蚤は茶臼のいせの山、ぽんと飛んであいたたあやめ草《ぐさ》。ぽんと飛んでといふところで蚤が跳ねたやうに一跳ね跳ねあがり、あいたたと膝をついてその膝がしらをさも痛さうにさすつて、あやめ草《ぐさ》でおじぎをする。それでおしまひである。
近所に若い綺麗なお妾さんが住んでゐて、その頃三つか四つであつた私にこんな踊を教へてくれた。もう一つ、金時は熊をふまへてまさかり持つてといふのを教へて貰つたけれども、この方は何となく性に合はなかつたらしい。あんまり踊りたくなかつたし、見物人たちもあやめ草といつておじぎをするところが可愛らしいと、蚤は茶臼のいせの山の方ばかり所望した。見物人といつても女中や書生や出入りの髪結さんなどで、雪どけ頃の何となくそはそはした、しかも退屈な午後の慰みに、幼ない私をからかつて遊んだのであらう。単調な踊に調子を合せるやうに、タタタタタタとごく軽いタツチで洋太鼓《ド ラ ム》をたたくやうな水滴の音が絶えずひびいてゐた記憶を、いまも鮮かに耳底に蔵してゐる。軒の氷柱のとける音であつた。
時時、父の晩酌の楽しみに踊らされた事もあつた。若いお妾さんはまへに芸者をしてゐた人で、お嬢さんはすぢがいいからぜひ本式に仕込んでおあげなさいと再三母にすすめたさうである。人を馬鹿にしてゐる、芸者の子ではあるまいしと私の踊を見ながら母が怒つて父にいひつけてゐた。父が何とこたへたかおぼえてゐないが、私の生れた札幌の町では一般に日本在来の遊芸の稽古を卑しみ、踊や三味線は商売人だけが習ふものとして軽蔑する気風があつた。大抵の家にオルガンがあつて、初夏の長い薄暮の頃など町を歩くと、ちやうど此頃のラヂオのやうに軒なみにおなじオルガンの音が、見渡せば青やなぎと、教則本の譜を鳴らしてゐるけれども、堅気の家から三味線の音が洩れるといふ事は絶対になかつた。石狩平野の真中に縦横にすぢを引つぱつて新しい町をこしらへる時、頼まれて来た外国の技師と一しよに宣教師もやつてきて、みんなで寄つて清教徒風の窮屈な町をこしらへあげたためなのである。十歳位になつて生田流のお箏を習ひに行つたが、その時地唄の三味線も一しよに習ひたいと思つたのを、どうしてもゆるして貰へなかつた恨みは、一生忘れる事が出来ないのである。
かつぽれ。深川。奴さん。若いお妾さんが私を可愛がつて始終自分の家へ連れていつてそんな踊を教へるので、おしまひに私の家で腹をたててお妾さんのところへやらないやうにしたらしい。それともお妾さんの方で何処かへ越していつてしまつたのか。とに角私は何も教へてくれる人がなくなつて、いつまでもふるい踊ばかり繰返してゐるのはつまらないので、そのうちに自分でいろいろと出たらめの唄をうたひながら出たらめに踊る事を考へ出した。母がよく病院通ひをして留守の時が多いのを幸ひに、近所の子供を呼び集めて出たらめ踊の伝授をした。先づ手拭で鉢巻をし、めいめいが刀の代りにものさしを一本づつ持ち、それをいろいろに振りまはしながら踊るのである。二尺に三尺に八尺で、あはせて六尺これやどうぢやと、ものさしから思ひついた私の出たらめ歌をみんなも一しよになつて、日清談判破裂してといふその頃はやりの歌の節でうたひながら、硝子戸をしめきつた縁側の日向の中を、往つたり来たりぐるぐる踊りまはつてゐるうちにみんなだんだん気が荒くなつてきて、あはせて六尺これやどうぢやとものさしの先きでやたら硝子戸をたたいて、がちやんがちやんとどの戸にも結晶硝子のやうなひびを入れてしまつた。母が帰つてきて、ひどいお仕置きをされた。紫色のあざが牡丹の花のいれずみのやうに、半年経つてもまだ消えなかつた程ひどく、私はお尻をひねりあげられたのである。
この間の晩、夢を見た。
星も月もないまつ暗な晩なのだが、何処か遠くの町でお祭があつて、そこの家家にかけつらねた提灯の灯がぼうつとほの紅く、ぼかしたやうに暗い空の一端を染めてゐる。私は自分の家の門前に立つて、そのぼうつと紅い空の方角を眺めてゐると、不意に足もとの地面の中からわいたやうに高い音じめがきこえて、りんりんといふやうに冴えた三味線をひきながら門附がやつてきた。門附が私の前に起つて唄ふのである。
わたしの父さん八丈で
子供の着物がみな出来た
チリチリチリチリツルテン
あなたはたつた一丈で
それではお困り尺ではござりませぬかえ
チリチリチリチリツルテン
子供の着物がみな出来た
チリチリチリチリツルテン
あなたはたつた一丈で
それではお困り尺ではござりませぬかえ
チリチリチリチリツルテン
まあいい唄だことと思つた途端に眼がさめてしまつたが、耳の底にはなほしばらくその三味線の冴えた音色がしみついて離れないのであつた。私は生来音痴であつて、毎晩見る夢の中でさへ色や匂ひはあつてもよい音楽をきいたおぼえは殆どなく、独唱とヴアイオリンが、二三度あるきりで、三味線は全く初めての夢なのである。何のはずみでこんな夢を見たのかしらと、枕許のあかりをつけて、はつきりと眼をさまして考へてゐると、深い深い井戸に滴るかすかな水の音をきくやうな遠い思出が、やがてぽつかりと浮みあがつてきて、ああと私は一人でうなづいた。四つ五つの頃ものさしを振りまはして踊つた記憶が夢の中に蘇つて、そしてもう一度新しいものさしの歌をこしらへ、振りをつける代りに今度は節をつけたのであるらしい。母にお仕置きをされた怖しさが身にしみわたつてゐて、夢の中でも振りをつける事は憚かつたのであらうと思ふと、私の眼にうすい涙がにじんだ。
小さな男の子と女の子が一しよに遊んでゐる様子を傍から眺めてゐると、女の子は何の前ぶれもなく突然一人で、ぴよんぴよんと跳ねて踊るやうな仕草をよくする。日ぐれ方、御飯ですよと呼ばれてはあいと答へながら帰る時、お母さんに連れられてうれしさうに買物にゆく時、道を歩く女の子は十中の八九迄必ず、ぴよんぴよんと跳ねて踊りながらゆくのである。十年来気をつけて見てゐるのだけれど、かういふ衝動的な仕草は男の子には珍しく、女の子は殆ど全部が全部といつていい程どの子も必ず飛び跳ねる。なぜかしらとふしぎに思ふ。
感情の抑制力に乏しい女の性質が、そんなにも幼ない時からはつきりと表はれるのであらうか。それとも女といふ女はすべて舞踊家の素質を備へて生れてきてゐるのか。それはともあれ此頃の子供は、いくら跳ねても踊つても、それで叱られるといふ事はないのである。羨しい次第である。
小さな男の子と女の子が一しよに遊んでゐる様子を傍から眺めてゐると、女の子は何の前ぶれもなく突然一人で、ぴよんぴよんと跳ねて踊るやうな仕草をよくする。日ぐれ方、御飯ですよと呼ばれてはあいと答へながら帰る時、お母さんに連れられてうれしさうに買物にゆく時、道を歩く女の子は十中の八九迄必ず、ぴよんぴよんと跳ねて踊りながらゆくのである。十年来気をつけて見てゐるのだけれど、かういふ衝動的な仕草は男の子には珍しく、女の子は殆ど全部が全部といつていい程どの子も必ず飛び跳ねる。なぜかしらとふしぎに思ふ。
感情の抑制力に乏しい女の性質が、そんなにも幼ない時からはつきりと表はれるのであらうか。それとも女といふ女はすべて舞踊家の素質を備へて生れてきてゐるのか。それはともあれ此頃の子供は、いくら跳ねても踊つても、それで叱られるといふ事はないのである。羨しい次第である。