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記憶の絵44

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:仏英和高等女学校市橋先生とけんかをしてお茶の水の学校を止めることになった私は、自分では重大な侮辱をうけてそれに反抗したつ
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仏英和高等女学校

市橋先生とけんかをしてお茶の水の学校を止めることになった私は、自分では重大な侮辱をうけてそれに反抗したつもりだったが、母と市橋先生のお別れの挨拶のようすを見て、自分が子供扱いされていたことを知るとすっかりいやになって、父母たちが選んだ仏英和高等女学校に、やけのような気味でただぼんやりと入学した。
そのころ神田三崎町の市電の停留所前にあった、紅煉瓦造りの本館を真中に、右に小学校、左に女学校が向い合っている仏英和高等女学校は、私の転校の一年後にそこの幼稚園に入った当時七つの妹によると(ふつうええわじょがっこう)であった。フランスの修道院が修道女を派遣して建てた学校で、一種の宗教学校だが強制ではなくて、入りたい人だけが本堂にあるおみどう(どう書くのか知らない。まさか御々堂ではないだろうから、おみおつけの伝で、誰かが言い出したのだろう)で洗礼をうけて、基督の花嫁になるのである。建てたのは日本の大工だろうが、本国の命令だろうから修道女たちのいる本館だけが紅煉瓦で、木材も上等、透明のニスが塗ってある玄関のホオルも、廊下も、どこもかしこもピカピカである。玄関を入ってすぐ右の門の方に面して窓のあるピアノの部屋で、マスオギュスチンこと、スウル・オギュスチイヌの薄薔薇色に透る鼻の穴をチラチラ見ながらルッソンを終って五時頃玄関へ出ると、ピカピカの廊下一杯に築地精養軒のような西洋料理の香《にお》いが漂っていた。もっとも生徒が演《や》る「ル・パラプリュイ・ア・ドンキショ」(ドンキホオテの雨傘)なぞという誰の原作だかわからないコメジこと、喜劇をみる位しか楽しみはないし、いったん病気に冒れば診察も、手術も出来ないで死ぬのであるから(他人に肌を見せることを宗教が禁じているので乳癌のスウルは椅子に腰かけたまま死んだのである)ごちそう位贅沢でなくては気の毒というものである。校長はメエル・ア・ジョゼフという鶏《にわとり》の卵を前掛けに包《くる》んでにっこり微笑う田舎女《ペイザンヌ》のような福徳円満の修道女で、教頭的な存在に、スウル・アマンダという頭の切れる、偉きな包容力を持っていることが子供にもわかる偉物《えらぶつ》の修道女がいた。女中の修道女=支那人と日本人と一人|宛《ずつ》いた=がこの人にだけアマンダ様と、様をつけて呼んでいた。あとはスウル・オギュスチイヌ、スウル・コスカ=青白い唇の紅い美人で、巴里へ行ってみて彼女が巴里女(パリジェンヌ)なのがわかった=スウル・ジェルトリュウド、シスタア・ジョゼフ(これは英国人)なぞで、一人だけ独逸人がいたが男のようにポキポキして歩いているのを見たが、フランス人のボッシュ(ドイツ人の仇名)嫌いはスウル仲間でもあまり変わらないようだった。たった一人山本先生という、権力があって、スウル・アマンダと対等に口を利く日本人の修道女がいて、それが私の組の受持だった。日本人の先生も大勢いたが、ともかくフランスから来ているのでフランス人の尼さんたちが優勢の学校だった。
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