裕生と葉はキッチンのテーブルを挟《はさ》んで向かい合っている。
「いただきます」
「いただきます」
今日の朝食はなすの味噌汁《みそしる》とほうれん草のごま和《あ》えと焼き魚と大根おろし。絵に描《か》いたような和風のメニューだった。裕生は味噌汁を一口飲む。
ふと、こちらの表情を窺《うかが》っている葉と目が合った。
「……どうですか?」
「おいしいよ」
裕生は素直に答えた。葉の料理の腕前はもともとちょっと(いや、かなり)頼りなかったが、最近はかなり上達して来ていた。手持ちのクッキングブックに載《の》っている料理を、片っ端から作ろうとしているらしい。
「兄さんは?」
焼き魚に箸《はし》をつけながら裕生は尋《たず》ねる。
「……ちょっと前に出ていきました」
「今日も? 元気だなあ」
兄の雄一《ゆういち》は都心で一人暮らしをしながら東桜《とうおう》大学《だいがく》に通っているが、今は団地に戻って来ている。毎日炎天下に飛び出していき、小中学生たちに色々と聞き回っているらしい。彼の大学での研究テーマは「カゲヌシをめぐる都市伝説」だった。むろん、雄一はカゲヌシが実際に存在する怪物だとは知らない。
ふと、裕生はキッチンの時計を見る。朝の九時を回っている。父の吾郎《ごろう》や兄の雄一のために食事を用意したのだったら、かなり早くから起きていたはずだ。
「ひょっとして、ぼくが起きるまでご飯食べるの待ってた?」
こくんと葉はうなずいた。
「食べればよかったのに」
いやいやをするように葉《よう》は首を振った。何度言っても、裕生《ひろお》が起きて来るまで彼女は待っている。最初は二人切りで食事をするのが照れくさかったが、最近はそれにも慣《な》れて来ていた。
葉は黙々《もくもく》とご飯を口に運んでいる。
このところ「発作」もなく、顔色もよくなって来ていた。カゲヌシの飢餓感《きがかん》は「契約者」の体に発作として現れるが、先月「黒の彼方《かなた》」は「アブサロム」と「ボルガ」という二匹のカゲヌシを食っていた。今のところは満足しているらしい。一時的な小康状態《しょうこうじょうたい》だと分かっているが、時々こうしていると葉がカゲヌシに取りつかれていることを忘れそうになる。
「今日はどこかにいかないの」
葉は首を横に振った。一緒《いっしょ》に住み始めて改めて気づいたのだが、彼女はあまり家から出ようとしない。裕生が出かける時は一緒についてくるものの、彼が家にいる時はじっと閉じこもっている。なんとなく裕生から離《はな》れまいとしているようにも見えた。
「お昼、なにか食べたいものありますか」
と、葉が言った。なんでもいいよ、と言いかけて裕生は口をつぐんだ。彼自身も料理を作るので、そう言われるのが一番困るのは分かっている。
「この前作ってくれた冷たいパスタ、美味《おい》しかったな。鳥肉とトマトが入ってたヤツ」
彼女は戸惑《とまど》ったように視線《しせん》を落とした。
「憶《おぼ》えてない?」
「……作りましたっけ」
彼女の情《なさ》けなさそうな声に、裕生は噴《ふ》き出しそうになった。確《たし》かに彼女は新しい料理を次々と作ってくれるのだが、なにを作ったのか時々忘れてしまうらしい。今までにも何度かこういうことがあった。
「いただきます」
「いただきます」
今日の朝食はなすの味噌汁《みそしる》とほうれん草のごま和《あ》えと焼き魚と大根おろし。絵に描《か》いたような和風のメニューだった。裕生は味噌汁を一口飲む。
ふと、こちらの表情を窺《うかが》っている葉と目が合った。
「……どうですか?」
「おいしいよ」
裕生は素直に答えた。葉の料理の腕前はもともとちょっと(いや、かなり)頼りなかったが、最近はかなり上達して来ていた。手持ちのクッキングブックに載《の》っている料理を、片っ端から作ろうとしているらしい。
「兄さんは?」
焼き魚に箸《はし》をつけながら裕生は尋《たず》ねる。
「……ちょっと前に出ていきました」
「今日も? 元気だなあ」
兄の雄一《ゆういち》は都心で一人暮らしをしながら東桜《とうおう》大学《だいがく》に通っているが、今は団地に戻って来ている。毎日炎天下に飛び出していき、小中学生たちに色々と聞き回っているらしい。彼の大学での研究テーマは「カゲヌシをめぐる都市伝説」だった。むろん、雄一はカゲヌシが実際に存在する怪物だとは知らない。
ふと、裕生はキッチンの時計を見る。朝の九時を回っている。父の吾郎《ごろう》や兄の雄一のために食事を用意したのだったら、かなり早くから起きていたはずだ。
「ひょっとして、ぼくが起きるまでご飯食べるの待ってた?」
こくんと葉はうなずいた。
「食べればよかったのに」
いやいやをするように葉《よう》は首を振った。何度言っても、裕生《ひろお》が起きて来るまで彼女は待っている。最初は二人切りで食事をするのが照れくさかったが、最近はそれにも慣《な》れて来ていた。
葉は黙々《もくもく》とご飯を口に運んでいる。
このところ「発作」もなく、顔色もよくなって来ていた。カゲヌシの飢餓感《きがかん》は「契約者」の体に発作として現れるが、先月「黒の彼方《かなた》」は「アブサロム」と「ボルガ」という二匹のカゲヌシを食っていた。今のところは満足しているらしい。一時的な小康状態《しょうこうじょうたい》だと分かっているが、時々こうしていると葉がカゲヌシに取りつかれていることを忘れそうになる。
「今日はどこかにいかないの」
葉は首を横に振った。一緒《いっしょ》に住み始めて改めて気づいたのだが、彼女はあまり家から出ようとしない。裕生が出かける時は一緒についてくるものの、彼が家にいる時はじっと閉じこもっている。なんとなく裕生から離《はな》れまいとしているようにも見えた。
「お昼、なにか食べたいものありますか」
と、葉が言った。なんでもいいよ、と言いかけて裕生は口をつぐんだ。彼自身も料理を作るので、そう言われるのが一番困るのは分かっている。
「この前作ってくれた冷たいパスタ、美味《おい》しかったな。鳥肉とトマトが入ってたヤツ」
彼女は戸惑《とまど》ったように視線《しせん》を落とした。
「憶《おぼ》えてない?」
「……作りましたっけ」
彼女の情《なさ》けなさそうな声に、裕生は噴《ふ》き出しそうになった。確《たし》かに彼女は新しい料理を次々と作ってくれるのだが、なにを作ったのか時々忘れてしまうらしい。今までにも何度かこういうことがあった。
食事が終わった後、葉は流しで皿を洗い始めた。裕生はなにをするでもなく、ぼんやりとその背中を見ている。食後の平和なひとときだった。
こうして見ている分には、あんなバケモノが取りついているとはとても思えない。
「最近、あの犬はなにか言ってる?」
一瞬《いっしゅん》、彼女の動きが止まった。犬、というのは二人の間では「黒の彼方《かなた》」のことを指していた。
「……別に」
「体調《たいちょう》もなんともない?」
「……体調は大丈夫です」
「そう」
裕生はさっき夢の中で聞いた言葉を思い出した——じかんがない、というあの言葉。ただの夢のはずなのに、あの会話が妙に気にかかっていた。あの夢の中であんな会話を交《か》わしたことは今までなかった気がする。もっとも、忘れているだけなのかもしれないが。
「葉《よう》はぼくが書いたあの話、全部暗記してたよね?」
と、裕生《ひろお》は言った。彼はあの夢を見始めた頃《ころ》、それを下敷《したじ》きにして物語を作ったことがある。その物語を彼女が気に入っていたために、それが「ねがい」の象徴になってしまった——その題名が「くろのかなた」であり、ある意味では裕生があの「犬」の名づけ親だった。
「……はい」
「自分で書いて言うのもヘンだけど、全部はよく憶《おぼ》えてなくてさ。『時間がない』とかそういう会話って出て来たっけ」
葉は手を止めて考えこんでいる。長い沈黙《ちんもく》の後で、彼女はかすれた声で言った。
「なかった……と思います」
「そうだよね」
確《たし》かなかったはずだ。彼女に尋《たず》ねたのは確認だった。
「あ、そうだ。今度細かいところまでちゃんと教えてくれる? メモにして残しときたいんだ」
「……」
彼女は硬直したように動かない。なにかに耐えているような、張りつめた雰囲気が背中に漂《ただよ》っている。
「……葉?」
訝《いぶか》しんだ裕生が呼びかけた時、電話が鳴った。立ち上がった裕生は居間までいって受話器を取った。
「もしもし裕生ちゃん? あたしあたし!」
弾《はず》んだ声が回線《かいせん》の向こうから伝わって来た。名前を聞かなくともすぐに誰《だれ》なのか分かった。子供の頃はともかく、今の彼を「裕生ちゃん」と呼ぶのは一人だけだ。
「……天内《あまうち》さん?」
「だから茜《あかね》でいいってば。久しぶり!」
はあ、と裕生はため息をつく。
「今、病院?」
と、裕生は言った。先月裕生たちは、天内茜と蔵前《くらまえ》司《つかさ》という二人のカゲヌシの契約者と知り合っていた。蔵前は警察《けいきつ》に疑われることなく数十人もの人間を殺害して来た殺人鬼で、茜は蔵前に家族を殺されていた。
二人が契約していたカゲヌシ——ボルガとアブサロムは「黒の彼方《かなた》」によって倒されたが、結局蔵前は逃亡し、重傷を負った茜は病院で治療《ちりょう》を受けていた。
「うん、病院。もうすぐ退院だけどね。今、ロビーの電話からかけてるの。この前はお見舞《みま》いありがとう」
「……それは別にいいんだけど」
軽い疲れを感じながら裕生《ひろお》は言った。
「でも、ぼくが出たからいいけど、うちの苗字《みょうじ》ぐらい言ってくれないと、いたずら電話だと思われるよ」
「裕生ちゃんの苗字、忘れちゃった」
「藤牧《ふじまき》だよ。何回も言ったのになんで忘れ……」
その時、玄関のドアが開く音が聞こえた。裕生が廊下を覗《のぞ》くと、葉《よう》が出ていくところだった。声をかける間もなく、ドアが閉じた。
どこへいったんだろう、と裕生は思った。
「どうかした?」
「ううん。なんでもない……退院決まってよかったね」
「それは別にいいの。あんまり時間ないから急いで話すけど、あのね、なんか変わったことない?」
少し改まった声で彼女は言う。とたんに裕生は緊張《きんちょう》した。
「蔵前《くらまえ》のこと?」
蔵前は長らく警察《けいさつ》の目をごまかし続けて来たが、今は茜《あかね》の家族を殺害した容疑で全国に指名手配されている。他《ほか》にも何件かの殺人事件や失踪《しっそう》事件との関与が疑われているらしい。裕生たちは蔵前に対する警戒を解《と》いていない。蔵前は裕生たちに報復を誓って去っていった。おそらく、機会を見て自分たちの前に再び現れるはずだ。
「ううん。蔵前のことじゃなくて……ひょっとするともっと大変なこと」
「どういうこと?」
あの殺人鬼よりも「大変なこと」というのはよほどのことだ。
「あのね……」
茜はわずかに逡巡《しゅんじゅん》した。
「あたしたちが初めて会った時のこと、憶《おぼ》えてる?」
「え、あ、うん。憶えてるよ」
裕生は顔をしかめる。忘れようと思っても忘れられるものではない。
「どんな風だったか、ちゃんと説明できる?」
「当たり前だろ。ぼくらが東桜《とうおう》大学《だいがく》の校舎の屋上にいたら天内《あまうち》さんが来て、ぼくらをブッ殺すって叫んで……」
出会った時、茜は葉が自分の家族を殺したと勘違《かんちが》いしていた。危ういところで誤解を解くことができたが、そうでなかったら大変なことになっていたと思う。
「あたし、はっきり思い出せない」
「え?」
裕生は絶句した。
「東桜《とうおう》大学《だいがく》に入ったところとか、戦うのをやめた後は思い出せるんだけどね。裕生《ひろお》ちゃんみたいに説明できない」
「……」
茜《あかね》のボルガと「黒の彼方《かなた》」はそこで戦っている。まともに考えて忘れるはずがない。
「あたしが忘れっぽいだけなのかなって思ってたんだけど、他《ほか》にもいくつか忘れてることがあるみたい。裕生ちゃんの苗字《みょうじ》もそう」
茜は一瞬《いっしゅん》ためらってから、少しかすれた声で言った。
「ところどころ記憶《きおく》がないの。虫食いみたいに」
ぞくっと裕生の背筋に悪寒《おかん》が走った。
「……カゲヌシが原因だってこと?」
「カゲヌシは人間の頭の中にいるって裕生ちゃんが言ってたじゃない。それで、だんだん人間と一体化していくって。それってあたしとボルガが混ざり合ってたってことでしょ? だから、ボルガが死んだ時にあたしの記憶の一部が一緒《いっしょ》に持っていかれたんじゃないかって」
「……」
「まあ、正直言うとあたしも半信半疑なんだけどね。でも、葉《よう》ちゃんにも同じことが起こるかもしれないから、一応報告しとこうと思って。あ、もうお金なくなっちゃう。じゃあ、葉ちゃんにもよろし——」
電話は切れた。裕生は受話器を手にしたまま、しばらく立ちつくしていた。
ありえない話ではないと思う。カゲヌシが言うことを聞かない人間を乗っ取ろうとする時、記憶を奪うのは残酷《ざんこく》だけれど有効な方法だと思う。記憶がなくなれば、人間の人格など簡単《かんたん》に壊《こわ》れてしまうだろう。
ただ、本人も言っていたように茜はかなり忘れっぽい性格だ。単なる物忘れということもありうる気がする。同じようなことが葉に起こっているなら、話は別だけど——。
「……あ」
裕生は受話器を放り出して玄関へ走っていった。サンダルをつっかけて外へ飛び出し、ぐるぐると階段を下りていった。葉はそう遠くへはいっていないはずだ。
彼は大きな×印の描《か》かれたドアの前で足を止める。そこが以前葉の住んでいた部屋だった。半《なかば》ば確信《かくしん》を持ってドアノブを回す——鍵《かぎ》はかかっていなかった。細めに開けたドアから玄関を覗《のぞ》きこむと、葉のサンダルが投げ出してあった。
裕生は雛咲家《ひなさきけ》に上がり、まっすぐに葉の部屋へ向かう。ふすまを開けた瞬間、机の前に立った葉が黒いアタッシュケースをぱたりと閉じるのが見えた。一瞬、彼女がなにをしていたのか気になったが、すぐにそれを頭から追い出した。
「……なんですか」
葉は硬い声で言った。
「今、天内《あまうち》さんから電話があった」
「……」
彼女は黙《だま》って裕生《ひろお》の顔を見つめている。
「天内さん、憶《おぼ》えてるよね?」
「はい」
「天内さんのカゲヌシの名前は?」
彼女の視線《しせん》が一瞬《いっしゅん》だけ泳いだ。裕生がなにを確《たし》かめようとしているのか、察したようだった。
「……ボルガです」
「ボルガはどんなカゲヌシだった?」
彼女はお腹《なか》のあたりで重《かさ》ねた両手を、ぎゅっと握りしめた。
「空を飛んでて……」
それっきり彼女の言葉は立ち消えになった。
「ボルガはどんな力を持ってた?」
「…………よく、憶えてません」
かすかに声が震《ふる》えている。葉《よう》はうつむいてしまった。
時間が凍《こお》りついたような気がした。裕生の膝《ひざ》ががくがくと震え始める。
「いつから?」
それは確認だった。自分が作ったことのある料理を思い出せない。前は暗記していた物語を説明できない。どちらもそう以前ではないはずだ。もっと前だったら裕生も気づいている。
「……二週間ぐらい前から」
裕生の目の前が一瞬真《ま》っ暗《くら》になった。「いつかは」葉はカゲヌシに乗っ取られてしまう、などと思っていた自分が情《なさ》けなかった。いつか、などという生やさしいものではない。それはもうとっくに始まっているのだ。
「どうして言わなかったの」
ようやく裕生は言った。
「言うのが怖かったんです。もっと先輩《せんぱい》に迷惑《めいわく》かけるかもしれないから。今までだってわたしのことで色々……」
葉は突然、顔を覆《おお》って泣き始めた。裕生の胸がしめつけられるように痛んだ。彼は部屋の中にふらふらした足取りで入っていき、彼女のすぐそばで立ち止まる。
彼は無言で葉の細い肩にぎこちなく手を回した。彼女はぐすぐすと鼻を鳴らしながら、彼の肩におでこを預けてくる。
蝉《せみ》の鳴き声がどこかで聞こえる。
(ぼくはバカだ)
と、裕生は思った。葉が言わないのも当たり前だ。言ってくれたところで、裕生になにができるというわけではないのだから。
——今のところは。
「あの『犬』はなにか言ってるの?」
「……わたしに従うようにって。言うことを聞かなかったら、もっとたくさんのことを忘れさせることができるって」
「あいつの嘘《うそ》だよ。それができるんだったら、とっくにやってると思う」
「わたしもそう思ったけど、でも……」
葉《よう》は言いよどんだ。裕生《ひろお》にもひょっとしたらという気持ちがある。万が一「黒の彼方《かなた》」が自分の意志でより多くの記憶《きおく》を奪えるとしたら、それだけ葉が「黒の彼方」に取りこまれる日も早くなってしまうだろう。
それに「自由に記憶を奪う」ことができなくとも、もっと別の影響《えいきょう》を与える方法を持っているのかもしれない。
(間に合うと思いますか)
裕生が葉を助ける、と告《つ》げた時、「黒の彼方」はそう言っていた。あいつはこれが始まることを知っていたんだ、と彼は思った。自分はと言えば、発作が起こらなくなったことで、すっかり気を抜いていた。
(あの夢はこのことだったんだ)
と、裕生は思った。時間がない、というあの言葉は、お告げのようなものだったのかもしれない。
「……葉」
「はい」
「今度、なにかあったら必ずぼくに言って」
なにもできないのは力がないからだ。いや、力に対抗できるだけのものをなにも持っていないからだ。
だとしたら、それを手に入れるしかない。あの「犬」に知られないように。
(あいつと戦うんだ)
裕生は葉の肩に回した手に力をこめた。
こうして見ている分には、あんなバケモノが取りついているとはとても思えない。
「最近、あの犬はなにか言ってる?」
一瞬《いっしゅん》、彼女の動きが止まった。犬、というのは二人の間では「黒の彼方《かなた》」のことを指していた。
「……別に」
「体調《たいちょう》もなんともない?」
「……体調は大丈夫です」
「そう」
裕生はさっき夢の中で聞いた言葉を思い出した——じかんがない、というあの言葉。ただの夢のはずなのに、あの会話が妙に気にかかっていた。あの夢の中であんな会話を交《か》わしたことは今までなかった気がする。もっとも、忘れているだけなのかもしれないが。
「葉《よう》はぼくが書いたあの話、全部暗記してたよね?」
と、裕生《ひろお》は言った。彼はあの夢を見始めた頃《ころ》、それを下敷《したじ》きにして物語を作ったことがある。その物語を彼女が気に入っていたために、それが「ねがい」の象徴になってしまった——その題名が「くろのかなた」であり、ある意味では裕生があの「犬」の名づけ親だった。
「……はい」
「自分で書いて言うのもヘンだけど、全部はよく憶《おぼ》えてなくてさ。『時間がない』とかそういう会話って出て来たっけ」
葉は手を止めて考えこんでいる。長い沈黙《ちんもく》の後で、彼女はかすれた声で言った。
「なかった……と思います」
「そうだよね」
確《たし》かなかったはずだ。彼女に尋《たず》ねたのは確認だった。
「あ、そうだ。今度細かいところまでちゃんと教えてくれる? メモにして残しときたいんだ」
「……」
彼女は硬直したように動かない。なにかに耐えているような、張りつめた雰囲気が背中に漂《ただよ》っている。
「……葉?」
訝《いぶか》しんだ裕生が呼びかけた時、電話が鳴った。立ち上がった裕生は居間までいって受話器を取った。
「もしもし裕生ちゃん? あたしあたし!」
弾《はず》んだ声が回線《かいせん》の向こうから伝わって来た。名前を聞かなくともすぐに誰《だれ》なのか分かった。子供の頃はともかく、今の彼を「裕生ちゃん」と呼ぶのは一人だけだ。
「……天内《あまうち》さん?」
「だから茜《あかね》でいいってば。久しぶり!」
はあ、と裕生はため息をつく。
「今、病院?」
と、裕生は言った。先月裕生たちは、天内茜と蔵前《くらまえ》司《つかさ》という二人のカゲヌシの契約者と知り合っていた。蔵前は警察《けいきつ》に疑われることなく数十人もの人間を殺害して来た殺人鬼で、茜は蔵前に家族を殺されていた。
二人が契約していたカゲヌシ——ボルガとアブサロムは「黒の彼方《かなた》」によって倒されたが、結局蔵前は逃亡し、重傷を負った茜は病院で治療《ちりょう》を受けていた。
「うん、病院。もうすぐ退院だけどね。今、ロビーの電話からかけてるの。この前はお見舞《みま》いありがとう」
「……それは別にいいんだけど」
軽い疲れを感じながら裕生《ひろお》は言った。
「でも、ぼくが出たからいいけど、うちの苗字《みょうじ》ぐらい言ってくれないと、いたずら電話だと思われるよ」
「裕生ちゃんの苗字、忘れちゃった」
「藤牧《ふじまき》だよ。何回も言ったのになんで忘れ……」
その時、玄関のドアが開く音が聞こえた。裕生が廊下を覗《のぞ》くと、葉《よう》が出ていくところだった。声をかける間もなく、ドアが閉じた。
どこへいったんだろう、と裕生は思った。
「どうかした?」
「ううん。なんでもない……退院決まってよかったね」
「それは別にいいの。あんまり時間ないから急いで話すけど、あのね、なんか変わったことない?」
少し改まった声で彼女は言う。とたんに裕生は緊張《きんちょう》した。
「蔵前《くらまえ》のこと?」
蔵前は長らく警察《けいさつ》の目をごまかし続けて来たが、今は茜《あかね》の家族を殺害した容疑で全国に指名手配されている。他《ほか》にも何件かの殺人事件や失踪《しっそう》事件との関与が疑われているらしい。裕生たちは蔵前に対する警戒を解《と》いていない。蔵前は裕生たちに報復を誓って去っていった。おそらく、機会を見て自分たちの前に再び現れるはずだ。
「ううん。蔵前のことじゃなくて……ひょっとするともっと大変なこと」
「どういうこと?」
あの殺人鬼よりも「大変なこと」というのはよほどのことだ。
「あのね……」
茜はわずかに逡巡《しゅんじゅん》した。
「あたしたちが初めて会った時のこと、憶《おぼ》えてる?」
「え、あ、うん。憶えてるよ」
裕生は顔をしかめる。忘れようと思っても忘れられるものではない。
「どんな風だったか、ちゃんと説明できる?」
「当たり前だろ。ぼくらが東桜《とうおう》大学《だいがく》の校舎の屋上にいたら天内《あまうち》さんが来て、ぼくらをブッ殺すって叫んで……」
出会った時、茜は葉が自分の家族を殺したと勘違《かんちが》いしていた。危ういところで誤解を解くことができたが、そうでなかったら大変なことになっていたと思う。
「あたし、はっきり思い出せない」
「え?」
裕生は絶句した。
「東桜《とうおう》大学《だいがく》に入ったところとか、戦うのをやめた後は思い出せるんだけどね。裕生《ひろお》ちゃんみたいに説明できない」
「……」
茜《あかね》のボルガと「黒の彼方《かなた》」はそこで戦っている。まともに考えて忘れるはずがない。
「あたしが忘れっぽいだけなのかなって思ってたんだけど、他《ほか》にもいくつか忘れてることがあるみたい。裕生ちゃんの苗字《みょうじ》もそう」
茜は一瞬《いっしゅん》ためらってから、少しかすれた声で言った。
「ところどころ記憶《きおく》がないの。虫食いみたいに」
ぞくっと裕生の背筋に悪寒《おかん》が走った。
「……カゲヌシが原因だってこと?」
「カゲヌシは人間の頭の中にいるって裕生ちゃんが言ってたじゃない。それで、だんだん人間と一体化していくって。それってあたしとボルガが混ざり合ってたってことでしょ? だから、ボルガが死んだ時にあたしの記憶の一部が一緒《いっしょ》に持っていかれたんじゃないかって」
「……」
「まあ、正直言うとあたしも半信半疑なんだけどね。でも、葉《よう》ちゃんにも同じことが起こるかもしれないから、一応報告しとこうと思って。あ、もうお金なくなっちゃう。じゃあ、葉ちゃんにもよろし——」
電話は切れた。裕生は受話器を手にしたまま、しばらく立ちつくしていた。
ありえない話ではないと思う。カゲヌシが言うことを聞かない人間を乗っ取ろうとする時、記憶を奪うのは残酷《ざんこく》だけれど有効な方法だと思う。記憶がなくなれば、人間の人格など簡単《かんたん》に壊《こわ》れてしまうだろう。
ただ、本人も言っていたように茜はかなり忘れっぽい性格だ。単なる物忘れということもありうる気がする。同じようなことが葉に起こっているなら、話は別だけど——。
「……あ」
裕生は受話器を放り出して玄関へ走っていった。サンダルをつっかけて外へ飛び出し、ぐるぐると階段を下りていった。葉はそう遠くへはいっていないはずだ。
彼は大きな×印の描《か》かれたドアの前で足を止める。そこが以前葉の住んでいた部屋だった。半《なかば》ば確信《かくしん》を持ってドアノブを回す——鍵《かぎ》はかかっていなかった。細めに開けたドアから玄関を覗《のぞ》きこむと、葉のサンダルが投げ出してあった。
裕生は雛咲家《ひなさきけ》に上がり、まっすぐに葉の部屋へ向かう。ふすまを開けた瞬間、机の前に立った葉が黒いアタッシュケースをぱたりと閉じるのが見えた。一瞬、彼女がなにをしていたのか気になったが、すぐにそれを頭から追い出した。
「……なんですか」
葉は硬い声で言った。
「今、天内《あまうち》さんから電話があった」
「……」
彼女は黙《だま》って裕生《ひろお》の顔を見つめている。
「天内さん、憶《おぼ》えてるよね?」
「はい」
「天内さんのカゲヌシの名前は?」
彼女の視線《しせん》が一瞬《いっしゅん》だけ泳いだ。裕生がなにを確《たし》かめようとしているのか、察したようだった。
「……ボルガです」
「ボルガはどんなカゲヌシだった?」
彼女はお腹《なか》のあたりで重《かさ》ねた両手を、ぎゅっと握りしめた。
「空を飛んでて……」
それっきり彼女の言葉は立ち消えになった。
「ボルガはどんな力を持ってた?」
「…………よく、憶えてません」
かすかに声が震《ふる》えている。葉《よう》はうつむいてしまった。
時間が凍《こお》りついたような気がした。裕生の膝《ひざ》ががくがくと震え始める。
「いつから?」
それは確認だった。自分が作ったことのある料理を思い出せない。前は暗記していた物語を説明できない。どちらもそう以前ではないはずだ。もっと前だったら裕生も気づいている。
「……二週間ぐらい前から」
裕生の目の前が一瞬真《ま》っ暗《くら》になった。「いつかは」葉はカゲヌシに乗っ取られてしまう、などと思っていた自分が情《なさ》けなかった。いつか、などという生やさしいものではない。それはもうとっくに始まっているのだ。
「どうして言わなかったの」
ようやく裕生は言った。
「言うのが怖かったんです。もっと先輩《せんぱい》に迷惑《めいわく》かけるかもしれないから。今までだってわたしのことで色々……」
葉は突然、顔を覆《おお》って泣き始めた。裕生の胸がしめつけられるように痛んだ。彼は部屋の中にふらふらした足取りで入っていき、彼女のすぐそばで立ち止まる。
彼は無言で葉の細い肩にぎこちなく手を回した。彼女はぐすぐすと鼻を鳴らしながら、彼の肩におでこを預けてくる。
蝉《せみ》の鳴き声がどこかで聞こえる。
(ぼくはバカだ)
と、裕生は思った。葉が言わないのも当たり前だ。言ってくれたところで、裕生になにができるというわけではないのだから。
——今のところは。
「あの『犬』はなにか言ってるの?」
「……わたしに従うようにって。言うことを聞かなかったら、もっとたくさんのことを忘れさせることができるって」
「あいつの嘘《うそ》だよ。それができるんだったら、とっくにやってると思う」
「わたしもそう思ったけど、でも……」
葉《よう》は言いよどんだ。裕生《ひろお》にもひょっとしたらという気持ちがある。万が一「黒の彼方《かなた》」が自分の意志でより多くの記憶《きおく》を奪えるとしたら、それだけ葉が「黒の彼方」に取りこまれる日も早くなってしまうだろう。
それに「自由に記憶を奪う」ことができなくとも、もっと別の影響《えいきょう》を与える方法を持っているのかもしれない。
(間に合うと思いますか)
裕生が葉を助ける、と告《つ》げた時、「黒の彼方」はそう言っていた。あいつはこれが始まることを知っていたんだ、と彼は思った。自分はと言えば、発作が起こらなくなったことで、すっかり気を抜いていた。
(あの夢はこのことだったんだ)
と、裕生は思った。時間がない、というあの言葉は、お告げのようなものだったのかもしれない。
「……葉」
「はい」
「今度、なにかあったら必ずぼくに言って」
なにもできないのは力がないからだ。いや、力に対抗できるだけのものをなにも持っていないからだ。
だとしたら、それを手に入れるしかない。あの「犬」に知られないように。
(あいつと戦うんだ)
裕生は葉の肩に回した手に力をこめた。