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もめん随筆10

时间: 2020-03-31    进入日语论坛
核心提示:あひ状急に宿替をせねばならぬ事となつて、どうせさういふ時には猫の尻尾の存在でしかあり得ないのだけど、それでも自分は自分な
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あひ状

急に宿替をせねばならぬ事となつて、どうせさういふ時には猫の尻尾の存在でしかあり得ないのだけど、それでも自分は自分なりにぽつぽつ手廻りのものを片附けてゐると、久しくあけて見ない手許筥の中から、厚さ一寸ばかりの半切の束のやうなものが出て来た。不審におもひながらほどいて見ると、天だけを紅で染めた半きれに、村野様ゆへはや〓〓お越しまち入候、でんぼや、若としさまへ。すつかり忘れてゐたが、大阪の芸者のあひ状なのである。お菓子のレツテルだのマツチの箱だのと愚にもつかぬものをあつめかけて、すぐ又忘れてしまふ悪癖があるのだが、このあひ状もその中のひとつで、もう四五年越しまるで思出した事がなかつた。あつめる時にはまづ北の新地からはじめてそれから新町、南、となかなか意気込んでゐたものだけど、その北の新地さへほんの一部で忘れるともなく忘れてしまつたのである。もともとこんなものは退屈ざましの煙草の一服のやうなもので、一としきりうつとりと心をやすませたあとでは、忘れ去るのが当然であらう。それにいつまでも執着するのはかへつて放蕩的な気持かも知れないと思はれるが、偶ま筐底に見出でてそれを眺め返してゆく事は、やはり昔の自分の姿にめぐりあうたやうになつかしいのである。女の人の中には写真といふものが好きでよく折折の自分の姿を写真にをさめておく人が多いが、写真のきらひな私は多分こんなところにその時時の自分の姿を残しておくのかも知れなかつた。
芸者のあひ状といふものは東京にもあるのかどうか、私は大阪で初めて知つてその優しげな文句に心を惹かれ、会ふ程の妓《ひと》に頼んでは貰ひ受けたものであつた。配り手拭や団扇などとおなじやうにやはりこれにもその家家の好みがあつて、紙から印刷の文字から文句までそれぞれちがつてゐるのである。何何様おまちかねすぐにとせきたててゐるのもあれば、何何様お越しにて御出待ちおり候とゆつたりしたのもある。何何様お越しゆへ鳥渡にても御出まち入候と叮重なのもあるが、大体に於て何何様ゆへはや〓〓御越しまち入候といふ文句が多く、そしてそれが一ばんぴたりと色里らしく情をふくんで聞えるやうである。平鹿豊田屋あたりのはどんな文句かしらと、引越の忙しさなどいつか忘れてひとつひとつめくつてゆくと、紅梅いろの半きれに紅梅の家の名をしるした一枚が出てきた。あ、と私は思出した。ここは古い友達の玉置氏がつれて行つてくれたお茶屋である。
毎日新聞社の玉置氏は廿年来の友達で、そして私が大阪へゆくと必ずどこかおごつてくれるよい友達なのである。いつか今橋のいせやへ連れてゆくといひ、昨日行つたと云ふと、それではつるやにしよう。つるやは約束があるのと答へたら怒つてはり半をおごつてくれた事がある。夏行つた時、鮎の茶屋へ行かうと云はれ、返事をするとモータアボートで行くといふので私は忽ちおそれをなして止めてしまつた。自動車でも行かれるからとすすめられたけれど何となくおつくふになつて到頭行かなかつた。紅梅といふ家へ行つたのはその時の事か、それとも又後の事かはつきりしないが、夏であつた事だけはたしかである。
糸目の古びた簾の落着いた座敷へ妓《をんな》が四五人あつまつて三味線をひいた。玉置氏はどこで勉強したのか常磐津をおぼえてゐて、それを語るのである。この人は僕のお師匠さんだと妓達に私を紹介してわるい事は何でもみんな私から教はつたのだといふのであつたが、それは冤罪で、多分氏は廿年前の、額ぎはにふさふさと生えてゐた頭髪について、私を証人にしたいのらしかつた。玉置氏は五尺八寸の巨躯に程よく肥りながら、その頭は額ぎはから見事に禿げ上つて、最早や年配の重役のやうに見えるのである。そして誰もが、氏もかつて禿げない頭の所有者であつたといふ事を肯定しないのである。
玉置氏は戻橋と関扉を梅幸と幸四郎の声色入りで語つて、今度は延寿張りの保名をやると云つた。若い一人が調子をあはせて弾きだすと突然階下の座敷の縁側から、かん高い声が上を向いて簾越しに吹きあがつてきた。
「しつかり弾きなはれや、お師匠はんきてはるで」
その家の女将さんの声らしかつた。妓達はおうこはと顔を見合せて膝を坐り直した。座敷がお稽古場のやうな気がしてきたが、玉置氏の声もさすがに疲れて、高ねの花や折る事もないた顔せずのあたりへくると勝手な節廻しで、ゴボンゴボンゴボゴボゴボと三味線まで自分でつけてゐる。
「けつたいな節やなあ」と一人が笑ふと
「これ、きちがひ」
三味線を弾いてゐる若い細おもての女は、にこりともせずその心持ちしやくれたあごでちよつとしやくつて受けて、そのまま三味線を弾きつづけた。私は思はず横を向いてふきだしながら、なんといふうまい言葉を持つてゐる人だらうと、その当意即妙に感服したのである。
名前さへきかずにしまつたが、私はその後ながくその女の、これきちがひと云つた調子が忘れられなかつた。だんだん思出してゆくと、うす藤色の地に白で麻の葉をそめだした単衣が、私の常識を裏切つて透きとほらない着物であつた事にも気がつくのである。東京なれば当然絽ちりめんか明石の季節なのだが、誰か一人絽目のこまかい平絽を着てゐたきりであとの四人はすべて透きとほらない単衣であつた。さういへば普通一般の家庭でも、木綿絽の肌のあらはなゆかたなど着る人はすくなくて、昼間は上布か紺のちぢみの黒つぽい単衣をつつましやかに着て、夜になつて初めてあゐぞめの浴衣の高い香にくつろぐ。うすものを着ればもう一枚長じゆばんがいるからなどと皮肉な評をする東京の女が、朝からあぢさゐ色のゆかたを着てゐる曲のなさにくらべて、私は大阪の女の自然に会得してゐる色つぽさに今更らながら驚くのである。むつちりとあぶらののつた白い肌は、つつめば包むほど匂ひこぼるる風情があつて、大阪の女の人が吉野織やゆふきちぢみなどの厚地の単衣を好んで着るのも、もちがよいといふ以外に自ら生かす術をよく知つてゐるのである。それらの術を彼女等は母から祖母から曾祖母から順順に伝へられて、あゐつぼの中からぬけ出したやうに深く、しんの底まで沁みとほつてゐるのである。さうして大阪の倹しさをわらふ事より知らぬ東京の女は、もともと諸国からあつまつてきて、大東京のるつぼの中でおなじやうな色に染めつけられたいはば染め返しの着物に過ぎないので、従つて彼女たちの心の底にはめいめい生れた国の縞柄がしみこんでゐるために、気随気儘に朝からしぼりのゆかたを着て見たり、ボイルといふへらへらの布地を好んだりするのである。
幼ない折、家にあつた豊国の版画に、屋敷女の十二ケ月をゑがいたのがあつて、春は下屋敷の筍掘り、夏はすばらしく大きなぎやまんの鉢に金魚をいれてつるし、年頃のお姫様がたのしげにそれを眺めてゐる図があつた。文月としるしがあつて、お姫様は透きとほる白絽の単衣に紅の下着をかさね、たしかぬひとりのもやうがついてゐたやうにおぼえてゐる。子供心に美しいと思つて飽かず眺め入つたものだが、ああいふ豪華な夏姿はいまでも東京の上流社会に残つてゐるにちがひないと思ふけれど、それは巷に見られる美しさではないために、われわれには縁が遠いのである。簡単服といふものがはやつてどこの町でもこの頃は、女といふ女がそれを着てゐる。つまり昔の手拭ゆかたに黒繻子の帯といふ程度で、着てゐる人は気楽らしいが、見る眼のなじみはまだ浅いせゐか、やはり私などには暑苦しい心地がする。一たいに和服といふものはそばで見る方が美しく、遠眼には洋服の方が見よいやうに考へられてゐるらしいが、私の発見ではあれは全く反対である。私は以前大阪の郊外の千里山といふ処に住んだ時、一日中窓際に坐つて、はるか麓の停留場を往来する人人を眺め暮したが、近くで見ると涼しげな西洋婦人のボイルの服が、折からの夕陽の中でへんに埃つぽく、腰のまはりのひだひだまでが小うるさく汚なげなのに引かへて、さり気ないあゐ色のゆかたに半幅帯をきゆつと引き結んだ和服の人の腰の形がいかにもふくよかに、そして両の袂の大らかなあふりが、洋服のひだひだとは比べものにならぬ程美しいのに驚いた事があるのである。それ以来私は、日本に於ての洋装にはあまり尊敬を払はぬやうになつたのである。
七月の肌着はそれでは何かと問はれるならば、私は七月の海辺に見出す若い彼女等の皮膚それ自身こそと答へたいのである。もともと着物といふものは皮膚の一部ともいへるもので、同時に馴らされた裸の皮膚はすでに着物にちがひないのである。私は毎年夏がきて鎌倉の海へ行く度に、彼女等の海水着が年年ちひさくなつて、むきだしの皮膚の区域が年毎にひろくなるのを、好もしく眺めるのである。美しい少女ほどその皮膚も美しく、こまかなきめに桃のやうなうぶ毛の生えた栗色の肌は、殺風景な毛織の布でおほふにはあまりに惜しい心地がする。彼女等は出来るだけ多くその皮膚をあらはにして、人人の眼を愉しませるとともに、光と熱と空気とを慾深くその肌に吸ひとつて、若樹のやうにすくすくと思ふ存分の呼吸をして伸びればよいのである。さういふ彼女等が夜は湯浴みをして天与の肌着の上にもう一枚、秋草もやうのゆかたなぞ着けて、団扇を携へてうす暗い教会のあたりを散歩する姿は、これは又何といふ少女らしい優しさであるだらう。
そして彼女等がもう少し成長して、恋を知る年頃になれば私は夜の彼女に、うすい水色の羽二重のピジヤマを着せたいと思ふのである。絹特有の冷たい感触の中に、彼女のよく泳いだ熱つぽい脚がすんなりとやはらいで、淡い緑色のシエードをくぐつた光が、彼女をたつたいま海の底から出てきた人魚のやうに、なよらかに浮き上らせて見せるにちがひないからである。こんな事を思つてみる私は、いつぞや芥川さんのところで見せて頂いた尾の二つある人魚の画の記憶を、あたまの奥にたたみこんであるせゐかもしれぬ。
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