—二村定一《ふたむらていいち》のこと—
二村定一という名前も、もう六十以上の人でないとご存じあるまい。が、私にとっては忘れがたきなつかしい名前だ。
私の子供のころ、彼は流行歌手の鼻祖といわれた。まことに適切ないいかたで、鼻が異様に大きい。愛称がべーちゃん。本人は「俺《おれ》、ベートーベンに似てたんだよ」といっていたが、これはどう見てもシラノ・ド・ベルジュラックのべーであろう。
昭和四年吹込みの※[#歌記号、unicode303d]日が暮れてェ、あおぎ見ィるゥ、の「私の青空」はB面で、A面は藤原義江《ふじわらよしえ》歌うところの※[#歌記号、unicode303d]磯《いそ》の鵜《う》のとゥりゃ、日暮れにゃ帰るゥ、だった。ところが意外にも、B面が大ヒットしてしまう。ダンスホールが盛んになりはじめて和風のジャズが歓迎されたのだ。
※[#歌記号、unicode303d]沙漠《さばく》に陽《ひ》は落ちてェ、の「アラビヤの唄」、※[#歌記号、unicode303d]テナモンヤないかないか道頓堀《どうとんぼり》よ、の「道頓堀行進曲」、※[#歌記号、unicode303d]宵闇《よいやみ》ィせまればァ、の「君恋し」、※[#歌記号、unicode303d]俺は村じゅうで一番、モボだァといわれた男、の「シャレ男」、※[#歌記号、unicode303d]肩で風切る学生さんにィ、の「神田|小唄《こうた》」とヒットが続いて、エログロナンセンスの寵児《ちようじ》ともてはやされた。
それまでのオペラ式の、声をふるわせる唱法と反対に、二村のテノールは口を大きく開いて歌詞をはっきり歌う。そうして華やかさにつきもののペーソスがあった。
ところがなぜか、数年で二村の時代は去り、二村に刺激されて流行歌を歌いだした藤山一郎の古賀メロディの天下になってしまう。藤山の唄は清潔感があったが、やはり歌詞をはっきり歌う人で、これは二村の影響だろうか。
私は子供のころ、叔父の家のレコードで二村の唄と顔を知った。実にどうも、白粉《おしろい》と口紅のみ濃いピエロの顔で、エログロナンセンスという言葉は知らなかったが、じだらくな人を想像した。このじだらくな人がどうやって生きて行くか、なんだかじだらくの罰《ばち》が当たって転落してしまいそうで、感情移入をしたくなる。私は自分のことを棚《たな》にあげて、というより自分が劣等生なものだから、他の危なっかしい人物のことをおろおろ心配する癖がある。なにしろ当時すでに二村の新譜は出ておらず、過去の人みたいな感じだった。
やはり小学生のころ、父親に連れられて浅草松竹座のエノケン劇を観《み》に行くと、なんと、そこに二村定一の実物が出演していた。こんなところに居たのか、と縁者にめぐりあったような気がしたから不思議だ。
しかし二村は浅草では人気があり、エノケンとのコンビでおおいに売っていたらしい。もっともこの前のプペダンサントでは、二村・エノケンという格づけであり、松竹に買われてエノケン・二村と格は逆転したが、二人座長の観を呈していた。それが東宝に移り、完全にエノケン一座となり、二村は単なる幹部俳優の一人ということになる。
たぶんその屈託が原因だろう。酒に溺《おぼ》れて売り物の声も精彩がなくなった。そうしてエノケンと衝突して劇団をやめて独立|乃至《ないし》飛躍を試みる。
その当時映画でも成功し、全国の子供のアイドルになったエノケンは、もう立派な大看板、二村のほうはエノケンあっての二村だ。彼の流線型のレビューセンスや達者な芸も、漫才の受け役のように一人では半値以下になってしまう。ますます屈託し、大きな鼻を赤くさせてスゴスゴとまた戻ってくる。そのたびに一座内での格がさがる。エノケン一座は全盛時百人をはるかに越す大所帯だったが、幹部は浅草時代からの仲間で占められていた。二村、柳田貞一《やなぎだていいち》、中村是好《なかむらぜこう》、如月寛多《きさらぎかんた》。このうちエノケンの生家の小僧だった如月は終始忠実だったが、あとの三人はいずれも出たり入ったり、何度も自立を試みては失敗して復座している。
私の本能的な心配が現実になって、二村は最終的な喧嘩《けんか》をし、エノケンの所を離れてしまう。そうして転々としながら急激に凋落《ちようらく》して行った。昭和四年に一世を風靡《ふうび》し、十年後には旅廻《たびまわ》りに毛の生えたような小林千代子一座という小劇団におちついていた。
そのころ、子供ながら学校に行かずに浅草をふらついていた私は、ひょんなことから彼と知り合うのである。私の浅草での経験の中でもこれは最大の事件だった。私は、落ち行く人というものをはじめて間近に見、あつい眼《まな》ざしを注いだ。
二村が私に言った言葉で今でも印象的なのは、
「学校なんかに行っちゃいけないよ」というお説教。「あんなところに行ったってろくなことおぼえねえ」
二村の伝説はたくさんある。大巨根伝説。荷馬車の馬がおじぎをした話。楽屋|風呂《ぶろ》で熱い湯を流したら、桶《おけ》に腰かけていた二村が、アチチ、と飛びあがったという話。作り話であろう。男色家として有名な二村が巨根だという点に、作ったコクがある。
けれども、幕内の人からきいた次の話は、二村らしくてなんとなく好きだ。
朝帰りして直接楽屋に現れた二村が同室のエノケンに、吐息をつきながらいった。
「俺、つくづく堕落しちゃったよ。自分がもう嫌《いや》になった」
「どうしたんだい」
「朝、起きたらさ、女が隣に寝てやがるんだ——」
二村は生涯《しようがい》でたった一度、彼の母親の説得で、ファンだという女性といやいやながら所帯を持つが、結婚の翌日から一度も帰らないうちに女性があきらめてしまったという。こう記しても私は二村の稚児《ちご》だったわけではない。私はまるで子供で、しかも二村もロリータ趣味はなかったのだろう。彼の相手はスマートな慶応ボーイたちで、後に彼の葬式も、かつての大学生たちがとりしきったという。
奇怪なところがなくはなかったが、その点をのぞけば、私がはじめ想像していたような頽廃《たいはい》の影はうすくて、むしろ実直な芸人というタイプだった。本人が語ったが、彼がいちばんやりたかったことはオペレッタで、流行歌手じゃなかったらしい。レコード業界というものがまだ不安定な時分だったにしろ、あれほどのヒットを惜しげもなく捨てて、浅草におちついてしまったのがそれでわかる。
たしかにエノケンとの出会いから、二人の人気が拮抗《きつこう》していたころは、二人ともモダンオペレッタを志向していたところがあった。大資本に買われるにつれて、エノケン流小男英雄劇になっていく。そのうえ戦時体制になってきて、二村のようなキャラクターはますます出番がなくなってきた。
けれども小劇場にはまだ戦争の余波がおよんでいなくて、小林千代子劇団には田谷力三《たやりきぞう》などオールドタイマーが集い、小規模ながらオペレッタ風のものをやっていた。二村はその後、新興演芸で自分の小一座を作ったりしていたが、戦争の激化とともに消息が知れなくなる。
そのころ、浅草の幕内でも二村は死んだという噂《うわさ》だった。今でも古い芸人は、戦争中に彼が死んだと思っている人が居るくらいだ。
が、実は満州に流れていた。古今亭志《ここんていし》ん生《しよう》と同じ口で、満州なら酒が呑《の》めると思ったらしい。敗戦で、命ひとつで引き揚げて来て、九州|大牟田《おおむた》の収容所に一時入っていた。引揚文化人の会という怪しげなところで、小型トラックの上で歌ったり、喰《く》うや喰わずで大阪に流れ、赤玉というカフェーで歌ったり。
このころ、酒を呑むとすぐヘロヘロに崩れ、道路で小便をたれ流す始末だったという。だいたい、深酒の影響で戦争中から老《ふ》けこんでおり、声もかつての美声にほど遠かったから、ほとんどお情けの出演だったろう。
エノケンが二村の現状を発見して救いの手をさしのべた。二村にとっては屈辱だったろうが、久しぶりに座員として迎え入れ、有楽座で当たり狂言�らくだの馬さん�にかつての持ち役の大家で出た。
そのときに一度、私も遭遇している。二村は老人のような顔で、軍隊のオーバーを着ていたが、さかんに咳《せ》きこんだ。
「今度な、服部(良一)先生がレコードやれって、すすめてくれてるんだ。�南のばら�とか�ルンバタンバ�とか、戦前の曲を、俺のためにアレンジしてくれるって」
嬉《うれ》しそうにそういった。レコードを捨てた男が、レコードに望みをかけている気配を、さして不思議でもなく、それはよかった、と私もいった。
もっともその夜、渋谷の百軒|店《だな》の坂を私が背中を押さなければあがれなかったくらいに衰弱していた。舞台を務めるのも辛《つら》かったろうが、そんなことはいえない立場だったろうし、彼自身も、もう一度再起するつもりだったと思う。
家族が居ないので、上中里に住んでいた姉の亭主で、エノケン一座の老練な脇役者《わきやくしや》田島|辰夫《たつお》のアパートに同居させてもらっていた。
戦前、三軒茶屋に土地を買って、母親を住まわせていたが、自分はあんな淋《さび》しいところは嫌だ、といって行かなかったらしい。そこは焼け、山口県の徳山に買っておいた料亭は、艦砲射撃で、たった一軒だけ全壊したという。そういう点でも不運な男だった。
復帰の�らくだの馬さん�が終わらないうち、田島のアパートで、夜中に血を吐いた。入口の三和土《たたき》にしゃがんで、両手に吐いた血を、臆病《おくびよう》そうに眺《なが》めていた。
「明日から、酒が呑めなくなるかなァ」
といったという。
病院に運んだら、医者が、ここまでなぜ放《ほ》っといた、と叱《しか》った。今日でいう肝硬変の動脈|瘤《りゆう》出血で、二日後に亡《な》くなった。四十九歳で、意外に若かった。