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記憶の絵85

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:巴里のバレ・リュッス私達が巴里にいた一九二二年の夏は、ニジンスキイ夫妻の率いるロシアのバレがロングランを続けていて、コメ
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巴里のバレ・リュッス

私達が巴里にいた一九二二年の夏は、ニジンスキイ夫妻の率いるロシアのバレがロングランを続けていて、コメディア=東京新聞を文芸欄と芸能欄ばかりにして、そこへ美術雑誌も加入させたような新聞で、いい画家がのびのびとした線で描いた役者の似顔の素描《デツサン》が毎日のように出ていた新聞=にバレ・リュッスの写真や記事が出ない日はなかった。今でもはっきり眼に残っているのは、ペトゥリュシュカの第一幕の幕開きである。モスコオらしい街角で、人形|遣《つか》いが箱に入った三人の人形を並べて、客寄せをやっている場面で、大勢の群衆が(五十人はいた)単調な音楽の中でなんとなくがやがや動いていた。人形劇が始まる前の群衆のざわめきが音楽にも、役者たちの動きにも混然と現われていた。古典の踊りなのに、まるで現代の映画の画面のように自然だった。終りに近く、角笛《つのぶえ》を吹きながら踊り回る美人人形の軽い足どりは、誇張なく、生命《いのち》の歌を歌って大気の中を飛び交う、春の蝶そのままだったし、美人人形に恋した黒ん坊人形が、低い寝椅子に仰向けに寝て、手足で毬を放り上げては受けとめる時の、単調な動きとメロディもよかった。ことに驚いたのは失恋した黒ん坊人形が自殺して、仲よく椅子にかけている美人人形と男人形の後《うしろ》にある衝立《ついたて》の上から、頭と両手をだらりと垂らして死ぬところで、文楽の人形が、役の魂を離れてガクリと手足を垂らす形を盗《と》ったのかと思うほどそっくりで、日本の歌舞伎役者が人形ぶりで演る時の、遣い手の腕にだらりとなるところよりも真に迫っていた。生命《いのち》のない人形そのものになっていた。黒ん坊人形になったのはたしか、レオニィドゥ・マッシンで、ニジンスキイ夫妻の一座では誰より上手《うま》い踊手だった。映画の(赤い靴)で、靴屋になった役者である。次に素晴しかったのは、〈牧羊神《フオーン》の午後〉=その頃の新作だが現代《いま》の新しい踊りと並べて上演しても、新鮮さで目を奪うにちがいない作品である=で、犬のような斑点《ぶち》のある肉襦袢で、一列に横に並んだ牧羊神が、印度舞踊のような形をしたまま少しずつ、弛いリズムで上手《かみて》から下手《しもて》へ動く場面だった。題は忘れたが、田舎娘が、塀の外を列になって通る兵隊の顔(これは木製の人形)が、一人残らず自分の方を見ているので母親に訴えると、母親が、自分の若い時にもその通りだったと答える、滑稽な、寸劇のような踊りも面白かった。ニジンスキイ夫妻の一座とは別だったが、トゥレフィノオヴァという女優の踊りが又素晴しかった。この女優を私は、オペラが閉場《はね》てから、ボワに近い珈琲店《キヤフエ》で見た。灰色の陶器の洋杯《コツプ》に入った、フランボヮアズのアイスクリイムに夢中だった私がふと眼を上げると、真中で分けた、黒い、艶《つや》のある、真直《まつす》ぐな髪が額にぴったり張りついている白い顔は、夜、沼の中から顔を出した妖精《ナンフ》のようで、私は一瞬アイスクリイムを忘却した。唇が毒のある森の苺のように、真紅《あか》かった。
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