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なつかしい芸人たち10

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:パピプペ パピプペ パピプペポ    杉《すぎ》 狂児《きようじ》のこと流行歌というものが、私の子供のころは世間の識者た
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パピプペ パピプペ パピプペポ
    —杉《すぎ》 狂児《きようじ》のこと—

流行歌というものが、私の子供のころは世間の識者たちからまことに軽んじられていたものだった。軽佻《けいちよう》浮薄、色情過多、退廃不健全、いろんな形容で吐き捨てられるようにいわれたものだ。
学校の先生は、あんなもの歌ってはいけないという。家庭でも、ラジオで流行歌が流れると、勉強の邪魔だといってスイッチを切られたりする。
それで、今ふり返ってみると、そのときどきの流行歌が身体《からだ》にしみついたように残っていて、昔を思い出すよすがになるから不思議なものだ。
昔よくデートをしていた女性と街の中で会っていると、岡晴夫の「啼《な》くな小鳩《こばと》よ」という曲をどこの店でもやっていて、岡晴夫の唄声《うたごえ》をきくと、今でも、さほど会話もなしに煮つまったような気分で酒を呑《の》んでいたそのころを思い出す。ところがデートの相手の女性の顔のほうは、すでに曖昧《あいまい》になっていたりする。
私の子供の時分に、二大愚歌といわれて、大の字がつくくらいだから猛烈に流行《はや》った曲があった。
その一つは、
※[#歌記号、unicode303d]あなたと呼べェば
あなたとォ答える
山のこだまァの 嬉《うれ》しさよ
あなァた、なァんだい
空は青空 二人は若ァい
という、たわいのない唄で、「二人は若い」という曲。
もうひとつは、
※[#歌記号、unicode303d]何かいおうと思っても
女房にゃなんだかいえません
そこでついつい嘘《うそ》をいう
(女)「なんです、あなた」
(男)「いや別に、僕は、その、あの」
パピプペ パピプペ パピプペポ
うちィの女房にゃ 髭《ひげ》がある
これは「うちの女房にゃ髭がある」という曲。
ばかばかしく愚かしいといってしまえばそれまでで、流行歌というものは愚かしい情感をきれいに掬《すく》いとるのがお値打ちだと思う。パピプペ パピプペ パピプペポ、なんていうところが、ばかばかしく天才的で、理屈っぽい上品な唄などよりずっとよろしい。
前者は「のぞかれた花嫁」の、後者は同名の、二つとも日活映画の主題歌で、いずれも杉狂児と星|玲子《れいこ》コンビの主演だった。映画では両方ともご両人が歌うのであるが、レコードでは、前者はたしかディック・ミネだったと思う。
これが大ヒットして、※[#歌記号、unicode303d]あなァた、なァんだい、などと子供たちは大人びたしぐさで歌うし、親たちが叱言《こごと》をいうと、※[#歌記号、unicode303d]パピプペ パピプペ——などと歌ってはずす。
実にどうも、心胆を寒からしめる、などと泣かんばかりに嘆いていた識者があった。
二曲ともに、当時のチンドン屋の代表演目であった。チンドン屋が好んでとりあげるようになると、当時は立派なヒット曲なのである。
今でも憶《おぼ》えているけれど、小学校をサボって、行くところがないままに、原ッぱのまん中で、叢《くさむら》の中にしゃがんでぼんやりしていたりする。原ッぱの向かいはバスの車庫で、人家はないし、人通りもない。昼さがり、中年の夫婦者らしいチンドン屋が、男はクラリネットを吹き女は囃子《はやし》の小太鼓を鳴らしながら、「うちの女房にゃ髭がある」を奏している。誰も見ている者がない。それでいて踊り狂うようにしながら、原っぱのはずれまでいくと引き返し、行きつ戻りつして飽きるところがない。白昼夢のような不思議な光景を、叢の中で私はポカンとして眺《なが》めていた。
さて、杉狂児については、子供のころの記憶がもう一つ残っている。
職業軍人で、いつも怖い顔をしていた父親が、ついぞ役者の話など子供の前でしなかったのだが、夕食のときだったかラジオの杉狂児の唄声をききながら、
「この男も、奇術の天勝一座の下《した》っ端《ぱ》だったり、ずいぶん下積みの苦労をしたらしいが、やっと花が咲いたようだな」
といった。映画雑誌かなにかで読みかじった知識だろうか。
それでいっぺんにおぼえた。名前の中に狂うという字を使ってあるのも印象が強かった一つの理由で、その時分、パピプペ、パピプペ、などといっている大人は、なにか狂っているようにも見えたものだ。
まもなく私は勝手に一人で映画館になじみはじめ、杉狂児の映画もずいぶん見た。そのころは松竹|蒲田《かまた》ナンセンス喜劇はすでに作っておらず、喜劇といえば、エノケン、ロッパを擁する東宝の専売の感があり、他社では杉狂児が一人気を吐いているという状態だった。
私の想像だが、杉狂児の進出のきっかけの一つは震災だったと思う。関東大震災で東京付近の撮影所はほとんど潰滅《かいめつ》してしまった。業績不振で気息|奄々《えんえん》だった松竹が、その寸前に蒲田から大船に移転し、被害に遭わず、それで立ち直ったという。日活は京都|太秦《うずまさ》で時代劇現代劇の両方を作っていたが、昭和九年に多摩川撮影所を新設して現代劇部門を東京にまた持ってきた。
その時分はトーキーになっており、他社でも鈴木|伝明《でんめい》など新しいタイプの現代劇俳優が出現していた。それまで、マキノ、東亜、河合映画(大都)と小さな所を転々としていた杉京二改め杉狂児が浮上したのは、そのモダンさを買われたのだろう。
そして前述の「のぞかれた花嫁」など新婚映画のヒットである。いわばサラリーマン小市民喜劇で、今日のタレントでいえばフランキー堺《さかい》といったところだろうか。フランキーはドタバタ喜劇もやるけれど、杉狂児の映画は、シチュエーション喜劇で、状況や筋の運びで微苦笑させる。私は父親のいう「苦労した人」の印象が強くて、若々しさは感じなかったが、世間のあつかいも、けっして若者のアイドルではなかった。まァ所帯持ちの観《み》る映画だった。
愚劇、愚歌と識者にののしられながら彼の人気は順調で「ジャズ忠臣蔵」「まごころ万才」「地上天国」「街の合唱隊」「暢気《のんき》眼鏡」。この「暢気眼鏡」は貧乏文士とその明るい細君が芥川《あくたがわ》賞をとるまでの微苦笑劇で、当時の郊外東中野あたりの庶民生活が丁寧に描かれ、今日再見したいものの一つだが、杉狂児もこれで俳優として世間からちゃんと認められたようだ。
しかし、もともといろいろな芝居をかいくぐってきた達者な人で、その達者さがきわどいところで一つ抑制されているようなところが、新しさになっていたのだろうと思う。もうひとつ、いつも眼鏡をかけていた役者は、当時はまだすくなかった。眼鏡と、年輪のような皺《しわ》が特徴で、それが楽天的にふるまうのが、サラリーマンたちにとって奇妙なリアリティだったのだろうと思う。
以後は日活のドル箱で、正月とかお盆に封切られることが多かった。「山高帽子」「世紀は笑う」「微笑の国」「電撃二重奏」。一方では「次郎物語」に親子で出たり、「青空交響楽」で主題歌がヒットしたのに、当局のヤリ玉にあがって発禁処分を受けたり。
そんなこんなで出場の機会が減って、戦争末期には浅草で杉狂児一座を旗揚げしたりした。知名度のせいで客は入っていたようだが、これは明らかに失敗で、舞台出のわりに映画的演技になじみすぎて、浅草流のドギツイ笑いを売らなかったから、そうなると苦労人的個性が逆に地味になってしまう。
彼の一座の「出世|太閤記《たいこうき》」という出し物を見た人が、
「なにしろ、ギャグといえば、ツカツカツカ、と声に出して歩いていく、それ一つだったんだからね、客席も沸かないし退屈だった——」
といっていた。
そのせいか、まもなく解散。
戦後は、とぼけた家老とか、中|老《ふ》けの脇役《わきやく》で、たくさん出ているがお茶をにごす程度。以前の杉狂児を知る者には、覇気《はき》を失ったように見えたが、年齢《とし》も年齢だったのだろう。下積みの長かった人だから、今調べてみると、「のぞかれた花嫁」のあたりで三十歳くらい、全盛のころすでに四十近かったはずだ。
昭和三十年代だったと思うが、夜十時すぎのテレビで、なつメロ的番組があり、めったにテレビには姿を見せなかった杉狂児が、珍しく「うちの女房にゃ髭がある」を歌った。
これは実に結構で、昔の若気が昇華され、老練なヴォードビリアンの名人芸を眺めている感じだった。かつては特に唄のうまい人と思わなかったが、これに限っては独特の洗練と味があった。
エノケンや二村定一にもいえるけれども、この時代の舞台芸人は、オペレッタ(今日でいうミュージカルか)志向のようなものがあって、情緒|纏綿《てんめん》とした流行歌手の唄い方とはまたひとつちがう。もっと硬質で、クールで、乱暴に歌い捨てているようにみえて、動きやリズムのセンスでおぎなったり、個性を調味料にしたり、はずれそうではずれないスリルがある。
今日のロック歌手に、そうした技巧はもっと高度な形で継承されているようだけれど、それはそれとして古風な名人芸も貴重なものに思える。
その夜のテレビの杉狂児を、私は家で黙って見ていたが、内心では、�浅草から出て洗練の域にまで達した芸人がここにも一人居たぞ�と思っていた。杉狂児健在なれ、と思ったものだ。
ところがその番組も誰の口の端《は》にも上らず、杉狂児はそのまま蝋燭《ろうそく》の火が消えるように、ある年|亡《な》くなってしまった。
そうして今日、もはや忘れられた名前になっているようで、レコードも復刻されないし、彼の全盛のころの映画も、フィルムは二、三あるのだが、ヴィデオで売り出される気配もない。忘れてどうというほど大事なことでもないが、私としてはやはり淋《さび》しいのである。
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