□志貴の部屋
「離れに行ってみるかな……」
さしたる目的はないけど、その選択にはひどく心が躍った。
今日はこれ以上ないっていうぐらいの晴天だし、たまにはあの部屋で昼寝としゃれこむのも悪くはないだろう———
さしたる目的はないけど、その選択にはひどく心が躍った。
今日はこれ以上ないっていうぐらいの晴天だし、たまにはあの部屋で昼寝としゃれこむのも悪くはないだろう———
□離れの部屋
和室にあがって畳の上に腰を下ろす。
……古い匂い、といでも言うのだろうか。
草に近い畳の匂い。
障子戸の柔らかさ。
天井に走る木目は、この部屋が森中の一室のように思わせる。
「……ほんと、ここだけは昔とちっとも変わらないな」
ぼんやりと呟いて横になった。
……古い匂い、といでも言うのだろうか。
草に近い畳の匂い。
障子戸の柔らかさ。
天井に走る木目は、この部屋が森中の一室のように思わせる。
「……ほんと、ここだけは昔とちっとも変わらないな」
ぼんやりと呟いて横になった。
「………………」
心地よい静けさ。
外からは風や草の音が届いて、まったくの無音というわけではない。
「……………ん」
この静けさを知っている。
うっすらと目蓋を開けて思いを馳せれば、それだけで子供の頃に戻れるような懐かしさ。
———ああ、そんな感傷も当たり前だ。
何故ならもう何年も前に、遠野志貴はここでこうして幾度となく午睡を迎えたのだから————
……元気な足音が聞こえてくる。
眠った自分を起こしに来る少女は、いつもまっすぐな笑顔でおはようと挨拶をした。
日々は眩しくて、この幸福な時間がいつまでも続くのだと信じて疑わなかった頃の話だ。
それは何度も何度も繰り返したくせに、もう一度だって再現されるコトのない昔話。
眠った自分を起こしに来る少女は、いつもまっすぐな笑顔でおはようと挨拶をした。
日々は眩しくて、この幸福な時間がいつまでも続くのだと信じて疑わなかった頃の話だ。
それは何度も何度も繰り返したくせに、もう一度だって再現されるコトのない昔話。
人生は無くなってしまったモノ、戻らなくなってしまったモノばかりで構成される。
けれど失ったもの、なんていうモノはない。
確かにあの頃と色々なモノが変わってしまった。
だがそんなものは装飾だけだ。
モノの中身、本質というやつは本人が望んだってそう変えられるものではない。
例えば彼女。
思い出とは大きく変わってしまったけれど、それでも彼女はまだ昔のままの心を持っていて———
けれど失ったもの、なんていうモノはない。
確かにあの頃と色々なモノが変わってしまった。
だがそんなものは装飾だけだ。
モノの中身、本質というやつは本人が望んだってそう変えられるものではない。
例えば彼女。
思い出とは大きく変わってしまったけれど、それでも彼女はまだ昔のままの心を持っていて———
「———————————」
……眠りが終わる。
眠気はまだ残っているというのに意識が目覚めようとしている。
「———————————」
……おかしな違和感。
こんなにも静かだっていうのに、体は眠れる状態ではないと感知してしまった。
—————誰か。
狭い和室には、自分以外の余分な熱。
いまだ覚醒しえない意識が耳を澄ますと、たしかに誰かの呼吸が聞こえた。
いまだ覚醒しえない意識が耳を澄ますと、たしかに誰かの呼吸が聞こえた。
—————いるのか。
そうして、自分以外の人の気配で目が覚めた。
目を開けてまっさきに映ったものは、視界いっぱいに広がる翡翠の顔だった。
「——————————————」
不思議な事に、別段驚きはしなかった。
一目で翡翠はただ眠っていた俺の顔を覗きこんでいただけだと解ったし。
起きたばかりで寝ぼけた意識は、翡翠の顔がこんなに間近にあるという状況をあまり理解してくれなかったせいだろう。
一目で翡翠はただ眠っていた俺の顔を覗きこんでいただけだと解ったし。
起きたばかりで寝ぼけた意識は、翡翠の顔がこんなに間近にあるという状況をあまり理解してくれなかったせいだろう。
「——————————————」
とにもかくにも、驚いて声が出ないという状態ではない。
こっちはあくまでいつも通りの目覚めで、翡翠も当然のように俺を見詰めている。
翡翠もきっと同じような心境なんだろう。
まるで合わせ鏡。いや、水に映った像を一心に見ているような気分。
とにもかくにも、驚いて声が出ないという状態ではない。
こっちはあくまでいつも通りの目覚めで、翡翠も当然のように俺を見詰めている。
翡翠もきっと同じような心境なんだろう。
まるで合わせ鏡。いや、水に映った像を一心に見ているような気分。
「——————————————」
じっと見詰めてくる青い瞳。
———ああ。
そういえば以前にも似たような事があったっけ。あの時はこんな、のんびりと眠りの余韻に浸っている場合じゃなかったけど、なんだか経緯はとても似ているような気がする。
じっと見詰めてくる青い瞳。
———ああ。
そういえば以前にも似たような事があったっけ。あの時はこんな、のんびりと眠りの余韻に浸っている場合じゃなかったけど、なんだか経緯はとても似ているような気がする。
「————————や、おはよう」
さんざん考えた末、そんな言葉を口にした。
さんざん考えた末、そんな言葉を口にした。
「!—————————————」
途端。
顔を真っ赤にして、翡翠は退いてしまった。
途端。
顔を真っ赤にして、翡翠は退いてしまった。
□離れの部屋
「……ああ、もう夕方か。起こしに来てくれたんだ、翡翠」
【翡翠】
「ぁ……はい。志貴さまの姿が見当たらないようなのでお捜しするように、と秋葉さまが」
「秋葉が……? って事は、もしかしてもう夕食の時間……?」
「……はい。食堂では秋葉さまが志貴さまをお待ちになっておられます」
「…………ありゃ」
「秋葉が……? って事は、もしかしてもう夕食の時間……?」
「……はい。食堂では秋葉さまが志貴さまをお待ちになっておられます」
「…………ありゃ」
それは、まずい。夕食の時間までこんな所で寝ていたなんて知られたら、またカミナリが落ちかねない。
「それじゃ急がないと。……っと、ありがとう翡翠。それとごめんな、こんな所までわざわざ起こしに来てくれて」
翡翠にお礼を言って立ちあがる。
【翡翠】
「……いいえ、そのようなお言葉はいただけません。志貴さまに謝らなければならないのはわたしの方です」
顔を赤くしたまま俯く翡翠。
「え? なんで?」
ワケが解らず首をかしげる。
「…………………」
そんな俺を見て、翡翠はますます落ちこんでしまった。
顔を赤くしたまま俯く翡翠。
「え? なんで?」
ワケが解らず首をかしげる。
「…………………」
そんな俺を見て、翡翠はますます落ちこんでしまった。
「解らないな。謝るって、どうして?」
「……申し訳ありません。その、秋葉さまから志貴さまを捜すようにとお言葉をいただいてから一時間ほど過ぎてしまっているのです」
恥じ入るように翡翠は言う。
けどそんなのは別に、謝るほどの事じゃない。
「俺が離れで眠ってたのは翡翠のせいじゃないだろ。一時間かかったっていうけど、そんなの当然じゃないか。謝るのはこんな判りづらい所にいた俺の方だって」
「……申し訳ありません。その、秋葉さまから志貴さまを捜すようにとお言葉をいただいてから一時間ほど過ぎてしまっているのです」
恥じ入るように翡翠は言う。
けどそんなのは別に、謝るほどの事じゃない。
「俺が離れで眠ってたのは翡翠のせいじゃないだろ。一時間かかったっていうけど、そんなの当然じゃないか。謝るのはこんな判りづらい所にいた俺の方だって」
【翡翠】
「……わたしがここを訪れたのは三十分ほど前です。志貴さまが離れにいらっしゃる事は判っていましたから」
「え、三十分も前……?」
「え、三十分も前……?」
【翡翠】
「……はい。起こさなければ、と分かってはいたのですが、その……」
【翡翠】
と、そこで言葉を切って一層うつむいてしまう翡翠。
……そっか。ようするに俺はまたやってしまったわけだ。
……そっか。ようするに俺はまたやってしまったわけだ。
「ごめん翡翠。例によって呼ばれても起きなかったんだろ、俺。三十分も待たせて悪かった」
【翡翠】
「……違います。……その、志貴さまがあまりにも安らかにお眠りになられているものでしたから、つい志貴さまの寝顔を拝見しているうちに時間が経ってしまって……」
「え—————寝顔って、寝顔?」
「え—————寝顔って、寝顔?」
【翡翠】
こくん、と頷く翡翠。
「———————————」
カア、と赤面する自分。
「な」
なんで? と訊きだしたい気持ちが声にならない。
「———————————」
カア、と赤面する自分。
「な」
なんで? と訊きだしたい気持ちが声にならない。
【翡翠】
「……申し訳ありません。志貴さまの寝顔は昔と変わっていなくて、この和室で眠っておられると益々可愛らしく見えたのです。……それでつい、昔に戻ったような気がして、できるかぎり志貴さまを眠らせておきたいと、勝手に———」
翡翠の口調はたどたどしくて、普段の冷静さがまるでなかった。
……翡翠の言葉を借りると、そんな翡翠こそ昔に戻ったようで可愛いと思う。
「……そっか。じゃあもうしばらくここにいようか、翡翠」
【翡翠】
「し、志貴さま……?」
「どうせ今から行っても夕食には間に合わないよ。それならもうちょっとここで昔話をしたほうがいい」
「ですが、夕食をおとりにならないのはお体によくありません」
「いいよそんなの。ああ、それだったら二人で練習がてらに夕食を作ろう。二人がかりならなんとか夕食らしきものは作れるんじゃないかな」
「ですが、夕食をおとりにならないのはお体によくありません」
「いいよそんなの。ああ、それだったら二人で練習がてらに夕食を作ろう。二人がかりならなんとか夕食らしきものは作れるんじゃないかな」
【翡翠】
「……………………」
不安そうに黙り込む翡翠。
不安そうに黙り込む翡翠。
翡翠の立場としては頷く事ができないんだろうけど、黙っているという事は賛成してくれているという事だと思う。というか、もうそう決めた。
「よし決まり! そうなるとお茶の一つでも欲しいけど、この離れってそういうのあったっけ?」
【翡翠】
「……ご心配にはおよびません。それでしたら姉さんが少しずつ揃えてくれて、今はもう人が住めるほどになっていますから」
「そうなんだ。琥珀さんに感謝だね」
「そうなんだ。琥珀さんに感謝だね」
【翡翠】
はい、と笑みをうかべる翡翠。
「————————」
「————————」
あ。なんか、すごくいい雰囲気かも、と思ったその時。
ガラッ、バン、ドタタタタタタ、と騒々しい足音が聞こえてきた。
……いや、凄い勢いで近づいてきた。
【秋葉】
「いつまで人を待たせるんですか兄さん! ちょっと目を離せばこれなんだから、本当に首輪でも付けてさしあげないと解らないようですね!」
バン、と障子戸をフッ飛ばしかねない勢いで開けて、お約束とばかりに秋葉が現れた。
「……………………」
色々言いたいコトがあるんだけど、色々ありすぎてもう何を口にしたものやら。
【翡翠】
ほら、あんまりにも理不尽な登場にさすがの翡翠も不満そうな顔してるじゃないか。
【秋葉】
「いいですか、屋敷に住む以上は最低限の規則は守ってください。子供じゃあるまいし、食事の時間に帰ってこれないなんて何を考えてるんですか」
ささっ、とさりげなく翡翠と俺を隔てるような位置取りをする秋葉。
「ほら、行きますよ兄さん。せっかくの夕食が冷めてしまいます。それとも兄さんは琥珀の作った食事がお気に召さないんですか?」
……う。それを言われると、もう従わざるをえない。
「分かった、すぐに行くよ。……と、その前に一つだけ訊くけど。
この屋敷、ホントは監視カメラがついてるんだろ」
【秋葉】
「そのような話は琥珀に訊いてください。私には関係のない事です」
この屋敷、ホントは監視カメラがついてるんだろ」
【秋葉】
「そのような話は琥珀に訊いてください。私には関係のない事です」
「……ちょっと。少しは否定しろよ、おまえは」
【秋葉】
「だって本当に関係がないもの。お忘れのようですけど、私と兄さんは双子のようなものなんですよ? 兄さんには解らないでしょうけど、屋敷の中にいるのなら兄さんが何をしているかぐらいは判ります。
「だって本当に関係がないもの。お忘れのようですけど、私と兄さんは双子のようなものなんですよ? 兄さんには解らないでしょうけど、屋敷の中にいるのなら兄さんが何をしているかぐらいは判ります。
【秋葉】
ですから監視カメラなんて、そんな無粋なものは私には必要ありません。ね、そうでしょう翡翠?」
ですから監視カメラなんて、そんな無粋なものは私には必要ありません。ね、そうでしょう翡翠?」
【翡翠】
……う、秋葉のヤツ翡翠までいじめだした。
「ああもう、解ったから食堂に戻る! それじゃ翡翠、起こしに来てくれてありがとう……!」
だっ、と和室から走り出す。
「ちょっ、待ってください兄さん、まだ話は終わってません!」
ついで、秋葉が逃がすまいと追いかけてくる。
……うむ、計算通り。
翡翠をいじめようとする秋葉を誘導する事に大成功だ。翡翠を一人残すことになってしまったけど、それはまた後でお礼を言って許してもらおう———
そうして夕食。
広い食堂で席についているのは自分と秋葉だけで、琥珀さんは席の後ろに無言で控えている。
さっきの一件がまだ尾を引いているのか、秋葉はいつにも増してお冠で、チクチクと文句を言い続けてきた。
まあ、それもいつも通りといえばいつも通り。
怒った後で謝ってくる、なんて繰り返しをする秋葉は楽しいといえば楽しい。
そんなこんなで騒がしく夕食は終わってくれた。