こんな噂《うわさ》をきいた。
力士からプロレス転向組で、ひところかなりの人気があった怪力豊登。しばらく名前をきかないと思ったら、さるやくざの親分のところで、ていのいい用心棒を務めていた由《よし》。
ところが年齢に加うるに糖尿病で痩《や》せ細り、かつての面影《おもかげ》がない。親分が連れて歩いてもあまり信用されない。
「こら、豊登、本物の証拠に、あれをやってみろ」
全盛のころ、リングの上で力こぶの盛りあがった両腕をしごくと、ばしッ、ばしッ、と痛烈な音がした。豊登、心得て立ちあがり、その形をしてみせたが、痩せ細っているから音なんか出ない。
誰も本物と思わないようでは連れ歩いても恰好《かつこう》がつかない。親分、とうとう彼をクビにしてしまったとか。
その社会の人にきいた話だが、悲しい話だ。こういう噂は大仰に面白く脚色されて拡《ひろ》がるから、デマだと思いたい。もっともバクチ大好き人間で身持ちがよくなかったから、ありうる話なのだが。
お相撲さんに限らず、運動選手のプロは若いうちが花で、普通人が年齢を加えるごとに安定していくのにくらべて、その逆になることが多い。一度、膨張した生活を収入に合わせて縮めていくのは辛《つら》かろう。ときどき、元運動選手の暗い話が新聞にのる。それが、なんとも痛々しい。
高校生にあんな大金を払うことはないとか、契約金の過熱を食いとめろ、とかいう大人の常識がまかり出てきて、それがドラフト制を生んだりする。冗談いっちゃいけない。昔の子役のシャーリー・テムプルは、ハリウッドでも最高ランクに近いギャラをとってたぜ。
選手は自営業だから、高校生も老人もクソもない。商品価値で定める値段に天井なんか要るものか。事務系大人の常識なんか筋がちがう。それより球団の代表だとかフロントだとか、自分たちがその高校生を商品にして食っているくせに、さも選手を食わしているようなことをいう。
戦争中は靖国《やすくに》神社の祭礼のときに、奉納の花相撲がある。新入幕かそのあとくらいの若い名寄岩が、花道から控えに入ろうと歩きだしたときに、子供が彼のお尻《しり》のあたりをピシャッと叩《たた》いた。すると名寄岩が二、三歩|後退《あとずさ》って、その子の頭を平手でポカッと殴ったのである。
まだ�怒り金時�という仇名《あだな》がつく前だったが、何をかくそう、その子供が私だった。もちろん手加減はしている。痛いというほどではなかったが、私も驚いた。子供心に、お相撲さんの背中を叩くのは激励のコールだと思ってやったところが、わざわざ戻ってきて殴り返してくるとは思わなかった。
しかしすぐにおかしくなってクスクス笑った。そうして名寄岩という人が身近になった。
双葉山が絶好調のころで、その弟弟子《おとうとでし》の名寄岩もトントンと関脇《せきわけ》になり、次の大関といわれた。そのころには、待ったをされると怒る、組手がわるいと怒る、名寄岩を負かすには、じらして怒らせればよいといわれた。そういうふうにアナウンサーはいうが、本当かね、と思う。いくらなんだって、しょっちゅう仕切直しをしているのに、待ったをされたくらいでカッときちゃうんだろうか。
花道で殴られた経験がなかったら、信じなかったろう。私はだいたいマスコミの作る話をなかなか信じない。まア、でも名寄岩はこの限りにあらずと思っていた。
ずっと後年の話だが、テレビ時代の初期にモロ差し名人の信夫山《しのぶやま》という人がいて、横綱を負かしたかして、支度部屋のインタビューがブラウン管に映った。
アナウンサーが何を訊《き》いても答えられない。ワハハハ、ワハハハ、と笑っていて、あとからあとから笑いがこみあげてくるらしい。とうとう終わりまで笑いっぱなしで、一言も言葉にならなかった。
嬉《うれ》しいことはよくわかるけれども、あんなに端的に喜んだ姿というものは、ほかに見たことがない。お相撲さんの喜怒哀楽は豪快で、だから名寄岩も、端的に怒ったのだろう。(余計なことだが、信夫山、モロ差しで腰を使った影響か、引退後、腰から発して全身神経痛となり、気の毒な亡《な》くなり方をしたという)
兄弟子が双葉山、弟弟子が羽黒山、この二人と一緒に立浪《たつなみ》三羽|烏《がらす》といわれたけれど、二人があまりに光りすぎて、名寄岩は盛りの時分から脇役だった。
が、強かったと思う。成績以上に強かった。というのはその人柄《ひとがら》と同じで、一本調子。誰とやっても同じで、相撲ぶりを相手が皆|呑《の》みこんでいる。
左|一概《いちがい》。左が入らなければ相撲にならないから、立合いに左手を脇にぴたっとつけて、肩口で当たっていく。左四つになればそのまま寄り進む。相手の当たりが強くて押されると、すぐに反り身になる。
不思議にこの反り身になってからが強い。このタイプは後年の大関|豊山、《ゆたかやま》それに陸奥嵐《むつあらし》くらいのものだろう。反り身になって、左をこじいれると掬《すく》い投、差せなければ右腕で相手の差し手を抱えて、巻くようにして体勢を入れかえる。機を見て吊《つ》りで反撃する。
顔面朱色。差し手を返すとか、おっつけるとか、そんなことはしない。ただ豪力、というか、気力、というか、うゥんとふんばる相撲だった。一度、上手がとれずに相手の肉をつかむようにして吊っていったのを見たことがある。
吊りといい、下手からの技といい、上位には分のわるい取り口のはずだが、それがそうでもなかった。
気の毒だったのは敗戦前後のころ、お相撲さんは皆痩せていたが、名寄岩は極端で、アンコ型だったのが腹がなくなり、皺《しわ》でたるんでいた。反り身になるまでは例の形だが、それでずるずると寄り切られてばかりいた。
大関を落ちてからの名寄岩は、後年、「涙の敢斗賞」という映画が作られたように、悲運の関取、という印象が強くなり、以前の荒法師ぶりが失《う》せた。
大向うに受けた涙の敢斗賞というのは幕尻に落ちて、今度負け越せば十両というときに、奮起して大勝(十一勝四敗だったか)したことをいう。
糖尿病をはじめ十何種類の病気持ちだったそうだが、肌《はだ》の色艶《いろつや》もわるく、痩せた元大関が、気力だけでねばっているという感じだった。
彼は大関を二度すべり、幕尻近くからまた盛り返して関脇まで行っているのである。引退したときはもうぼろぼろで、力が一滴も残っていないという感じだった。正直いって、痛々しくて見ていられなかった。
しかし、どうも不思議でならない。
四十歳くらいまで現役でとらなければならなかった理由は、まず第一に、引退後の生活が保証されていなかったからであろう。彼は、最後の最後まで、年寄株を持っていなかった。
どうしてそうだったのか。所属する立浪部屋は、双葉山、羽黒山、名寄岩を産んで大いに興隆し、それまでの小部屋が一躍|出羽海《でわのうみ》系に対抗する主流になった。
三人とも人気力士で、タニマチも多かったはずである。彼の性格から推して、蓄財は苦手としても、浪費型とは考えられない。
そういえば大横綱双葉山も、年寄株を手にするのがおそかった。彼は引退のとき一代年寄を認められて、現役名のまま双葉山道場と称していた。時津風を襲名したのは引退後二、三年してからだったと記憶する。
羽黒山は師匠の娘と一緒になって、立浪を継いだから問題はないが、小部屋の力関係で株が手に入りにくい事情でもあったのだろうか。
しかし、戦争末期から戦後にかけて、この世界を見限って廃《や》めていく力士や年寄が多く、すくなくとも敗戦前後は、空株がたくさんあったのである。
そうして戦後は双葉山が理事長になり羽黒山も理事で、協会内にも勢力が大きくなっていた。この二人の兄貴分が、配慮すれば、株はなんとかなったろうと思えるが、そのへんはどうだったのだろうか。
他人様《ひとさま》の私事をのぞこうというわけではけっしてないが、双葉山が立浪から独立して自分の部屋を持とうとしたとき、スムーズに行かなかった。深い内容はよく知らないが、師匠の立浪と双葉山は喧嘩《けんか》別れをしている。
その両者の間にはさまって進退きわまったのが、部屋の古参|旭川|《あさひかわ》(年寄玉垣)で、彼はこのとき割腹自殺をはかったくらいだから、相当なごたごただったのだろう。未遂に終わったが割腹という、いかにもお相撲さんらしい大時代なやり方だったので、よく覚えている。
そのときに、羽黒山も名寄岩も、名前が出てこなかった。二人はただ傍観していたのか。羽黒山は師匠の|娘婿で《むすめむこ》あるうえに、双葉山が出て行ったほうが都合がよいわけだから、あらかたは察しられる。
怒り金時の名寄岩が、カッとするなりとめだてに入るなり、端的な行為に出ていないようなのが奇妙だ。
双葉山の引退後、名寄岩は弟分の羽黒山の太刀持ちを務めていた。彼も大関なのだけれども、三羽烏のいちばん弱いほう、という眼《め》でしか見られない。私が名寄岩なら、屈折する。羽黒山が娘婿になった以上、双葉山も名寄岩も、外に出て独立するよりほかに手がない。
想像だけれども、名寄岩は、年寄株を手にして、部屋つきの年寄になり、羽黒山を親方として立てるような生き方を嫌《きら》ったのではあるまいか。年寄株と一緒に独立して自分の部屋を持ちたい。
それには稽古場《けいこば》、弟子集め、いろいろと金がかかる。それが達せられなければ相撲界など捨てたほうがいい。
喜怒哀楽の端的な相撲社会も、そうばかりはいかないようで、だからまた傍観者には面白い。