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記憶の絵64

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:谷中清水町の家谷中清水町、といっても今の若い読者にはわからないだろうが(と明治老人ぶるが、私も住んだから知っているのにす
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谷中清水町の家

谷中清水町、といっても今の若い読者にはわからないだろうが(と明治老人ぶるが、私も住んだから知っているのにすぎない)谷中清水町というより上野動物園裏といった方が誰にも直ぐ場所がわかるが、長唄の「よいやまち=宵は待ち=」の終りのところにある鐘は上野か、浅草か、の上野の鐘の方の、谷中寛永寺にほど近い、=と一葉ぶろう=上野の山下と、菊人形の団子坂から上野の山へ抜ける、菊見煎餅のある道とを繋ぐ電車道の裏側の通りである。団子坂から上野の山に抜ける道から先へ行くと坂下町になり、護国寺になり、西新井となって、もう田舎になってくるのである。池之端にも近い。つまり守田宝丹にも、十三屋にも、揚出しにも、蓮国庵にも近い。池之端から団子坂へ折り返す市電の辺りには今もあるかもしれないが先代の三津五郎の家があった。三津五郎の家があるから粋《いき》なのではないが、江戸三座の時代からその辺は役者が多く住み、又妾宅なぞもあったところらしい。その証拠には、山田珠樹が越す前に、本の山を柳行李詰めにして幾つも幾つも送りつけたら、(今度来るのも役者だよ)と近所のお内儀さん、酒屋の小僧、下女、娘っ子なぞが期待したというのである。第一、その家には男の人の手洗いがなかった。妾宅用に建てた家に次々と役者のような、粋《いき》な家を希む人間が住んでいたらしい。その辺は上野の鐘が近くきこえる、粋な町住居的横丁だったのである。津和野の藩主亀井の殿様に仕えた侍医の子供の森林太郎という、江戸的情緒と絶対関係のない、むしろ氷炭相容れない上野の戦争なら錦布《きんぎ》れの方の父親を持ち、学校はお茶の水、生れ落ちるから山の手令嬢(令嬢は良すぎる。ただ林太郎が鴎外になり、その鴎外の家の感じの中では、令嬢の感じになってしまったのである)の私だったが、引越すや否や、その町筋の一種名状すべからざる粋なたたずまいを感じ取らざるを得なかった。その谷中清水町一番地なる家が私と山田珠樹との新婚の家である。狭い玄関を上ると奥の台所との間にある玄関の間《ま》には通りに面したところが連子《れんじ》窓になっていて竹の簾がかかっていた。玄関から右へ入ろうとするとお茶室式にアラビアの扉のように上が円くなった形に壁がくり抜いてあり、その部屋は天井も七分までは普段の天井だが、三分程からは庇のように傾いていて、これも茶室式である。その奥がどう見ても寝間《ねま》で=寝室ではない=隣りとの堺は待合か小料理屋式の庭があり、庭に面して濡れ縁がある。それも料理屋風に切った鮑のような風に斜めに段々が切りこんである。濡れ縁から手洗いになっていて、前にも言ったように男の人の手洗いはない。越してみるともう竹の手拭いかけに片《かた》っ方《ぽ》の端を藍壺に浸して染めたような手拭いが家主の気遣いで(家主は大工)かけてあった。
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