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なつかしい芸人たち08

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:マイナーポエットの歌手たち私が小学生のころに、学校から教師に引率されて新宿の映画館に行った。珍しいことなのでよく覚えてい
(单词翻译:双击或拖选)
マイナーポエットの歌手たち

私が小学生のころに、学校から教師に引率されて新宿の映画館に行った。珍しいことなのでよく覚えているが、「燃ゆる大空」という戦争映画を観《み》るためだった。大日方伝《おおひなたでん》演ずる先輩士官と、月田《つきた》一郎、灰田勝彦、大川平八郎など若鷲《わかわし》たちの交情が軸で、主役は大日方と戦死してしまう月田なのだが、印象に残ったのはからみ役の灰田の甘い持味だった。
まだ練習生のころ、風呂場《ふろば》のシーンで灰田が、※[#歌記号、unicode303d]夕空はれて秋風吹き——という「故郷の空」を口ずさむところがある。それがなんとも甘美で、戦争映画で私どもも自分たちの将来を含めて観ているからそのセンチメンタリズムが身にしみて、妙なリアリティがあった。見なれない役者だと思っていたら歌手だという。
戦争映画にしては妙なキャスティングで、月田一郎(瑳峨三智子《さがみちこ》の父)は不良っぽさで売った色仇《いろがたき》役、大川平八郎はロサンゼルス育ちのアメリカナイズされた半素人《はんしろうと》俳優、大日方伝は中年で円熟していたが、喧嘩《けんか》でできた左アゴの傷痕《きずあと》が生々しく、これがまたこの映画では凄《すご》みになっていた。
が、どこからみても軍人らしくない灰田が、皆と心を一《いつ》にしていくところが逆説的な説得力になっていたと思う。
灰田勝彦の名前はこの映画でくっきりと胸にきざまれた。ところが街を歩いていると、どこのレコード屋でも、※[#歌記号、unicode303d]男純情のゥ 愛の星の色ゥ——、という「きらめく星座」が流れている。
ちょうど「秀子の応援団長」という映画が正月に封切られて主題歌が大ヒットしているときだった。
当時マイクの性能が発達してきたときで、それにつれてマイクを利してささやくように歌う感傷派《クルーナー》がオペラ式発声を駆逐しかかっているころだった。日本では顕著な傾向にならなかったが灰田勝彦あたりが嚆矢《こうし》であろう。そうして実兄の灰田晴彦のスチールギターが甘く、彼等のモアナグリークラブというハワイアンバンドも女の子たちに受けた。
「ジャワのマンゴ売り」「鈴懸《すずかけ》の径《みち》」「新雪」「バタビヤの夜はふけて」とヒットが続き、映画や舞台でも活躍しはじめる。ちょうどフランク・シナトラの売り出しのころと似た現象で、若い娘の渇仰《かつごう》の的となる。
こういう存在は、戦時体制の強化とともに後退を余儀なくされたものだったが、灰田だけは例外だった。もちろんしばしば体制からにらまれたが、不思議にプラスのほうに作用する。男くさい兵隊役者の中にあって、唯一《ゆいいつ》、セクシィな存在だったし、ここに慕い寄る全女性の波を、いかな憲兵でもさばききれるものではない。
それに、太平洋戦争とともにジャズは禁止されたが、灰田はいち早く南方民謡に逃げた。大東亜共栄圏の手前、これは禁止できない。そうしてスチールギターの調べで歌うと、ハワイの唄《うた》もジャワの唄も、甘美な点で変わりないのである。そのうえ、ハワイ生れの灰田は、南方民謡を歌う他のジャズ歌手たちより、エキゾチックなリアリティがあった。
戦争後半、つまり昭和十年代後半のNo.1スターは、長谷川一夫でも上原謙でも、バンツマでもなくて、この灰田勝彦だったと思う。
灰田は常に親衛隊に囲まれていたし、わりに開放的で、トシ坊なんて呼びかけながらうろうろしている正体の知れない連中がたくさんまわりに居たが、私も中学時代、別のクラスの友人に誘われて、一度だけ灰田の自宅をのぞきに行ったことがある。そのとき彼は、ピアノのある部屋で唄のレッスンをしていたが、甘く細い声という印象だったのが、そういうところできくと、部屋の空気がふるえるほど声量があったのは、さすがにプロだと思った。
それで思い出したが、戦時中のある時期に、電力節約のためマイク使用はまかりならぬ、というお上《かみ》の声がかかったことがある。
「マイクに頼るようなヘナヘナ声で戦争に勝てると思うか。もっと覇気《はき》を持って大声を出せ。死ぬ気で歌え」
そういう趣旨だったという。
オペラ式発声でない歌手は、それで気の毒なことになった。伴奏だけ響き唄声はさっぱりきこえない。松平晃《まつだいらあきら》も霧島昇も田端義夫《たばたよしお》も、口が動いているだけだ。
灰田勝彦にはその印象が残っていないのが不思議だ。伴奏がギター中心だからだろうか。それとも彼だけは、要領よくマイクを使っていたのだろうか。
しかし、灰田は本質的にマイナーポエットの歌手だったと思う。戦争中はマイナーなよさが非常な魅力になった。いつも戦争が主軸になっていて、彼は裏の存在だった。
「お国のために、がんばりましょう」
と彼が舞台でいえばいうほど、その言葉とかけはなれた実態が色濃く匂《にお》ってきて、それがまたなんとはなしの救いになる。
戦後になると、クルーナーも珍しくなくなり、新しい戦後の花がどんどん現れ、彼自身スターの座にあぐらをかいてしまっていて、健全ホーム型を目指したりしたためにかすんでしまう。
これも不思議なことだが、戦時中に花の開いたタレントは、清水金一《しみずきんいち》にしろ、桜井潔にしろ、広沢虎造《ひろさわとらぞう》にしろ、杉狂児《すぎきようじ》にしろ、いずれもマイナーなところに特長のあるタレントだった。そうして戦後になって、なんの制約もなく自由に活躍できる時代が来たとよろこび、メジャー志向になる。大部分はメジャーになれず、同時にマイナーなよさも失って色あせていく。
なにがメジャーで、なにがマイナーか、厳密にわけるのはむずかしいけれど、体質を変化させるのは容易でない。現在のタモリが、マイナーからメジャーへの変調の道程で、苦しみながらなかなか敢闘していると思う。
 ジェリー栗栖《くるす》というギター奏者兼歌手が居た。日支事変がはじまる少し前に、灰田の実兄灰田晴彦がハワイから連れてきた人で、一般には知られていないが、ヴェテランのミュージシァンの話をしていると、今もときどきその名が出る。
灰田ほど甘くはないが唄もまずくないし、男前だし、戦争が烈《はげ》しくなるまでに間もあったから、順調にいけば灰田の後をついで一人前になったろうと思われる。実際、日本に来た当初は、モアナグリークラブの戦力の一人だったり、フロリダ(新橋のダンスホールで、ちょうどアメリカのコットンクラブのようにバンドやショーに内外のタレントを集めた)に招《よ》ばれたり、相当に派手な存在だった。
ところが、今なお不思議なのだがその後が、マイナーポエットの歌手であるばかりでなく、典型的なマイナーの道を進んでしまうのである。
同じころ、アメリカ帰りのクルーナーでリキ宮川という人が居《お》り、やはりフロリダで歌ったり映画に出たりしたが、彼はきわめつけのプレイボーイだったという。子供の私にもその噂《うわさ》がどこからか入ってきたのだから凄い。
ジェリーにもその傾向はあったようだが、ギターの技術が当時としては一級品で、唄の他に司会なども器用にやった。そのため、器用貧乏ということなのか。なんだか不徹底で、フロリダ後も、どのバンドにも定着せず、吉本興業に入ってヴォードビリアンになってしまう。
木下|華声《かせい》たちと組んだ�ザツオンブラザース�は吉本と新興の引抜き合戦の余波を受けて長続きしなかったが、ジェリーは吉本ショーに居残って、なかなかヴォードビリアンとしても活躍した。唄も英語が本物で、リズム感が和製歌手とはちがう。
この時期のジェリーを見ていて、例によって私は彼に感情移入し、一生懸命そのあとを追って観たが、このころはもう戦争期で、ショー自体が行きづまっている。結局ドサ廻《まわ》りの小劇団にまで落ちこんでいって、ギターの弾き語りを一曲歌ってひっこむという彼を哀《かな》しく眺《なが》めたものだった。私としては最後に観たのは渋谷の聚楽《じゆらく》という小劇場だった。
後年、木下華声さんとよく呑《の》むようになり、いつかゆっくり彼のことをきいてみようと思いつつ、その期を果たせなかった。戦後しばらくして淋《さび》しく亡《な》くなったということだけは知っているが、現在ジェリーについて訊《き》くとすれば、益田喜頓夫人の奈良ひとみさんか、ジャズ評論家の瀬川昌久さんぐらいであろうか。この時期の人はうっかりしているうちに、知る人がすくなくなってしまう。
灰田勝彦とほんのすこしのちがいで花が咲かなかったジェリー栗栖を思い出したら、また東海林《しようじ》次郎のことに連想が行った。記述が横すべりして申しわけないが、この人も知る人ぞすくないであろう。
東海林太郎ではない。東海林次郎。太郎の弟だと自分でいっていた。身体《からだ》つきはいくらか大柄《おおがら》だが、顔もよく似ていて、同じ眼鏡をかけ、頭髪も東海林太郎ふうにしてある。いわゆる、イミテイションタレントだが、兄とちがってバリトンで、「赤城の子守唄」だの「国境の町」だの堂々と歌う。けっして拙《まず》くない。
私は子供心に不思議で、自立してやっていけなくもない歌手なのに、どうして我れからイミテイションに自分を固定してしまうのか、やっぱり感情移入して眺めていた。
彼の活躍期(?)は相当に長く、兄が人気を得てから戦争末期まで、歌っていた。浅草の舞台に出るかと思うと場末の浪曲小屋のようなところにも出ている。どんなところでも、兄と同じく、直立不動のまま、悪びれもせず歌う。そこがなんだか哀しくいい。
マイナーの典型ではあるが、十代のころの私にとって、忘れ得ぬタレントの一人なのだが、戦後、その名を見かけない。どうしただろうか。
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