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もめん随筆09

时间: 2020-03-31    进入日语论坛
核心提示:あぶら蝋燭どんなたべものを一番好むかと聞かれるより、どんなたべものが一番きらひかと聞かれる方が返答がしよい。即ち一番きら
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あぶら蝋燭

どんなたべものを一番好むかと聞かれるより、どんなたべものが一番きらひかと聞かれる方が返答がしよい。即ち一番きらひなものなど何もないからである。どうやら私は異常な体質と異常な食慾を持つて生れた人間らしく、およそ普通一般のたべものならどんなものでもたべられぬといふ事がほとんどない。それはあたりまへではないかと人はいふかもしれないが、さうではなくて、世の中にはあれこれ好ききらひのある人もなかなか多いらしいのである。
私の知つてゐる限りでも、ある人はさしみと酢のものがきらひだといふし、ある人は又、こんにやくは牛のたべるもので、らつきようは朝鮮人のたべるもので、トマトは羊のたべるものでと、いちいち相応した理窟をつけてその食物を忌避する。さうかと思へば軟体動物は一切受附けぬといふ人もある。あはび、とり貝、くらげ、たこ、いか、——軟体動物で思ひだすのだが、いつか佐藤春夫先生にお会ひした時、話の最中に先生は突然生まじめな顔になつて「あなたは人間が折折軟体動物になる事を知つてゐますか」とたづねられた。教壇の上から生徒に質問されるやうな厳粛な態度であつたから私もはつと畏まつて考へたが、どうにも答へが出て来ない。おそるおそる「存じません」とこたへると「わかりませんかね、ちやんと昔の文献にもあるのですがね」文献と聞いて私は一そうはつと堅くなつた。と直ぐに先生はつづけていはれたものである。——「いかになりゆくわが身の上」
はんぺんとあだ名をつけられたお嬢さんがあつた。白くてふはりとしてゐたからである。白くてふはりとしたものに昔流行つたマシマロといふお菓子があるけれど、あれはもともと舶来品なのであらう、多分のハイカラさをふくんでゐて、そしてかわいた感じがする。綺麗で洋風の応接間向きだが、はんぺんの方はまつたくのお惣菜で、その点親しみやすく気のおけないお嬢さんであつた。
ただ少し大柄な人であつたので彼女の恋人は「何だか夢の中で大きなはんぺんを一口に頬張つてしまはなければならぬやうな気がして、少し困るんです」といつてゐた。「それにあれではないでせうか、はんぺんはやはり軟体動物の一種ではないでせうか」彼も軟体動物のきらひな一人だつたので、そんな贅沢をいつてゐるうちにお嬢さんは何の前ぶれもなく突然結婚してしまつた。「明暗」の中の清子があつといふ間に結婚してしまつたのとよくにてゐて、取残された津田と同じやうに彼も亦一度相手に会つてその心持をきいてみたいといふ心願を抱いてゐたが、おなじ土地に住んでゐながらふしぎと出会ふ折がなく、いつか五年の星霜が過ぎてしまつた。
当時は一介の学生に過ぎなかつた彼もいまでは一人前の会社員となつて、きらひな軟体動物もくらげや鱶のひれぐらゐはたべられる迄に進歩した。女給をからかふ事もおぼえ、断髪のタイピストから恋の手紙も貰ふやうになつて、往年のはんぺんの夢など残らず忘れ果てたやうに見受けられたが、めつたに手紙などよこさぬ彼からこの春突然厚い封書が届いたので、多少訝りながらひらいて見ると、五年ぶりで思ひがけなく昔の恋人に邂逅したといふしらせで、もちろん往きずりにちらりと眺めただけで言葉をかける気にもなれず行き過ぎてしまつたとあつたが、さすがに心が平かではないのであらう、いま午前三時です、ウヰスキイを飲んで酔つぱらつてゐますと終りのところに書いてあつた。
五年ぶりに会つて見た彼の印象によると、むかしのはんぺんのやうな彼女は、こんどはなめくぢに似てゐたさうである。あたまが小さくてからだの方がふはりとして、そして大へん水つぽく見えたさうである。なめくぢではどうにもなりませんからねと書いてあつたのは、いよいよたべられなくなつてしまつたといふしやれのつもりなのであらう。なめくぢとよく似てゐる蝸牛の方なれば、白ソースで煮るとおいしいといふ定評があるけれど、なめくぢをたべるといふ話はあまり聞かないやうである。——私はそんな事を書いてよこす彼の手紙に思はず微笑を誘はれたが、だが一概に笑つてばかり居られぬやうな心持もした。
それからしばらく経つて、こんどは偶然にも私の方が彼女と会ふ機会を得、しかもおなじ宿に泊りあはせて夜おそくまで二人きりで話しこむやうな事になつたのである。私も彼女には五年前に別れたきりで、結婚してから後の彼女に初めて会うた訳であつたが、私の眼に映じた彼女は娘時代の贅肉がよい加減にけづりとられてしたたるやうに瑞瑞しく、ちやうどよく熟れた梨瓜かなどのやうに歯ごたへのある柔かさで、ぼつとりと好もしく見えたのである。
あの人は、——と彼女の方からあつさりと、まるで学校の同級生の消息をでも聞くやうに彼の動静をたづねるので、私は彼がまだ独身でゐる事などを話した末に思ひ切つて、べつに喧嘩をしたやうにも見えなかつたのになぜ別れたのかと昔の事を問うて見た。すると彼女は「さうでんなあ。あの人はあたまもええし、気だてかてわるいことはないし……」とちよつと上眼づかひに空間を見つめるやうにして考へたが、と思ふとすぐいきいきした眼つきになつてずばりといひ切つた。「さうです。——多分あの人には、男性のイツトといふものが欠けてゐたのやろと思ひます」
私は十四五の少女の頃、二葉亭四迷の訳したツルゲネフの「うき草」といふ本を持つてゐた。それはたしか箱ではなく珍しい帙いりの厚い書物で、中をひらくと全部の頁の天地に、薔薇か何かの小さなもやうが紅い色刷りになつてゐて、一ばん最初の頁には、ばらばらと大粒のにはか雨が通りすぎた後の草木の葉には、雨の滴がきらきらとダイヤモンドのやうにかがやいてゐるといふやうな美しい言葉が書かれてあつた。
私はその本を大切にして何べんとなく読み返したものだけれども、いまではその中に出てくる人物の名前さへ、ルウヂン一人をのぞいては全部忘れてしまつてゐる。ただ忘れ難いのはその中の皮肉屋の誰かが女について語つてゐる言葉で、たとへば男といふものはどんな男でも二二が四でいつでもちやんと割り切れるけれども、女ときたら二二が三とか五とかの間違ひならばまだしもの事、二二が脂蝋燭とくるからなあといふやうな意味であつた。
小さな女学生の私には、その二二が脂蝋燭といふ言葉がわけもなく面白くて、何かといへばあぶら蝋燭をふりまはして同級生を笑はせてゐたが、その言葉の意味を成程とうなづけるやうになつたのは、どうやらすこしづつ世の中といふものがわかりかけてきたかと思ふ二十過ぎてからの事である。そしてそれから長い間私は女は脂蝋燭だと思ひ暮して来た。女自体があぶら蝋燭か、それとも社会がさうしたのか、ともあれ女がはつきりと二二が四と割り切れた場合、世の中が異端視して通してくれなかつた事だけはたしかである。
だがいつのまにやら私の周囲も、この比喩を訂正せねばならぬやうに変つてきつつあるらしい。私はむかしのはんぺんのお嬢さんから、あまりにはつきりした答を聞いて、瞬間茫然とした。私はそんなはつきりした答はまるで予期してゐなかつたのである。だがそんならばどんな答を予期してゐたかとたづねられると、私のあたまからは何の言葉も出て来ない。この若い夫人のいふ事がいかにも正しく、その言葉に打負かされた形で私には何の考へもまとまらないのである。——ああ、二十年のむかし、女はイツトといふ言葉さへ知らなかつた。……
十七になる私の娘は今度大阪から出て来て東京で一ばん自由だといはれてゐる学校へ入学した。はいつて見るとそこは噂に聞いてゐたよりももう一そうよい学校で、何から何まで気持のよい話ばかりだが、今迄かなり官僚的な学校で教育された彼女にとつては、あれもこれも物珍しさの限りで、毎日学校から帰ると勢こんでその日の出来事の総てを私に話さずには居られないのである。「ね、あのね、今日ね」と彼女はうるさがる私につきまとつてしやべらうとする。
「あのね、今日ね、数学のお時間にね、先生がグラフの説明をなすつて、此処をXとしてと仰有つたらすぐ誰かが、Xでなくたつていいぢやないの、○でも△でもいいぢやないのつて云つたのよ。驚いちやつた」
「ほう」と私もついひきこまれて「それで先生は?」
「先生はふりむきもなさらないのよ。そりあ○でも△でもいいさ、だがここではXとしてつてずんずん説明していらしたの。……みんなその先生のこととても好きなの」
Xが○でも△でもよい事を知らなかつたために今迄の女は、二二があぶららふそくで暮さねばならなかつた。もし知つてゐたにしたところで、Xと習つたものはどこまでもXで説明しなくては通してもらへなかつたのである。だがいまの女はすくなくともXを○とも△ともいひかへるだけの自由は獲得した。あの人にはイツトがないからとはつきりといへる時代がきてゐるのである。これは進歩でなくて何であらう。しかし、——
府立の中学の二年生である小さい息子は、姉と母の話を傍聞きして、ふと気負つていつたのである。
「そりやその場合は○でも△でもいいかも知れないけれど、XはどこまでいつてもXでなくちやならない事だつてあるでせう」
彼の小さなあたまで考へたのは単に数学の問題だけに相違ないが、この差出口ははつと私の胸を打つた。彼女等の進歩を喜びながら私の危惧は一点そこに懸つてゐたのである。もしも彼女等はXを○とも△ともいひ得る歓びのあまり、Xでなくてはならぬ場合にさへ○でも△でもかまはないと考へてしまひはせぬであらうかと。
多分私は、笑はれるにちがひないのである。ひよつとすると彼女等にはもうXも○も△もどんな区別もないのかも知れないのである。彼女等は朗かに男性とつきあつて朗かに他の男性に嫁いでゆき、そして男の方は、軟体動物は困るのですなどといつてゐるうちに取残されてしまふのである。Xはどこ迄行つてもXでなくてはならぬ等と思ふのは、処女尊重の男性の身勝手な夢かも知れぬ。——
私は最近に、「手術」といふひとつの短篇小説を読んだが、そこにゑがかれた女主人公には実在のモデルがあるといふ話である。若くて美しくてそして聰明で、芸術的才能にまで恵まれた一人の近代女性が、つぎからつぎへと惹起する異性とのスキヤンダルを、彼女自身は有名になるための手術と考へてごく事務的に通過するといふ風の小説でどこにも暗い陰などのない真昼のやうにはつきりした話であつたが、だが読み終へて受けた感じは何か病的な、つまり本人が明朗であればあるだけ一そうさしぐまれてくるやうな、かつての女性の凡てがさうであつた陰鬱症に対してこれは又、一種の明朗症とでも名づけたいやうな、おなじやうに儚く脆い心地がしたのである。
かしこいあなた方よ。——私はいひたいと思ふ。あなた方自らのあり余る才に恃み過ぎて、せつかくわりきれた二二が四を、再び別種の脂蝋燭へ陥し入れる事のないやうに。私はただその一事をのみ望みたいと思ふのである。
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