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記憶の絵78

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:巴里の食物《たべもの》巴里人はグウルマンである。グウルマンとは食いしん坊のことである。前にも書いたことがあるように、苺(
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巴里の食物《たべもの》

巴里人はグウルマンである。グウルマンとは食いしん坊のことである。前にも書いたことがあるように、苺(苺といっても巴里のはフレェズ・ドゥ・ボア、つまり森の苺で、小粒の、いかにも野生の果物という感じだった)にミルクをかける方が美味しいか、レモンをかけるがいいかで、食卓についている十五、六人の人間が二手《ふたて》に別れて議論が沸騰する位で、巴里の人間と美味しいものとは決して切り離せない関係にあった。彼らの味覚は江戸人のそれに共通している。或秋の日、料理屋にいくと、秋刀魚によく似た油の多い魚のバタ焼きが姿のまま白い皿に載っていて、雲丹《うに》が日本の刺身の大根おろしのような形に附けてあった。巴里のバタは宮内省のバタのように淡泊で味が深いから(濃いのではなく、深いのである)、その料理はほんとうに秋刀魚の塩焼きに似ていて、その一皿《ひとさら》は全く粋《いき》だった。鰯や秋刀魚に柚《ゆず》をかけてたべさせれば、巴里人なら飛び上って歓《よろこ》ぶと、私は信じている。コトゥレットゥ・ドゥ・ヴォオ(犢のカツレツの意味だが、巴里のカツレツは粉やパン粉はついていなくて、ビフテキと同じ焼きかたである)や、ビフテキは、馬鈴薯の狐色に揚げたのとクレッソン(田芹)がついていて、塩と煉り辛子でたべるから、刺身や塩焼きと同じで、牛肉や犢の肉の味そのままである。ビフテキに鳶色《ブラウン》ソオスのどろどろや、英国のウスタア・ソオスなんかをかける野暮はしないのである。私は醤油と辛子をつけ、御飯を添えるというのも好きで、自分の家《うち》のようになっているレストランでは醤油を貰うが、これは昔、銀座の中嶋でたべた相鴨の蒸したのと御飯の味に似ている。
どこかの川岸のレストランでたべたグゥジョンや、ソオル(川魚)のバタ煮(三枚に下ろしたのが銀の大皿の上でぶくぶく煮えながら車附きの卓子で食卓の傍まで来るのである)も塩味だけで淡泊《あつさり》していて、これも小串の鰻の味である。魚料理屋で出る、栗のいがのような中に入った生うにも素晴しい。巴里のレストランで料理人を雇う時、オムレット・ナチュウル(実のないオムレツ)をやらせるというのも、東京の寿司屋で卵やきを造らせるのと似ている。巴里のオムレット・ナチュウルや、オムレット・オ・フィーヌ・ゼルブ(三つ葉やパセリのような香《にお》いのいい葉入りのオムレツ)はオムレツ好きの私には気に入った。不思議なことに巴里一流の銀の塔(トゥウル・ダルジャン)の血で煮た鴨は美味しくなかった。悪魔がすきで、恋の遊びの犠牲になった無垢な処女《むすめ》の胸の血(無論空想や小説の中でだが、それは白鳩〈ピジョン・ブラン〉の紅玉《ルビイ》のように綺麗だ)は好きでも、現実の血の味はだめらしい。とにかく巴里の料理はすてきで、近所のレストランの、肉汁《スウプ》のゼリイで固めた卵、ウフ・ジュレも、胡瓜の酢漬けとハムのサンドウィッチも、よかったし、チップの効果があらわれてからはホテル、ジャンヌ・ダルクのボルドオ風の茸(バタ煮)、ヴェルミッセル(素麺)入りの肉汁《スウプ》も、なかなかいけたのである。
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