突き出して「あら、本当」と言ったが、急になにかを思い出したように、目をぱちぱちとさせた。
「電話よ。例のお友達から」
法子はぎょっとなって、機嫌の良さそうな顔の公恵を見た。彼女は、そんな法子の表情を十分に読みとるだけの時間をとったあとで、すっと口を閉じ、真顔に戻った。それからふっと微笑《ほほえ》みを浮かべる。
「電話、お縁側に持ってきてあるからね」
また、彼女が電話を寄越した。法子は急いで水を止め、濡《ぬ》れた手をひらひらとさせながら居間の前の縁側に向かった。今度こそ、動揺はしないという自信があった。
「ああ、良かった。あんまり長いから、そのまま忘れられてるのかと思ったわ」
受話器を耳につけると、すぐに知美の声が聞こえてきた。公衆電話からかけているのだろうか、背景にがやがやと雑音が入っている。法子は、久しぶりに世間の音を聞いた気分で、その音を心地良く感じた。
「ごめんなさいね、お庭にいたものだから」
「そんなに広いお庭なの」
知美の発音はいつもと変わらずに歯切れが良く、同時に彼女の顔や姿を思い起こさせる。法子は、けれど、不思議な懐かしさは感じたけれど、実に落ち着いて彼女の声を受け止めることが出来た。
「そんなこともないんだけど、お水を撒《ま》いてたものだから。ほら、ここのところ、夕立も来ないじゃない」
知美は、「そう」としか答えない。そして、すぐに次の言葉を続けた。
「この間は、私も言い過ぎたかなと思ってるの。これでも反省してるのよ。だから、ねえ、お詫《わ》びの意味も含めて、今度は少しゆっくり会えないかと思って。久しぶりに、夕御飯でも一緒に食べましょうよ」
法子は、急速に憂鬱《ゆううつ》な気分になり、知美の強引さを恨めしく思った。彼女の誘いを断りたいわけではない。いや、むしろ、都会の雑踏の中に身を置きたい気持ちもあるのだ。のんびりとウィンドウ・ショッピングでも出来たら楽しいだろう、親しい友人と他愛のないおしゃべりに興じながら、独身時代みたいにぶらぶら出来たら、どんなに気持ちが晴れることだろう。そう思わないはずはなかった。
けれど、そうしたい反面、法子は恐かった。出かけなければならないことが、家族から離れて、一人で彼女と向かい合わなければならないことが憂鬱だった。
「いつも時間を気にしなきゃならないから、結局何も喋《しやべ》れないじゃない? 急いで話そうとするから、誤解も生まれちゃうんじゃないかと思って」
「そうねえ」
「ね? 昼過ぎくらいに待ち合わせして、その辺をぶらぶらするのだって、いいじゃない。そうしながら、いろんな話、すれば」
その一言を聞いた時、法子の頭に小さく閃《ひらめ》くものがあった。
「だったら、ここへ来ない?」
「──お宅へ?」
知美の声が急に不安そうになる。それに反比例するように、法子の中にはうきうきとした気分が高まっていった。
「主人も、主人の家族も、絶対に歓迎するわ。勿論《もちろん》、お食事の他は二人で過ごせばいいんだし、部屋なんか、いくらでもあるんだから。私、どうも賑《にぎ》やかなところって苦手なのよね」
我ながら良い考えだった。彼女をこの家に呼ぶなどということは、これまでに一度だって考えたこともない。
「ああ、だったら、私のアパートに来る? うちなら一人暮らしなんだし、それこそ気兼ねなんかいらないわ」
知美の提案に、法子は慌てて「いいの、いいの」と言った。
「前から一度ね、ご招待したかったのよ。一応、ほら、新婚家庭でもあるんだし、どういう暮らしをしてるか、見せたかったの。うちだって、全然気兼ねなんかいらない家なのよ。ご馳走《ちそう》を作って待ってるから、ね」
「でも──」
「いいじゃない、そうしなさいよ」
「お邪魔じゃない? お嫁さんの友達なんかが遊びにいったら、いい顔なんかされないんじゃない?」
「それは、普通の家ならそうかも知れないけど、うちは大丈夫よ。賑やかなのは大好きだもの、皆で大歓迎するわ。ああ、何だったら、泊まっていかない? そうすれば、時間を気にしないで、それこそゆっくり喋れるじゃない」
法子は、いつになく熱心に知美を誘った。こんな風に彼女を誘ったことなど、高校以来の付き合いで、一度としてなかったかも知れない。知美は、随分ぐずぐずと渋っていたが、結局は「それなら」と、珍しいくらいに気弱な声で言った。そう言いながらも、まだ迷っている様子が法子にも伝わってきた。
「いつにする? うちは、いつでもいいのよ」
法子は半ば強引に、さっさと日取りを決めてしまうと、ついでに料理のリクエストまで取った。知美は、「好き嫌いはないの」と答えると、少しは嬉しそうな声になってきて、小金井の駅まで迎えに来て欲しいと言った。
「当たり前よ、迎えにいくわ。ああ、時間は? 何時頃がいいかしらね」
法子は受話器に向かってにこにこと笑い続けていた。電話を切る頃には、「うふふ」と声が出る程になっていた。これで、知美よりも精神的に優位に立って彼女と話せる。自分の土俵に誘い込めば、もう不安はないと確信していた。
──これが私の幸せ。これが、私の生きていく道。
時折、頭の中をそんな言葉がよぎる。それが良いことなのかどうかは、もはや問題ではなかった。ただ、こうして志藤の家を守ること、近い将来、和人の子どもを身ごもって、ヱイに玄孫《やしやご》を抱かせてやることが、現在の法子の大切な使命だった。
「もう、いい子にしなきゃ駄目って、言ってるでしょう。たぁくん!」
今度は綾乃の声が響く。それから、ばたばたと階段を駆け降りてくる音が聞こえた。健晴と綾乃は、相変わらずいつでも密着していて、こんなに暑い季節だというのに、常に身体を寄せあっていた。
「お母さん、たぁくんのこと、叱《しか》ってよ。私の言うことなんか、全然聞いてくれないんだから、もう」
「弟っていうのは、そういうものですよ。あんたに甘えてるのよ」
公恵の鷹揚《おうよう》な声も聞こえてくる。日々は、再び平和に過ぎ始めていた。何も考えなければ、全ての疑問を吹き飛ばしていれば、家族は皆が優しく、明るく、朗らかなだけのことだ。法子は一人、つばの広い麦わら帽子をかぶり、庭先に屈《かが》みながら、心の中が日照りのように乾いているのを感じていた。
「だって、お姉ちゃん、痛くするんだよう、お母さん」
「しょうがないじゃない、うんちが出ないんだから。指を入れて出さなきゃ、もっと苦しくなるんだからって言ってるのに、ちっともじっとしてないんだから」
自然に顔が歪《ゆが》んでしまう。そんな会話を耳にするのは、今や珍しいことではないのだが、法子にはどうしても、「そこまではできない」という思いが立つのだ。それは、まだ完璧《かんぺき》な家族になれていない証拠、彼らの全てを受け入れる態勢が出来ていない証拠なのかも知れない。だが、いったい、どこまで密着すれば良いものやら、法子にはそれが分からなかった。便秘の弟を気遣っているといえば、それは美談に他ならないが、何か、それ以上に奇妙な粘りけを感じてならなかった。
「お父さんの子どもの時にそっくり」
「お父さんも、そうだったの?」
「そうねえ、たぁくんの便秘症はお父さん譲りなのかも知れない。お母さんも、よく掻《か》き出してあげたものだもの」
心の中に小さなあぶくが浮かび上がる。それは、これまで抱いてきたものとはまた異なる、新しい疑問だった。法子は、今すぐにでも、それを口にしたい衝動に駆られた。だが、同時に「喋《しやべ》るな!」という、強い指令が電気のように全身を鋭く貫いた。喋るな、考えるな、質問するな。法子は反射的に身構える姿勢になり、少しの間は心臓を締めつけられる程の緊張状態におかれる。少しすれば、やがて穏やかな無気力が広がってくると分かっている。そう、考えたところでしようがない。全てをありのままに受け入れさえすれば、それで良い、という気持ちになるのを待つだけのことだ。
「痛いってばあ、もう! あああん、お母さん!」
「よしよし、じゃあ、おばあちゃんが見てあげようね。どれ」
そういえば、初めて綾乃と健晴が一緒に風呂《ふろ》に入っているのを知ったのは、いつのことだっただろうか。今となってはごく当たり前の、日常的なことを知っただけなのに、あの時の法子はひどく気まずい思いをし、どうしても薄気味の悪い想像を余儀なくされた。
──そう、そんなことも、あったわね。
あまりにも混乱した時期が続いたせいだろうか、今となっては、それさえも懐かしい気がする。あの頃、小さなことにさえ一喜一憂していた法子は、もうどこにもいなかった。
家族は、全てにおいてそうなのだ。
綾乃と健晴ばかりでなく、この家では誰もがためらいもなく各々のプライバシーに入りこんでいるようだった。それが、最近になって分かってきた。
例えば、言葉は話せるようになったものの、半身不随だけは治らない松造を、武雄や和人、公恵が入浴させるのは分かる。足の萎《な》えてしまっているヱイについても、そうだ。自由に身動きの取れない人間を入浴させるのは、たとえ相手が小さな老婆だとしても、想像以上の重労働だし、男性に任せた方が、それは安心できるに決まっている。だが、入浴させる相手がふみ江となると、話は違ってくる。武雄や和人がふみ江と入浴することが、法子にはどうも分からなかった。何故《なぜ》、息子に嫁を取らせたような男が年老いた母と入浴するのか、その息子である和人までが祖母と入浴出来るのか。だが、彼らは当然の如く、そうするのだった。
「大きな風呂なんだもの、いいじゃないか。のろのろしてたら冷めちゃうんだし、順番を待つのだってたいへんだろう? 銭湯と一緒さ」
和人は、ごく当たり前の表情でそう言った。法子も、和人と入浴することはあった。その他にも綾乃や公恵と入浴することもある。けれど、健晴や武雄とは、どうしても一緒に風呂に入りたいとは思わなかった。
「──それが、当たり前なんだろうか」
ホースから撒《ま》かれる水は、太陽の光を受けてきらきらと輝き、小さな虹《にじ》を作り出していた。それをぼんやりと眺めながら、法子は人知れずため息をついた。
家族なのだと思い、彼らの為に生きると決心していながら、奇妙な疎外感だけは、どうにもぬぐい去ることが出来ないままだ。不満など、何もない。けれど、法子の中に、どうしても現状を納得出来ない、もう一人の法子がいる。生まれた時から守り続けている何かを、頑《かたく》なに保ち続けようとする法子がいた。
「今日も暑いですね」
「あら、いらっしゃいませ」
ふいに声をかけられて、法子はその時だけ立ち上がって頭を下げた。客は、汗を拭《ぬぐ》いながら渡り廊下を伝い、離れに向かうところだった。
「銀行に寄ってたものでね、少し遅れました」
「あら、そんなこと」
「でも、ご迷惑はおかけできませんからね」
「──はあ」
五十代、というところだろう。頭の禿《は》げ上がった男は、愛想の良い笑顔をふいに引っ込め、ほんの少しばかり怪訝《けげん》そうな顔になったが、「やっ、じゃ、また」と手を振ると、そのまま離れに行ってしまった。法子は、その後ろ姿にわずかに頭を下げ、またしゃがみ込んだ。
──銀行。迷惑。
一日に何人か訪れる客の顔も、次第に覚え始めた。今の男は、線路を隔てて反対側の商店街にある、布団屋の主人だ。最初の頃は顔を伏せ、法子の方など見ないようにしていた客の何人かは、今の布団屋のように、法子を見ると嬉《うれ》しそうに会釈《えしやく》さえするようになってきた。志藤さん、奥さんと呼ばれて、はいと返事をするのにも、もう何のためらいもなくなっている。
──そう。私は、志藤法子だもの。
和人は真面目でよく働いた。時折、配達の途中で家に立ち寄ることがあって、そんな時には、法子を部屋に押し上げて、ひどく慌ただしく法子を求めることもある。
「会いたかったんだ。どうしても」
熱い息で囁《ささや》きかけられる時、法子は自分が愛されていると実感した。家族に言われるまでもなく、法子自身が、一日も早い妊娠を望んでいた。そうすれば、今よりももっと家族の一員として落ち着くことが出来るだろう。子どもを通して彼らと血のつながりの出来た時こそ、全てのためらいを捨てて、本当の家族になれるのかも知れないという気もする。
「そうなったら、何も気にならなくなるんだわ」
つい、独り言が出てしまう。足元に濃い影の落ちる時刻に、法子は我が家にいて、家族に囲まれて、そして一人だった。
「どうしたの、ぼんやりしちゃって」
はっとして顔を上げれば、いつの間にか公恵が隣でにこにこと笑っている。
「嫌だ、全然気がつかなかったわ。蟻《あり》をね、見てたんですよ、ほら」
法子は自分でも驚くくらいに愛想の良い、そして元気な声で答えた。公恵は、法子の指し示す方向に顔を突き出して「あら、本当」と言ったが、急になにかを思い出したように、目をぱちぱちとさせた。
「電話よ。例のお友達から」
法子はぎょっとなって、機嫌の良さそうな顔の公恵を見た。彼女は、そんな法子の表情を十分に読みとるだけの時間をとったあとで、すっと口を閉じ、真顔に戻った。それからふっと微笑《ほほえ》みを浮かべる。
「電話、お縁側に持ってきてあるからね」
また、彼女が電話を寄越した。法子は急いで水を止め、濡《ぬ》れた手をひらひらとさせながら居間の前の縁側に向かった。今度こそ、動揺はしないという自信があった。
「ああ、良かった。あんまり長いから、そのまま忘れられてるのかと思ったわ」
受話器を耳につけると、すぐに知美の声が聞こえてきた。公衆電話からかけているのだろうか、背景にがやがやと雑音が入っている。法子は、久しぶりに世間の音を聞いた気分で、その音を心地良く感じた。
「ごめんなさいね、お庭にいたものだから」
「そんなに広いお庭なの」
知美の発音はいつもと変わらずに歯切れが良く、同時に彼女の顔や姿を思い起こさせる。法子は、けれど、不思議な懐かしさは感じたけれど、実に落ち着いて彼女の声を受け止めることが出来た。
「そんなこともないんだけど、お水を撒《ま》いてたものだから。ほら、ここのところ、夕立も来ないじゃない」
知美は、「そう」としか答えない。そして、すぐに次の言葉を続けた。
「この間は、私も言い過ぎたかなと思ってるの。これでも反省してるのよ。だから、ねえ、お詫《わ》びの意味も含めて、今度は少しゆっくり会えないかと思って。久しぶりに、夕御飯でも一緒に食べましょうよ」
法子は、急速に憂鬱《ゆううつ》な気分になり、知美の強引さを恨めしく思った。彼女の誘いを断りたいわけではない。いや、むしろ、都会の雑踏の中に身を置きたい気持ちもあるのだ。のんびりとウィンドウ・ショッピングでも出来たら楽しいだろう、親しい友人と他愛のないおしゃべりに興じながら、独身時代みたいにぶらぶら出来たら、どんなに気持ちが晴れることだろう。そう思わないはずはなかった。
けれど、そうしたい反面、法子は恐かった。出かけなければならないことが、家族から離れて、一人で彼女と向かい合わなければならないことが憂鬱だった。
「いつも時間を気にしなきゃならないから、結局何も喋《しやべ》れないじゃない? 急いで話そうとするから、誤解も生まれちゃうんじゃないかと思って」
「そうねえ」
「ね? 昼過ぎくらいに待ち合わせして、その辺をぶらぶらするのだって、いいじゃない。そうしながら、いろんな話、すれば」
その一言を聞いた時、法子の頭に小さく閃《ひらめ》くものがあった。
「だったら、ここへ来ない?」
「──お宅へ?」
知美の声が急に不安そうになる。それに反比例するように、法子の中にはうきうきとした気分が高まっていった。
「主人も、主人の家族も、絶対に歓迎するわ。勿論《もちろん》、お食事の他は二人で過ごせばいいんだし、部屋なんか、いくらでもあるんだから。私、どうも賑《にぎ》やかなところって苦手なのよね」
我ながら良い考えだった。彼女をこの家に呼ぶなどということは、これまでに一度だって考えたこともない。
「ああ、だったら、私のアパートに来る? うちなら一人暮らしなんだし、それこそ気兼ねなんかいらないわ」
知美の提案に、法子は慌てて「いいの、いいの」と言った。
「前から一度ね、ご招待したかったのよ。一応、ほら、新婚家庭でもあるんだし、どういう暮らしをしてるか、見せたかったの。うちだって、全然気兼ねなんかいらない家なのよ。ご馳走《ちそう》を作って待ってるから、ね」
「でも──」
「いいじゃない、そうしなさいよ」
「お邪魔じゃない? お嫁さんの友達なんかが遊びにいったら、いい顔なんかされないんじゃない?」
「それは、普通の家ならそうかも知れないけど、うちは大丈夫よ。賑やかなのは大好きだもの、皆で大歓迎するわ。ああ、何だったら、泊まっていかない? そうすれば、時間を気にしないで、それこそゆっくり喋れるじゃない」
法子は、いつになく熱心に知美を誘った。こんな風に彼女を誘ったことなど、高校以来の付き合いで、一度としてなかったかも知れない。知美は、随分ぐずぐずと渋っていたが、結局は「それなら」と、珍しいくらいに気弱な声で言った。そう言いながらも、まだ迷っている様子が法子にも伝わってきた。
「いつにする? うちは、いつでもいいのよ」
法子は半ば強引に、さっさと日取りを決めてしまうと、ついでに料理のリクエストまで取った。知美は、「好き嫌いはないの」と答えると、少しは嬉しそうな声になってきて、小金井の駅まで迎えに来て欲しいと言った。
「当たり前よ、迎えにいくわ。ああ、時間は? 何時頃がいいかしらね」
法子は受話器に向かってにこにこと笑い続けていた。電話を切る頃には、「うふふ」と声が出る程になっていた。これで、知美よりも精神的に優位に立って彼女と話せる。自分の土俵に誘い込めば、もう不安はないと確信していた。