—岸井《きしい》 明《あきら》のこと—
この正月、テレビで、昭和十六年製作の東宝映画「エノケンの孫悟空《そんごくう》」を見た若い人が、
「猪八戒《ちよはつかい》になった人、あれは何者です」
「何者って、あれが岸井明さ」
「張りぼてじゃないでしょう。お相撲さんですか」
「いや、本職のコメディアン、ヴォードビリアンかな。売り出したころは、百八十二センチ、百二十九キロと称していたね」
「それじゃ、先年|亡《な》くなった千葉信男《ちばのぶお》のような存在かな」
「そうだけど、もっと甘くてね。あの巨漢で、たいがい少女に恋している役なんだ」
日本映画もアメリカ映画もそうだが、昔の喜劇はたいがい小男が主人公だったものだ。たとえばチャップリン、キートン、たとえばエノケンである。世間的には小馬鹿《こばか》にされている小男が、ひょんなことから喝采《かつさい》を浴びる。それが、庶民、特にふだん虐《しいた》げられていた下層庶民に受けたのであろう。
ところがそれと正反対に、デブというキャラクターがある。たとえば|S《スタン》・ローレル、|R《ロスコー》・アーバックル、この岸井明である。デブもまた、反応がおそくて要領がわるいという性格を持たされている。古いところでは日活の田村|邦男《くにお》、松竹の大山健二、横尾泥海男《よこおでかお》(デブでなくて大男であるが)だ。大都の大岡怪童、大山デブ子のコンビ、新興の国城大輔《くにしろだいすけ》と、日本映画は何故《なぜ》かデブのコメディリリーフが好きだった。
往年の喜劇のギャグというものは、とにかく身体《からだ》の外形をからかったものが多く、夏目漱石《なつめそうせき》にすらその弊があるくらいだが、昔の役者たちは楽屋でも、デブはチビを小馬鹿にし、チビはデブを小馬鹿にするという雰囲気《ふんいき》があった。
岸井明は日大の相撲部の選手で(あまり強そうには思えないが)、たぶん、そこの先輩の田村邦男にでも誘われたのであろう。田村と同じ日活時代劇部に入る。ここにはもう一人、松本|秀太郎《ひでたろう》という肥大漢が居《お》り、しかし岸井明も松本もさっぱり精彩がなかった。二人ともほかの肥大漢よりもう少しソフトな近代味があり、古い使われ方に馴染《なじ》まなかったのであろう。
松本秀太郎はついに映画では生かされず、後年、浅草の青春座、あるいは戦後の松竹新喜劇で藤山寛美《ふじやまかんび》のライバルと目されるなど、舞台で開花しかかるが、惜しいところで病没してしまう。
岸井明も、大男総身に知恵がまわりかね、のように見えるが、弁護士の息子で長兄は『五街道細見』などの著書がある江戸文化研究家の岸井|良衛《よしえ》氏である。彼自身もなかなかの才人で、ジャズに熱中し、後半自分の歌うジャズソングの詞はほとんど自分でつけていた。
日活で腐っているうち、労働争議に端を発した七人組脱退事件というのがあり小杉勇、島耕二《しまこうじ》、それに監督の伊藤大輔や田坂具隆《たさかともたか》たちと新映画社を創《つく》り、これは翌年|潰《つぶ》れたが、浅草の笑の王国創立に参加、同年PCL(東宝の前身)創立にまた参加して、第一回作品の「ほろよい人生」に、笑の王国の同僚古川ロッパたちと出演する。
これが非常に好運だった。PCLという会社の前身は録音研究所で、日本映画ではいちばんおくれていた音声の入りがよかったため、それまでの日本映画ができなかった音楽喜劇路線を敷き、軽薄なほどモダンだった。ロッパやエノケン、藤原釜足《ふじわらかまたり》などの浅草レビュー役者はPCLでなかったら生かされなかったろう。
岸井明もその一人で、映画ばかりでなく、ロッパ一座の当たり狂言「唄《うた》う弥次喜多《やじきた》」にも客演し、歌うタレントとしても売り出した。
唄はお世辞にもうまいとはいえなかったが、甘いテノールで、当時流行のマイクにささやくようなクルーナー(感傷派)だった。
岸井自身も、
「唄の師匠はビング・クロスビーさ」
といっていた。
なにしろ巨体をくねらせて愛嬌《あいきよう》たっぷり、なにがしかのペーソスも加わって、歌唱力以上に舞台映えがする。それに、これは本人の見識だったと思うが、アチラ製のジャズソングを英語で歌わず、いつも日本語化して歌っていた。日本語というものは唄に乗りにくいものだが、そこを工夫してうまく詞をつけていた。
※[#歌記号、unicode303d]ダイナ いつでもきれいな
誰よりトテシャン[#「トテシャン」に傍点]な——
という調子の「ダイナ」。
※[#歌記号、unicode303d]お月さまおいくつ 十三七つ
あたしのあの娘《こ》も 十三七つ
お月さまあなたも 恋の病《や》み上り
あたしもあの娘に 恋のうすぐもり
という調子の「月光|価《あたい》千金」。
※[#歌記号、unicode303d]泣かずに涙ふいて
わけをきかせて
明るい君の顔に
涙は似わない——
という調子の「マイ・メランコリイ・ベイビイ」。
いずれもほかの歌手の歌う美文調の訳詞よりは、わかりやすくこなれていて、すくなくとも発音が音楽的になっている。
クロスビー張りの「プリーズ」、スイートスーをもじった「スーちゃん」、「世紀の楽団」など、試みにレコードで聴き直してみたが、谷口又士のアレンジも良くて今なおけっこうだ。
もうひとつ、大きな岸井明と少女スターのころの高峰秀子というコンビの、
※[#歌記号、unicode303d]向う横丁の煙草《たばこ》屋の
きれいな看板娘——
などというかけ合いソングもなかなか楽しかった。今でいえば岸井と水森亜土《みずもりあど》というところか。戦争が烈《はげ》しくなって、ジャズが禁止されてからは、こっちの路線が主になってくる。
今、年配の人が、岸井明というとまず口にするのは、戦争後期に映画で歌った「ボクはなんでも二人前」や、褌《ふんどし》かつぎの角力《すもう》とりに扮《ふん》した「櫓《やぐら》太鼓」あたりであろう。結局のところ、彼の持ち味がいちばんよく生かされたのはこうした唄の舞台で、映画では初期のPCL時代をのぞいて、やっぱりデブという概念の枠内《わくない》でしか使われていなかったように思う。岸井明自身もその概念を離れた役が演じたかったのではあるまいか。最晩年のころの東映「大菩薩峠《だいぼさつとうげ》」のシリアスな下男の不思議な力演を見ているとふとそんな気がする。
大きい人の唄声は楽に豊かに声が出てくるように思えて、それ自体|闊達《かつたつ》な快さがあるが、そのうえ楽天的で愛嬌《あいきよう》たっぷりで、まわりの屈託まで振り払ってくれる。岸井明の舞台は芸人につきものの暗さがなくて、まことに伸び伸びしていた。
そういう個性は戦争とは正反対で、岸井明も活躍の幅が限られたろうが、それでもなおかつ、貴重な明るさとして人々の眼《め》をひいただろう。あの諸事不自由な時代に、太っているというだけでも、貴重な救いなのである。
古川ロッパの「悲食記」という戦争中の食物のことを記した随筆を読んでいると、痩《や》せてすっかり元気のなくなった岸井明がロケ先にやってきて、農村部の比較的潤沢なご馳走《ちそう》を、嬉《うれ》しそうにもりもり喰《く》うところがある。
もっともそこは役者の強みで、一般人よりはどうにかなったのだろう。餓えの敗戦前後、岸井明はあいかわらず丸々と肥大していた。彼の場合、肥大を保たなければ商売にさしつかえるが。
敗戦で復活した日劇レビューは、轟夕起子《とどろきゆきこ》や、灰田勝彦《はいだかつひこ》、高峰秀子などが売り物だったが、ある意味でいちばん精彩を放っていたのは岸井明であろう。デブというものが、あんなに特別な存在に見えたことはない。
そうしてレビュー出身ではないけれどレビューの舞台に戻ると、水を得た魚のように見えた。おそらく戦争がなくて、レビュー乃至《ないし》ミュージカルが順調に発展していたら、彼はもっともっと大きな足跡を残したろう。
浅草オペラをテーマにしてメドレーにしたような舞台で、彼が演じたブン大将の風格など、今でも眼に残っている。
ところがいつのまにか、舞台でも映画でも、あまり姿を見かけなくなった。私も戦時中までほど映画演劇の世界に近づかなかったので、ついその消息にも暗かったが、糖尿病からくる高血圧で、療養が主になっていたという。
古川ロッパが、やはり糖尿病で、せっかく自由に活躍できるようになった戦後に、急速に精彩を失った。人々が餓えているときに飽食していた罰《ばち》があたったのかな、と思ったものだが、岸井明にもその気味があったろうか。
もっともロッパも、肥満をトレードマークの一つにしていて、哀《かな》しい職業意識だったかもしれない。
ロッパも岸井明も、とにかく肥満を保った努力が裏目に出て、がっくり痩せた。特に痩せた岸井明は、いかに明るくふるまっても、今度は、痩せたということが直に観衆の屈託を呼んでしまうだろう。
アーちゃんという愛称で、撮影所でも皆に明るくふるまっていた彼が、人が変わったように狷介《けんかい》になったという。
そのせいか、宝塚《たからづか》出身の夫人ともうまくいかず、子供もなく、寝ついていた最晩年は孤立に近い状態だったようだ。
今、調べてみると亡くなったのは昭和四十年、直接の死因は心臓衰弱で、五十五歳だった。
今でもはっきり覚えているのは、痩せ細った岸井明が転居先のせまい部屋で寝ていて、看取《みと》る人も絶えがちだったとか、葬式も淋《さび》しかったとか、そんなことばかりだ。たぶん、岸井明に少しもふさわしくなかったからだろう。
もっとも昭和四十年というと、戦前戦中に彼と一緒に一時代を造ったタレントたちは、おおむね日没期にあった。