「気にくわねーな、ったく」
加賀見《かがみ》団地の敷地内《しきちない》を歩いていた藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》は、浮かない表情でつぶやいた。前を歩いていた買い物帰りらしい主婦が振り向いて彼を見る——顔色を変えて近くの棟《むね》へと足早に入っていった。
(どっかにヤバいヤツでもいんのか)
思わず雄一《ゆういち》は立ち止まってあたりを見回した。団地の棟《むね》と棟の間にある道路に立っているのは彼一人だった。午後三時。一番暑い時間だった。
(……誰《だれ》もいねえじゃねえか)
不審《ふしん》人物がいるかと思ったのだが。もちろん、真っ黒に日焼けした肌にだらしなく伸びかけた金髪、目が痛くなるような極彩色《ごくさいしき》のシャツと金のネックレスとビーチサンダル、という自分自身の姿がどう見えるかはまったく考えていない。加賀見《かがみ》団地の主婦たちの間で、「最近、東南アジア帰りらしい若いヤクザがうろついている」という噂《うわさ》が流れていることも当然知らなかった。
ため息を一つついて雄一は歩き出した。もちろんヤクザではなく、れっきとした社会学専攻の大学生である。今日一日、加賀見市から隣《となり》の鶴亀町《つるきちょう》まで足を延ばして、「カゲヌシ」の都市伝説について聞き取り調査《ちょうさ》を行っていた。
「疲れてんのか、俺《おれ》」
と、彼はまたつぶやいた。どうかしているのも、疲れているのも自分のことだった。
彼は公園の脇《わき》を通り抜けて、自宅のある棟に辿《たど》り着く。階段を上がろうとした彼は、ふとなにかの薬品らしい刺激臭《しげきしゅう》に気づいた。
一階の雛咲家《ひなさきけ》のドアを見ると、スプレーの落書《らくが》きがなくなっていた。先月あたりから、このドアにスプレーで大きな×印を描《か》く者がいる。何度消してもいつのまにかまた描かれてしまうので、最近は放っておかれることが多くなっていたのだが。
(さっき消したばっかみてーだな)
ドアに鼻を近づけながら雄一は思う。多分、この異臭はスプレーを消す溶剤だろう。正直なところ、あの落書きにはなにか気にくわないところがあった。中学生の頃《ころ》、雄一もスプレーの落書きに凝《こ》っていた時期があったのだが、イタズラにしてはただの×印は素《そ》っ気《け》なさすぎる。それに何度消されても同じドアに同じ落書きを描くのは、なんとなく普通ではないような——。
雄一は階段を上がっていき、最上階の藤牧《ふじまき》家のドアを開ける。ビーチサンダルを脱ごうとして、彼は再び同じ異臭をかいだ。下駄箱《げたばこ》の上に溶剤の入ったプラスチックの容器が置いてあった。
(……裕生《ひろお》が消したのか?)
それもなんとなく妙な話だった。勝手に住民が消すと建物の塗装《とそう》を傷《いた》めるかもしれないので、落書きは団地の自治会に頼んで消してもらうことになっていたはずだ。
雄一は首をかしげながら廊下に上がる。キッチンの前を通りすぎてから、雄一は後戻りしてキッチンを覗《のぞ》きこんだ。
テーブルに顔を伏せて、葉《よう》が眠っている。それは別に不思議《ふしぎ》ではないが、彼女の頬《ほお》に涙の跡のようなものが見える。
(留守《るす》のあいだになんかあったんかな)
そう思いながら自分の部屋に入った雄一《ゆういち》は、今度こそぎょっと立ち止まった。部屋の真ん中に座りこんだ裕生《ひろお》が、熱心にレポート用紙の束に目を通している——問題は畳《たたみ》の上に雄一の持って来た書類ケースが開きっぱなしになっていることだった。雄一の持ち物を勝手に開けて中を見ている、ということになる。
「……なにやってんだお前」
そう声をかけると、裕生は文字通り飛び上がった。
「お、お帰り」
レポート用紙をケースに戻しながら裕生は言う。
「『お帰り』じゃねえだろ。なにやってんだ?」
雄一は静かな声で尋《たず》ねる。この場はガツンと叱《しか》り飛ばす方がいい気もしたが、正直なところ別に腹は立っていない。もともとレポートは他人《ひと》に読ませるために書いているのだし、それよりも裕生がこんなことをしている理由に興味《きょうみ》が湧《わ》いた。
「うん……ちょっと、その、なにが書いてあるのかなって思ったから」
しどろもどろになって裕生は答える。
「あのなァ、裕生くんよ」
雄一はどっかりとその場に腰を下ろす。顎《あご》を引き、サングラスを少しずらして相手の顔を見すえた。
「んな言《い》い訳《わけ》が俺《おれ》様に通じるワケねーだろ? 人を騙《だま》す時はもうちっとまともな嘘《うそ》つけや。なァ?」
低い声で囁《ささや》くと、裕生はびくっと体を震《ふる》わせる。別に脅《おど》すつもりはなかったが、無意識《むいしき》のうちにドスが効《き》きすぎたかもしれない。
雄一は裕生の顔から目を逸《そ》らさなかった。かつての無数のケンカの経験《けいけん》から、人間の怯《おび》えは真っ先に目に現れるという持論を彼は持っていた。怯えた人間は相手の視線《しせん》をまともに受けることができず、ほとんどは逃げを打つか、やけになって殴りかかるかのどちらかになるのだが。
(…………お?)
雄一は少し弟への見方を改めた。確《たし》かに裕生は怯えているのだが、自分を見失うほどではない。この場を切り抜けようしている者の目つきだった。
「……兄さん、『黄色《きいろ》いレインコートの男』の噂《うわさ》、調《しら》べてるんだよね?」
雄一はわずかに眉《まゆ》をひそめる。カゲヌシの噂に付随《ふずい》して、主に小学生の間で広まっている噂であり、その調査の首尾《しゅび》が雄一の不機嫌《ふきげん》の原因だった。
黄色いレインコートを着て、顔を隠《かく》した男が町をうろついている。その男は人間の影《かげ》を食う『カゲヌシ』の居場所を教えてくれるという。その男を見ることができたら、その人間はカゲヌシと会わずに済む——。
「それがどうした?」
一瞬《いっしゅん》、裕生《ひろお》は視線《しせん》を逸《そ》らせた。どう答えたものか、必死に考えているらしい。
「この前、黄色《きいろ》いレインコートを着た男を見た気がするんだ」
それまで余裕たっぷりに裕生を観察《かんきつ》していた雄一《ゆういち》は、そこで話に釣《つ》りこまれた。思わず身を乗り出す。
「どこで?」
「この団地の近くで。夏なのにそういうカッコしてたし、ひょっとしたらあれがそうなんじゃないかって。それで知りたくなったんだよ」
「俺《おれ》に直接聞きゃいいじゃねーか」
「ほら、噂《うわさ》なんか本気にしてたらおかしいみたいなこと、兄さん前に言ってたじゃない。小学生じゃないんだし、そういうの信じてるって思われるのなんか嫌《いや》だったから」
ふーむ、と雄一は首をかしげた。なんとなく釈然《しゃくぜん》としないが、裕生の説明には特に不審《ふしん》なところもないようだった。
「でも、実際のところ『レインコートの男』はいてもおかしくねえぞ」
「え?」
「いや、黄色いコートを着て歩くぐらいだったら、完全にありえねーってわけじゃねえだろ。ま、変人は変人だけどよ、『カゲヌシ』よりゃよっぽど実在の可能性あんな」
カゲヌシよりは、というあたりで、なぜか裕生は居心地《いごこち》悪そうに身じろぎした。
「でもな……実はなんっっか気にくわねーんだ」
「どういうこと?」
「いやそれがな、実はこの何日か、『コート男』の追跡|調査《ちょうさ》をやってたんだよ」
「追跡調査?」
「要するにその噂を誰《だれ》から聞いたのかを聞いて、そいつのところへいく。そいつからも誰からその噂を聞いたのかを聞いて……っていう繰《く》り返しだな。まー、伝言ゲームを逆に辿《たど》ってくワケだ。噂の伝わる速さとか、具体的にどっから来た噂なのかがおおまかに分かるんじゃねえかと思ってよ」
「大変じゃないの、それ」
「いや、調査対象は小中学生だからな。連中の行動|範囲《はんい》ってのは大人《おとな》よか狭《せめ》えから、どうにかなんじゃねえかって踏んだワケだ。で、この何日かで俺は三つの『コート男』の噂のルートを辿ってった……で、今日全部ダメになった」
「ダメって?」
「途中《とちゅう》でループしたり、分かんなくなったりすんだよ」
「なんで?」
「分かんねえ。とにかく、一定のところで追跡ができなくなる。それ自体は別におかしかねんだが、実は『コート男』の噂《うわさ》には一つだけ変なとこがあってな。『コート男を見かけても、自分が直接見たって言っちゃいけねえ』って」
「……誰《だれ》かが兄さんに嘘《うそ》ついたかもしれないってこと?」
ああ、と雄一《ゆういち》はうなずいた。
「都市伝説の類《たぐい》で、こういう条件が付くのは珍《めずら》しい。っていうか、実在するんじゃなきゃ、こんな条件はいらねえ。そうだろ? これじゃ『コート男』を噂のまんまにしとこうとしてるヤツが、どこかにいるみてーじゃ」
雄一はふと口をつぐんだ。以前に聞いたことのある「カゲヌシ」についての妙な噂を思い出していた。人間が怪物に食われるというのが本当の話で、誰かがそれを都市伝説のかたちにしてごまかそうとしている——。
(……まさかな)
この「カゲヌシ」の噂にのめりこみすぎたせいに違いない。雄一はぶるっと首を一振りして、妙な考えを払い落とした。
「まあ、別に俺《おれ》に断んなくていいから、俺のレポートは好きな時に好きなだけ見ろ。もともと隠《かく》してるわけじゃねーし、他《ほか》のヤツに見せても構わねーぞ」
雄一は立ち上がって部屋を出ていった。気持ちを落ち着けるために一服したかったのだ。
しかし、一服した後もなんとなく気分は晴れなかった。
加賀見《かがみ》団地の敷地内《しきちない》を歩いていた藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》は、浮かない表情でつぶやいた。前を歩いていた買い物帰りらしい主婦が振り向いて彼を見る——顔色を変えて近くの棟《むね》へと足早に入っていった。
(どっかにヤバいヤツでもいんのか)
思わず雄一《ゆういち》は立ち止まってあたりを見回した。団地の棟《むね》と棟の間にある道路に立っているのは彼一人だった。午後三時。一番暑い時間だった。
(……誰《だれ》もいねえじゃねえか)
不審《ふしん》人物がいるかと思ったのだが。もちろん、真っ黒に日焼けした肌にだらしなく伸びかけた金髪、目が痛くなるような極彩色《ごくさいしき》のシャツと金のネックレスとビーチサンダル、という自分自身の姿がどう見えるかはまったく考えていない。加賀見《かがみ》団地の主婦たちの間で、「最近、東南アジア帰りらしい若いヤクザがうろついている」という噂《うわさ》が流れていることも当然知らなかった。
ため息を一つついて雄一は歩き出した。もちろんヤクザではなく、れっきとした社会学専攻の大学生である。今日一日、加賀見市から隣《となり》の鶴亀町《つるきちょう》まで足を延ばして、「カゲヌシ」の都市伝説について聞き取り調査《ちょうさ》を行っていた。
「疲れてんのか、俺《おれ》」
と、彼はまたつぶやいた。どうかしているのも、疲れているのも自分のことだった。
彼は公園の脇《わき》を通り抜けて、自宅のある棟に辿《たど》り着く。階段を上がろうとした彼は、ふとなにかの薬品らしい刺激臭《しげきしゅう》に気づいた。
一階の雛咲家《ひなさきけ》のドアを見ると、スプレーの落書《らくが》きがなくなっていた。先月あたりから、このドアにスプレーで大きな×印を描《か》く者がいる。何度消してもいつのまにかまた描かれてしまうので、最近は放っておかれることが多くなっていたのだが。
(さっき消したばっかみてーだな)
ドアに鼻を近づけながら雄一は思う。多分、この異臭はスプレーを消す溶剤だろう。正直なところ、あの落書きにはなにか気にくわないところがあった。中学生の頃《ころ》、雄一もスプレーの落書きに凝《こ》っていた時期があったのだが、イタズラにしてはただの×印は素《そ》っ気《け》なさすぎる。それに何度消されても同じドアに同じ落書きを描くのは、なんとなく普通ではないような——。
雄一は階段を上がっていき、最上階の藤牧《ふじまき》家のドアを開ける。ビーチサンダルを脱ごうとして、彼は再び同じ異臭をかいだ。下駄箱《げたばこ》の上に溶剤の入ったプラスチックの容器が置いてあった。
(……裕生《ひろお》が消したのか?)
それもなんとなく妙な話だった。勝手に住民が消すと建物の塗装《とそう》を傷《いた》めるかもしれないので、落書きは団地の自治会に頼んで消してもらうことになっていたはずだ。
雄一は首をかしげながら廊下に上がる。キッチンの前を通りすぎてから、雄一は後戻りしてキッチンを覗《のぞ》きこんだ。
テーブルに顔を伏せて、葉《よう》が眠っている。それは別に不思議《ふしぎ》ではないが、彼女の頬《ほお》に涙の跡のようなものが見える。
(留守《るす》のあいだになんかあったんかな)
そう思いながら自分の部屋に入った雄一《ゆういち》は、今度こそぎょっと立ち止まった。部屋の真ん中に座りこんだ裕生《ひろお》が、熱心にレポート用紙の束に目を通している——問題は畳《たたみ》の上に雄一の持って来た書類ケースが開きっぱなしになっていることだった。雄一の持ち物を勝手に開けて中を見ている、ということになる。
「……なにやってんだお前」
そう声をかけると、裕生は文字通り飛び上がった。
「お、お帰り」
レポート用紙をケースに戻しながら裕生は言う。
「『お帰り』じゃねえだろ。なにやってんだ?」
雄一は静かな声で尋《たず》ねる。この場はガツンと叱《しか》り飛ばす方がいい気もしたが、正直なところ別に腹は立っていない。もともとレポートは他人《ひと》に読ませるために書いているのだし、それよりも裕生がこんなことをしている理由に興味《きょうみ》が湧《わ》いた。
「うん……ちょっと、その、なにが書いてあるのかなって思ったから」
しどろもどろになって裕生は答える。
「あのなァ、裕生くんよ」
雄一はどっかりとその場に腰を下ろす。顎《あご》を引き、サングラスを少しずらして相手の顔を見すえた。
「んな言《い》い訳《わけ》が俺《おれ》様に通じるワケねーだろ? 人を騙《だま》す時はもうちっとまともな嘘《うそ》つけや。なァ?」
低い声で囁《ささや》くと、裕生はびくっと体を震《ふる》わせる。別に脅《おど》すつもりはなかったが、無意識《むいしき》のうちにドスが効《き》きすぎたかもしれない。
雄一は裕生の顔から目を逸《そ》らさなかった。かつての無数のケンカの経験《けいけん》から、人間の怯《おび》えは真っ先に目に現れるという持論を彼は持っていた。怯えた人間は相手の視線《しせん》をまともに受けることができず、ほとんどは逃げを打つか、やけになって殴りかかるかのどちらかになるのだが。
(…………お?)
雄一は少し弟への見方を改めた。確《たし》かに裕生は怯えているのだが、自分を見失うほどではない。この場を切り抜けようしている者の目つきだった。
「……兄さん、『黄色《きいろ》いレインコートの男』の噂《うわさ》、調《しら》べてるんだよね?」
雄一はわずかに眉《まゆ》をひそめる。カゲヌシの噂に付随《ふずい》して、主に小学生の間で広まっている噂であり、その調査の首尾《しゅび》が雄一の不機嫌《ふきげん》の原因だった。
黄色いレインコートを着て、顔を隠《かく》した男が町をうろついている。その男は人間の影《かげ》を食う『カゲヌシ』の居場所を教えてくれるという。その男を見ることができたら、その人間はカゲヌシと会わずに済む——。
「それがどうした?」
一瞬《いっしゅん》、裕生《ひろお》は視線《しせん》を逸《そ》らせた。どう答えたものか、必死に考えているらしい。
「この前、黄色《きいろ》いレインコートを着た男を見た気がするんだ」
それまで余裕たっぷりに裕生を観察《かんきつ》していた雄一《ゆういち》は、そこで話に釣《つ》りこまれた。思わず身を乗り出す。
「どこで?」
「この団地の近くで。夏なのにそういうカッコしてたし、ひょっとしたらあれがそうなんじゃないかって。それで知りたくなったんだよ」
「俺《おれ》に直接聞きゃいいじゃねーか」
「ほら、噂《うわさ》なんか本気にしてたらおかしいみたいなこと、兄さん前に言ってたじゃない。小学生じゃないんだし、そういうの信じてるって思われるのなんか嫌《いや》だったから」
ふーむ、と雄一は首をかしげた。なんとなく釈然《しゃくぜん》としないが、裕生の説明には特に不審《ふしん》なところもないようだった。
「でも、実際のところ『レインコートの男』はいてもおかしくねえぞ」
「え?」
「いや、黄色いコートを着て歩くぐらいだったら、完全にありえねーってわけじゃねえだろ。ま、変人は変人だけどよ、『カゲヌシ』よりゃよっぽど実在の可能性あんな」
カゲヌシよりは、というあたりで、なぜか裕生は居心地《いごこち》悪そうに身じろぎした。
「でもな……実はなんっっか気にくわねーんだ」
「どういうこと?」
「いやそれがな、実はこの何日か、『コート男』の追跡|調査《ちょうさ》をやってたんだよ」
「追跡調査?」
「要するにその噂を誰《だれ》から聞いたのかを聞いて、そいつのところへいく。そいつからも誰からその噂を聞いたのかを聞いて……っていう繰《く》り返しだな。まー、伝言ゲームを逆に辿《たど》ってくワケだ。噂の伝わる速さとか、具体的にどっから来た噂なのかがおおまかに分かるんじゃねえかと思ってよ」
「大変じゃないの、それ」
「いや、調査対象は小中学生だからな。連中の行動|範囲《はんい》ってのは大人《おとな》よか狭《せめ》えから、どうにかなんじゃねえかって踏んだワケだ。で、この何日かで俺は三つの『コート男』の噂のルートを辿ってった……で、今日全部ダメになった」
「ダメって?」
「途中《とちゅう》でループしたり、分かんなくなったりすんだよ」
「なんで?」
「分かんねえ。とにかく、一定のところで追跡ができなくなる。それ自体は別におかしかねんだが、実は『コート男』の噂《うわさ》には一つだけ変なとこがあってな。『コート男を見かけても、自分が直接見たって言っちゃいけねえ』って」
「……誰《だれ》かが兄さんに嘘《うそ》ついたかもしれないってこと?」
ああ、と雄一《ゆういち》はうなずいた。
「都市伝説の類《たぐい》で、こういう条件が付くのは珍《めずら》しい。っていうか、実在するんじゃなきゃ、こんな条件はいらねえ。そうだろ? これじゃ『コート男』を噂のまんまにしとこうとしてるヤツが、どこかにいるみてーじゃ」
雄一はふと口をつぐんだ。以前に聞いたことのある「カゲヌシ」についての妙な噂を思い出していた。人間が怪物に食われるというのが本当の話で、誰かがそれを都市伝説のかたちにしてごまかそうとしている——。
(……まさかな)
この「カゲヌシ」の噂にのめりこみすぎたせいに違いない。雄一はぶるっと首を一振りして、妙な考えを払い落とした。
「まあ、別に俺《おれ》に断んなくていいから、俺のレポートは好きな時に好きなだけ見ろ。もともと隠《かく》してるわけじゃねーし、他《ほか》のヤツに見せても構わねーぞ」
雄一は立ち上がって部屋を出ていった。気持ちを落ち着けるために一服したかったのだ。
しかし、一服した後もなんとなく気分は晴れなかった。