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孤独のとなり65

时间: 2020-02-24    进入日语论坛
核心提示:懐かしくも淋しい話札幌で発行されている郷土誌「北の話」七二号の「無責任旅談」を懐かしく読ませていただき、八木義徳氏、瓜生
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懐かしくも淋しい話

札幌で発行されている郷土誌「北の話」七二号の「無責任旅談」を懐かしく読ませていただき、八木義徳氏、瓜生卓造氏、新川和江氏たち、それに八重樫ご夫妻との、十勝川温泉から、糠平までの旅を懐かしく思い出させられた。あれからもう七年にもなる筈《はず》である。
あの旅行には、いろいろの思い出が残っているが、十勝川温泉の笹井ホテルに行った時、鮭《さけ》だけではなく、白身の魚をも凍らせてルイベにし、夏の観光客に出すという話を聞いたのもその一つだ。それがなぜ忘れられないのか、わたしにもよくわからない。時に、ふっとそのことを思い出す。
何でもないことのようだが、他の宿でやっていないことを思いつくということ、そしてそれを実行するということは、本当は大変なことなのだと、わたしは感心したらしいのである。
思いがけなく白身のルイベを供せられた観光客は、帰宅してからも、きっと幾度も思い出すほど、印象に残るにちがいない。旅の喜びは、そうした心づかいに出会う喜びでもあるのだから。
それはさておき、「無責任旅談」を読みながら、あの頃は体力があったと、いささか感慨深いのである。というのは、今のわたしの体は、もう使い物にならないほどにくたびれ果てていて、とても何泊も、他の人と行を共にできる体ではない。
去年はまだそれほどでもなかった。二、三年前に四五キロまで痩《や》せた体が、五〇キロまで戻《もど》った。この分ならということで、三年越し断わって来たアメリカ・カナダの講演旅行を引き受けることにした。三浦と二人の講演旅行で出発予定は、今年の九月末であった。
が、予定はやはり予定であった。異変は三月の二十日に起きた。姪《めい》の結婚式のため札幌に行き、その夜は二時間ほどしか眠れなかった。翌日は朝の十時から式があるということで、着物を着るためにいつもより早く起きた。そして、披露《ひろう》が終わるまでの一日中、体を横にすることができなかった。とめ袖《そで》を着、袋帯をしていては、ちょっと手枕《てまくら》で横になるなどという芸当はできない。
夜の十一時頃だった。ホテルに戻ってから、疲れ切ったわたしは、心臓のあたりに痛みを覚えた。三浦に指圧をしてもらっている時、電話が入った。三浦の母が倒れたというのである。その途端に、わたしは呼吸困難におちいってしまったのだ。首がしめ上げられるような苦しさだった。
すぐにも旭川に駆けつけなければならないという時に、わたし自身の容態がおかしくなったのである。早速に医師を呼んでもらい、注射と服薬で、何とかその場はおさまった。医師は深夜だというのに一時間ほど様子を見てくれた。
その後一か月ほどして、体は元に戻り、函館に行ったり、稚内に行ったりすることもできた。これなら大丈夫ということで、六月の十八日、帯広の近郷にある大樹という町に講演に行った。体が悪くてどんな講演も何年も断わっていたから、アメリカ旅行への小手調べのつもりもあって、出かけて行ったのだ。
この大樹町から、以前にも何度か頼まれていたのだが、今年は三浦の大好物の菓子を持って、わざわざ旭川まで頼みに来られた。菓子は帯広柳月堂の「三方六」である。むろん菓子で心を動かされたわけではない。丁寧《ていねい》な招きの態度に、心が動いたのである。
ところが、大樹町に行ったその日、海霧《ガス》が立ちこめ、ひどく肌《はだ》寒かった。夕食後、三浦と二人で散歩に出ると、どれほども歩かぬうちに、あの首をしめられるような苦しさが、思いがけなくわたしを襲った。この苦しさは、翌日の講演の直前にも起こった。常持していた薬で、その場は何とかおさまったが、カナダもアメリカも断わらざるを得ない体であることを思い知らされた。
旭川に戻ってから、病院で心電図を撮《と》ってもらうと、わたしの心臓は搏力《はくりよく》がほとんどなく、いやいやながら、やっと動いている状態だという。その病院の三階に、親戚《しんせき》の者が入院しているので、見舞おうと思っていたのだが、
「見舞いの品はナースに届けさせるから、すぐお帰りください。階段の上り下りは無理です。家に帰っても、一階に寝るように」
と、医師にいわれて帰って来た。
元々、血圧が低く、最高で九十がふつうで、少し疲れると八十以下に下がる。最低は測定できないほどに下がってしまう。くたびれ切った状態で、その後二か月はほとんど寝てくらした。とは言え、仕事を休むことはできない。
幸か不幸か、肩こり症のわたしは、もう十年近くも前から、時折り口述で小説を作って来た。書き手は三浦である。彼は、わたしの言葉をそのまま原稿用紙に、かなりのスピードで移して行く。早い時は、一時間九枚ということもあった。この三浦のおかげで、わたしは床の中で口述をし、原稿を送ることができた。今後このような方法で、どれほどの期間仕事をしなければならないかわからない。
こういう状態の時に、少なくとも今よりずっと健康であった頃の自分の姿を、「無責任旅談」で、はからずもわたしは読んだ。人に書かれた自分の姿というものは、自分の知らぬうちに、隠しカメラで八ミリフィルムにでも撮られたような、奇妙な心地のするものだ。
ともあれ、もうあのような旅行は、生涯《しようがい》できないのではないか。健康は再び回復することはないのではないか。そう思っているわたしにとって、健やかな日の自分の姿にめぐりあうことは、懐かしくもまた淋《さび》しいことであった。
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