「……その後、すぐに裕生《ひろお》ちゃんに連絡取りたかったんだけど、携帯《けいたい》なくしちゃったって言ったでしょ? それで、東京まで戻ってきてここに辿《たど》り着いたの」
茜は長い話を締《し》めくくった。ツネコに貸してもらったらしい白地に紺《こん》の柄《がら》の入った浴衣《ゆかた》を着て、布団《ふとん》の中で体を起こしている。着ていた服は汚れていたので、ツネコに近くのコインランドリーで洗ってもらっているらしい。
裕生は布団の脇《わき》に座って話を聞いていた。ツネコは一階で喜嶋《きじま》バーの開店の準備をしているらしかった。
「じゃ、蔵前も今は東京に来てるんだ」
と、裕生は言った。三日以内に連れてこいと言ったということは、少なくとも東桜大学の近辺に潜《ひそ》んでいることになる。
「多分《たぶん》……その後は会ってないけど」
「どうして、葉《よう》を連れてくるなって言ったの?」
「今言ったでしょ? 『黒の彼方』のことで、蔵前が変なこと言ってたって」
「『今のぼくたちには会いたがらない』だっけ」
「会いたがらないってことは、あの犬が蔵前《くらまえ》のことをなにか知ってるかもしれないってことよね。そういうことは裕生《ひろお》ちゃんだけに相談《そうだん》した方がいいかなって思って」
「そうだったんだ……」
どういう意味なのかは裕生にも見当が付かなかった。あの事件以降、「黒の彼方《かなた》」と蔵前が接触したことはない。それは断言出来る。だとすると、蔵前の今のカゲヌシ——その、アブサロム・ドッグヘッドについてなにか知っているのかもしれない。
(ドッグヘッド)
裕生はその言葉を胸の内で繰り返した。以前にも聞いたことがある言葉だった。あのレインメイカー——船瀬《ふなせ》に「黒曜《こくよう》」をもらった時のことだったと思う。
「『黒の彼方』を倒すために、気を付けなければならないこと」を尋《たず》ねた時に、返ってきた答えが「ドッグヘッド」だった。あの時は「黒の彼方」の首、という意味だとばかり思っていたのだが。現に「黒の彼方」の眠り首を食ったカゲヌシ・龍子主《たつこぬし》は、体内から体を食い破られて死んでしまった。
(他《ほか》になにか意味があるのかもしれない)
裕生は茜《あかね》から聞いた話を頭の中で整理《せいり》した。三ヶ月前に「黒の彼方」が倒したはずのアブサロムはやはり死んでいなかった。蔵前の言葉を信じるなら、その後で新しいカゲヌシとも契約を結んだことになる。
(本当にそんなことがあるのかな)
「あの、ただ前のカゲヌシが生き残ってただけってことはないかな」
前のアブサロム——人間型のカゲヌシを倒した時、契約者の行方《ゆくえ》を追跡させるために、「サイン」のあるアブサロムの左腕だけを残しておいた。あの左腕の細胞は蔵前が逃亡した段階ではまだ生きていた。司令塔がなければやがては死滅するという話だったが、ひょっとするとあれがなにかの理由で生きていた、という可能性はないだろうか。
しかし、茜は首を振った。
「そんな簡単《かんたん》じゃないと思う。なんていうか、あいつはすごく前と様子《ようす》が変わってたし、それにあたし、あいつの新しいサインを見てるから」
「え、どこで?」
茜はいきなり自分の脚にかかっていた布団《ふとん》をまくった。なんだろう、と裕生が首をかしげる間もなく、浴衣《ゆかた》の裾《すそ》を割って裕生のいる方へにゅっと素足を突き出した。右脚が太腿《ふともも》まで見えているが、ついでにその奥の下着まではっきり見えていた。
慌てて裕生は目を逸《そ》らした。
「な、なにやってんの」
「ほら、ちゃんと見て!」
彼女はさらに脚を突き出してくる——裕生は仕方なくちらりと彼女の白い太腿を見下ろす。脚の付け根から少し下のあたりに、奇妙な模様が描かれていた。
「さっき言ったけど、これがあいつに付けられた『刻印』なの。きっと新しいアブサロムのサインなんだよ」
それは灰色《はいいろ》のインクのようなもので描かれていた。二つの正六角形からなり、大きめの六角形の中に一回り小さな六角形が入っている。
「これ、なにで描《か》いたんだろう?」
ただのインクではなさそうだった。よく見ると鈍《にぶ》く光っている。
「さわってみて」
「は?」
「いいから。さわれば分かるよ」
屈託《くったく》なく茜《あかね》は言い、裕生《ひろお》の目の前に脚を突き出したまま待っている。裕生はおそるおそる彼女の肌に指を近づけていった。
「えっ」
触れた瞬間《しゅんかん》、裕生は声を上げた。皮膚《ひふ》のその部分だけが硬く冷たい。まるで金属のかさぶたが貼《は》り付いているようだった。
「分かるでしょ? カゲヌシがやったんだよ、これ」
アブサロムは触れたものを金属に変える能力を持っていた。それでサインを描いたのだ。
その時、階段を上がってくる足音が聞こえた。裕生は茜の太腿《ふともも》に目を近づけている自分に気づき、ぎょっとして体を起こした。茜は特に急ぐ様子《ようす》もなく、乱れた裾《すそ》を直し始める。
そこへツネコが紙袋を手に現れた。
「洗濯物《せんたくもの》、乾い……」
ツネコの言葉が途切《とぎ》れる。茜はもぞもぞと裾をいじっており、裕生の顔は真《ま》っ赤《か》になっている。
「ありがとうございました」
茜はにっこり笑って、ツネコから紙袋を受け取った。中には赤い服らしきものが入っている。
「……なにしてたの、あんたたち」
疑わしげにツネコは二人を見比べる。
「えっ、別に……話をしてました」
裕生はつっかえながら答えた。
「話? 脚、出して?」
「あ、あたしの太腿のアザ見せてたんです」
と、茜は言った。ツネコの表情が凍り付いたような気がした。
どうやら言《い》い訳《わけ》のつもりらしく、茜は「ねー?」と裕生に向かって同意を求めてきたが、反応のしようがなかった。
ツネコは無言で向きを変えると、階段を降りて行った。裕生《ひろお》はかける言葉もなくそれを見送る。
「さてと。着替えようかな」
茜《あかね》が布団《ふとん》から出てきて、紙袋から赤いワンピースを取り出した。
「あ、裕生ちゃん悪いんだけどちょっと下に降りててくれる?」
「うん。分かった」
裕生は立ち上がったが、階段の上でふと足を止めた。ツネコが下で待ち構えているかと思うと不安になった。
「なにしてんの? あたしが着替えるとこ見たい?」
「ち、違うよ!」
裕生は慌てて階段を降りて行った。今のやりとりも下に聞こえたかもしれない、と思った。
茜は長い話を締《し》めくくった。ツネコに貸してもらったらしい白地に紺《こん》の柄《がら》の入った浴衣《ゆかた》を着て、布団《ふとん》の中で体を起こしている。着ていた服は汚れていたので、ツネコに近くのコインランドリーで洗ってもらっているらしい。
裕生は布団の脇《わき》に座って話を聞いていた。ツネコは一階で喜嶋《きじま》バーの開店の準備をしているらしかった。
「じゃ、蔵前も今は東京に来てるんだ」
と、裕生は言った。三日以内に連れてこいと言ったということは、少なくとも東桜大学の近辺に潜《ひそ》んでいることになる。
「多分《たぶん》……その後は会ってないけど」
「どうして、葉《よう》を連れてくるなって言ったの?」
「今言ったでしょ? 『黒の彼方』のことで、蔵前が変なこと言ってたって」
「『今のぼくたちには会いたがらない』だっけ」
「会いたがらないってことは、あの犬が蔵前《くらまえ》のことをなにか知ってるかもしれないってことよね。そういうことは裕生《ひろお》ちゃんだけに相談《そうだん》した方がいいかなって思って」
「そうだったんだ……」
どういう意味なのかは裕生にも見当が付かなかった。あの事件以降、「黒の彼方《かなた》」と蔵前が接触したことはない。それは断言出来る。だとすると、蔵前の今のカゲヌシ——その、アブサロム・ドッグヘッドについてなにか知っているのかもしれない。
(ドッグヘッド)
裕生はその言葉を胸の内で繰り返した。以前にも聞いたことがある言葉だった。あのレインメイカー——船瀬《ふなせ》に「黒曜《こくよう》」をもらった時のことだったと思う。
「『黒の彼方』を倒すために、気を付けなければならないこと」を尋《たず》ねた時に、返ってきた答えが「ドッグヘッド」だった。あの時は「黒の彼方」の首、という意味だとばかり思っていたのだが。現に「黒の彼方」の眠り首を食ったカゲヌシ・龍子主《たつこぬし》は、体内から体を食い破られて死んでしまった。
(他《ほか》になにか意味があるのかもしれない)
裕生は茜《あかね》から聞いた話を頭の中で整理《せいり》した。三ヶ月前に「黒の彼方」が倒したはずのアブサロムはやはり死んでいなかった。蔵前の言葉を信じるなら、その後で新しいカゲヌシとも契約を結んだことになる。
(本当にそんなことがあるのかな)
「あの、ただ前のカゲヌシが生き残ってただけってことはないかな」
前のアブサロム——人間型のカゲヌシを倒した時、契約者の行方《ゆくえ》を追跡させるために、「サイン」のあるアブサロムの左腕だけを残しておいた。あの左腕の細胞は蔵前が逃亡した段階ではまだ生きていた。司令塔がなければやがては死滅するという話だったが、ひょっとするとあれがなにかの理由で生きていた、という可能性はないだろうか。
しかし、茜は首を振った。
「そんな簡単《かんたん》じゃないと思う。なんていうか、あいつはすごく前と様子《ようす》が変わってたし、それにあたし、あいつの新しいサインを見てるから」
「え、どこで?」
茜はいきなり自分の脚にかかっていた布団《ふとん》をまくった。なんだろう、と裕生が首をかしげる間もなく、浴衣《ゆかた》の裾《すそ》を割って裕生のいる方へにゅっと素足を突き出した。右脚が太腿《ふともも》まで見えているが、ついでにその奥の下着まではっきり見えていた。
慌てて裕生は目を逸《そ》らした。
「な、なにやってんの」
「ほら、ちゃんと見て!」
彼女はさらに脚を突き出してくる——裕生は仕方なくちらりと彼女の白い太腿を見下ろす。脚の付け根から少し下のあたりに、奇妙な模様が描かれていた。
「さっき言ったけど、これがあいつに付けられた『刻印』なの。きっと新しいアブサロムのサインなんだよ」
それは灰色《はいいろ》のインクのようなもので描かれていた。二つの正六角形からなり、大きめの六角形の中に一回り小さな六角形が入っている。
「これ、なにで描《か》いたんだろう?」
ただのインクではなさそうだった。よく見ると鈍《にぶ》く光っている。
「さわってみて」
「は?」
「いいから。さわれば分かるよ」
屈託《くったく》なく茜《あかね》は言い、裕生《ひろお》の目の前に脚を突き出したまま待っている。裕生はおそるおそる彼女の肌に指を近づけていった。
「えっ」
触れた瞬間《しゅんかん》、裕生は声を上げた。皮膚《ひふ》のその部分だけが硬く冷たい。まるで金属のかさぶたが貼《は》り付いているようだった。
「分かるでしょ? カゲヌシがやったんだよ、これ」
アブサロムは触れたものを金属に変える能力を持っていた。それでサインを描いたのだ。
その時、階段を上がってくる足音が聞こえた。裕生は茜の太腿《ふともも》に目を近づけている自分に気づき、ぎょっとして体を起こした。茜は特に急ぐ様子《ようす》もなく、乱れた裾《すそ》を直し始める。
そこへツネコが紙袋を手に現れた。
「洗濯物《せんたくもの》、乾い……」
ツネコの言葉が途切《とぎ》れる。茜はもぞもぞと裾をいじっており、裕生の顔は真《ま》っ赤《か》になっている。
「ありがとうございました」
茜はにっこり笑って、ツネコから紙袋を受け取った。中には赤い服らしきものが入っている。
「……なにしてたの、あんたたち」
疑わしげにツネコは二人を見比べる。
「えっ、別に……話をしてました」
裕生はつっかえながら答えた。
「話? 脚、出して?」
「あ、あたしの太腿のアザ見せてたんです」
と、茜は言った。ツネコの表情が凍り付いたような気がした。
どうやら言《い》い訳《わけ》のつもりらしく、茜は「ねー?」と裕生に向かって同意を求めてきたが、反応のしようがなかった。
ツネコは無言で向きを変えると、階段を降りて行った。裕生《ひろお》はかける言葉もなくそれを見送る。
「さてと。着替えようかな」
茜《あかね》が布団《ふとん》から出てきて、紙袋から赤いワンピースを取り出した。
「あ、裕生ちゃん悪いんだけどちょっと下に降りててくれる?」
「うん。分かった」
裕生は立ち上がったが、階段の上でふと足を止めた。ツネコが下で待ち構えているかと思うと不安になった。
「なにしてんの? あたしが着替えるとこ見たい?」
「ち、違うよ!」
裕生は慌てて階段を降りて行った。今のやりとりも下に聞こえたかもしれない、と思った。
階段の下は狭いキッチンになっている。そこを通り抜けてカウンターの方へ出ると、ツネコはスツールに腰かけて頬杖《ほおづえ》をついていた。物思いに沈んでいる様子《ようす》だった。
裕生は上であったことを説明しようとしたが、なにを言っても墓穴《ぼけつ》を掘りそうで結局思いとどまった。かといってなにか言われるまでじっと待っているのも耐えがたい。どうしたらいいか一人でおろおろしていると、ツネコがふと口を開いた。
「……別にあたしも嫌《いや》がられたいわけじゃないのよね」
穏《おだ》やかな声にかえって裕生は驚《おどろ》いた。
「一応、姪《めい》っ子は心配だから、つい色々言いたくなっちゃうのよ。ほっとくとヘンな男に騙《だま》されちゃうんじゃないか、とかって……」
それからはっとしたように裕生の方を見た。
「ヘンな男って君がそうだってはっきり言ってるわけじゃないのよ。君のことはおおむね信頼してるわけ……少なくともそういう方向で考えてるの。分かる?」
「は、はい。ありがとうございま……す?」
裕生は首をかしげた。微妙な留保がついているので、礼を言っていいものか迷った。
「まあ、さっきは色々言っちゃったけど、君とあの天内《あまうち》さんって子はなんでもないかもしれないって一応は分かってるつもりだし……」
「ほんとになんでもないです」
裕生はきっぱり否定した。
「……ただ、もう少し態度をはっきりしてあげてほしいの。葉《よう》に対してね」
ツネコは急にきりっと表情を改める。彼女の目に責めるような色はなかった。
「葉のことどう思ってるの?」
雄一《ゆういち》にされたのとまったく同じ質問だった。立て続けに聞かれるのは、自分の態度が煮えきらないからだろうと思った。そして、葉《よう》の状態がもう抜き差しならないところまで来ているからだろう。
裕生《ひろお》は深いため息をついた。
「……もちろん葉を嫌《きら》いなわけじゃないです。でも、どうしてもはっきりしないっていうか……自分でもほんとに分からないんです。今、葉はああいう状態だし、そういう時にそういうこと考えていいのかもよく分からないし……すいません」
支離滅裂《しりめつれつ》だった。こんな答えを聞かされたら誰《だれ》でも怒ると思った。
裕生はおそるおそるツネコの顔を窺《うかが》う——しかし、彼女はにこにこ笑っていた。初めてツネコの心からの笑顔《えがお》を見た気がした。
「あの……」
「真剣には考えてくれてるんでしょ、あの子のこと」
と、ツネコは言った。裕生は無言でうなずいた。
「だったらそれでいいわ。ありがとね」
それで話は終わり、というように、ツネコは立ち上がる。心からいいと思っていないことぐらいは裕生にも分かった。ただ、葉の心中を察するように、裕生の心中も察してくれただけなのだろう。
ツネコにも家族はいない。葉はたった一人の親族《しんぞく》なのだ。それでも、一応は裕生を信用して一緒《いっしょ》に住むことも許してくれている。
(ちゃんとしなきゃ)
どのように、なのかは自分でもまだ分からなかったが、裕生は自分に言い聞かせた。
その時、喜嶋《きじま》バーのドアが開いた。
裕生たちが振り向くと、制服を着てギプスを首から下げた佐貫《さぬき》が立っていた。
「あ、どうも」
と、佐貫はツネコに頭を下げた。
「こんにちは」
ツネコも笑顔で答えた。この二人は加賀見《かがみ》の病院で何度か顔を合わせている。
「さっき電話があった時、来てほしいって頼んだんです」
と、裕生が説明する。
「あら、そうなの……学校は?」
笑顔のままでツネコは尋《たず》ねる。サボりました、とも言えないらしく、佐貫もただ笑っている。その時、佐貫の後ろから葉がひょいと顔を出した。
「え?」
裕生は目を瞠《みは》った。葉は裕生を見てにっこり笑った。
裕生は上であったことを説明しようとしたが、なにを言っても墓穴《ぼけつ》を掘りそうで結局思いとどまった。かといってなにか言われるまでじっと待っているのも耐えがたい。どうしたらいいか一人でおろおろしていると、ツネコがふと口を開いた。
「……別にあたしも嫌《いや》がられたいわけじゃないのよね」
穏《おだ》やかな声にかえって裕生は驚《おどろ》いた。
「一応、姪《めい》っ子は心配だから、つい色々言いたくなっちゃうのよ。ほっとくとヘンな男に騙《だま》されちゃうんじゃないか、とかって……」
それからはっとしたように裕生の方を見た。
「ヘンな男って君がそうだってはっきり言ってるわけじゃないのよ。君のことはおおむね信頼してるわけ……少なくともそういう方向で考えてるの。分かる?」
「は、はい。ありがとうございま……す?」
裕生は首をかしげた。微妙な留保がついているので、礼を言っていいものか迷った。
「まあ、さっきは色々言っちゃったけど、君とあの天内《あまうち》さんって子はなんでもないかもしれないって一応は分かってるつもりだし……」
「ほんとになんでもないです」
裕生はきっぱり否定した。
「……ただ、もう少し態度をはっきりしてあげてほしいの。葉《よう》に対してね」
ツネコは急にきりっと表情を改める。彼女の目に責めるような色はなかった。
「葉のことどう思ってるの?」
雄一《ゆういち》にされたのとまったく同じ質問だった。立て続けに聞かれるのは、自分の態度が煮えきらないからだろうと思った。そして、葉《よう》の状態がもう抜き差しならないところまで来ているからだろう。
裕生《ひろお》は深いため息をついた。
「……もちろん葉を嫌《きら》いなわけじゃないです。でも、どうしてもはっきりしないっていうか……自分でもほんとに分からないんです。今、葉はああいう状態だし、そういう時にそういうこと考えていいのかもよく分からないし……すいません」
支離滅裂《しりめつれつ》だった。こんな答えを聞かされたら誰《だれ》でも怒ると思った。
裕生はおそるおそるツネコの顔を窺《うかが》う——しかし、彼女はにこにこ笑っていた。初めてツネコの心からの笑顔《えがお》を見た気がした。
「あの……」
「真剣には考えてくれてるんでしょ、あの子のこと」
と、ツネコは言った。裕生は無言でうなずいた。
「だったらそれでいいわ。ありがとね」
それで話は終わり、というように、ツネコは立ち上がる。心からいいと思っていないことぐらいは裕生にも分かった。ただ、葉の心中を察するように、裕生の心中も察してくれただけなのだろう。
ツネコにも家族はいない。葉はたった一人の親族《しんぞく》なのだ。それでも、一応は裕生を信用して一緒《いっしょ》に住むことも許してくれている。
(ちゃんとしなきゃ)
どのように、なのかは自分でもまだ分からなかったが、裕生は自分に言い聞かせた。
その時、喜嶋《きじま》バーのドアが開いた。
裕生たちが振り向くと、制服を着てギプスを首から下げた佐貫《さぬき》が立っていた。
「あ、どうも」
と、佐貫はツネコに頭を下げた。
「こんにちは」
ツネコも笑顔で答えた。この二人は加賀見《かがみ》の病院で何度か顔を合わせている。
「さっき電話があった時、来てほしいって頼んだんです」
と、裕生が説明する。
「あら、そうなの……学校は?」
笑顔のままでツネコは尋《たず》ねる。サボりました、とも言えないらしく、佐貫もただ笑っている。その時、佐貫の後ろから葉がひょいと顔を出した。
「え?」
裕生は目を瞠《みは》った。葉は裕生を見てにっこり笑った。