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記憶の絵65

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:続・谷中清水町の家さていよいよ山田珠樹が奥さんを伴れ引越してくると、役者どころか(顔は役者の感じなのだが新劇役者である。
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 続・谷中清水町の家

さていよいよ山田珠樹が奥さんを伴れ引越してくると、役者どころか(顔は役者の感じなのだが新劇役者である。メフィストフェレスの伊庭孝である。もっとも明治四十二、三年のイプセン騒ぎの時、「僕は若いんです」と親父を怒らせた役者がいい爺さんになって近くに一人位いたとすれば「おや、おや、小山内薫に似ているな」と言ったかもしれない)青白い老《ふ》けた書生のような男で、文部省嘱託というわけのわからないお役人で、毎日上野の山へ登って行っては帰ってくる。奥さんは(婦系図《おんなけいず》)=泉鏡花=の令嬢をみっともなく太らせて西洋くさくしたような女であるから、近所の女たちはがっかりした。山田珠樹は平常から、(僕より上の奴はもうそれ以上には行かない。年下の奴はこわい)と言っていて下役の人や学生には「君、君」と友達のようにし、あんちゃん、あんちゃんと妹に親しくし、私の母親は「鴎外夫人」以上には出世しないからか(しかも間もなく未亡人に下降の筈)あんまり親切にしなかった人物であるが、それとは別に、出入りの者とか、タクシイの運転手、女中、書生も友達扱いだったので家主の大工や近所の人にも愛想がよかったが、清水町界隈の人々は子供の時から山田さんの坊っちゃんだった伊皿子の町の人々や千駄木町の近所の山の手出入りの商人とはちがうのでにこにこしても寄りつかなかった。奥さんの方はぽかんとして何一つ出来ないらしく、お里《さと》からついて来た婆やさん(その婆やは今の私より五つ六つ若かった筈だが、もう腰が曲がりかけているすごい年寄りだった。昔の女は苦労がありすぎたからだろう。この婆やは資生堂で白薔薇クリイムを買っておいで、と言うと「朝すずの内に行って参ります」と言い、夕方は夕景《ゆうけい》であった。「伜は日本橋のキントーに勤めております」と年中自慢していたが、私は日本橋の塗物屋は黒江屋位しか知らないのでどこだか判らなかった。二階で喧嘩していると長い木の枝を折ったような格好で上って来て、悲劇調で「まあ、おくさま……」というので珠樹も私もうるさがると、「お為を思ったのに」と泣くが大しておため[#「おため」に傍点]を思っていなくて、好奇心旺盛の気味があった。三田台町に滞在中も度々新派を発揮した。山田家の姉の一人が新派だったので=この方はほんとうに私のためを思っていた=困った。とにかく驚いたことに、というところを、思いきや、なぞと言って変な婆さんだった)に一切やって貰っているので愕いたらしいが評判はよかったらしい。この家で私は鰈《かれい》一|切《きれ》十五銭、乞食一銭などと家計簿をつけたりし、鏑木清方の画にあるような、煮豆屋や納豆売りのくる横丁が気に入り、七軒町のお千代の丸髷で田村屋の浴衣を着、メフィストフェレスの山田珠樹と、早瀬主税とお蔦気取りで暮した。この谷中清水町の家は私の新婚家庭だったわけだが、ともかく鴎外訳の「ねんねえ旅籠」的夫婦だったので、新婚家庭のおもむきはあまりなかった。
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