古い話だけれど、敗戦の年(昭和二十年)の晩秋、プロ野球復活第一戦と銘打った東西対抗戦を観《み》に行ったことがある。
場所は神宮球場。プロ野球は戦争末期の昭和十九年に中絶していて、たしかに復活第一戦だったけれど、リーグ戦をはじめるには年末すぎるし、とりあえずピックアップチームで客を呼ぼうとしたのだろう。
スターの大半はまだ戦地から帰っていない。東軍のクリーンナップは三番が猛牛の千葉、四番が中大出の加藤正二、五番が大下|弘《ひろし》。
この大下というのが明大からきた新人で、まるで無名の選手だった。それがどうしてピックアップチームの五番に起用されたかというと、敗戦後いち早く明大OBの横沢三郎(後に審判になった)がセネタースというクラブチームをはじめて、練習試合などやっていたらしい。そこでの実績があったのだろう。東軍の監督がその横沢。
ほかのチームはまだいずれも準備不足で試合は乱打戦になり(西軍で出た新鋭投手別所などもポカスカ打たれていた)、ラグビーのスコアのようになったが、中で印象的だったのが大下のバッティングだった。
左打者でバットを投手から隠すように低くかまえ、右前足を蹴《け》り上げるようにうしろに引いて打つ。だからやっぱり一本足打法で、一閃《いつせん》するとライナーで内外野を抜いてしまう。それが、苦もなく打っちゃう、という感じだった。
私の見た試合が大三塁打を含む三安打で、関西でやった第二戦が、ホームランと三塁打を含む三安打、たしかこの試合の打点を一人で叩《たた》き出したと思う。
翌年のリーグ戦では、ホームラン王になって、エースの白木義一郎とともにセネタースの牽引車《けんいんしや》になる。
スマートな色男で、持ち味が明るくて、スターの条件は充分以上に揃《そろ》っている。
それまでのプロ野球は、中等野球の延長のようなところがあって、汗と力、ガニ股《また》、歯を喰《く》いしばる、といったような趣があった。
大下弘はそれとまったく対照的で、都会派の代表だった。明るくて、なんだか軽々としているのが一種の洗練につながる。
弾丸ライナーの川上、七色の魔球若林、名人|苅田《かりた》などという呼称に対して、天才大下とよばれた。
戦前派の代表的左打者川上が真っ赤に塗ったバットを使っていた。
赤バットの川上に対して、大下は青バット。
「※[#歌記号、unicode303d]赤いリンゴに唇《くちびる》よせて、だろ。※[#歌記号、unicode303d]だまって見ている青い空、だろ。あっちが赤いリンゴなら、こっちは青い空でいってやる」
それが青バットになったのだそうだ。これは少年ファンたちに受けた。当時、プロ野球の人気は、後年のプロレスの人気のありかたに似て、もっと強烈だった。だってほかに明るい話題なんてなかったころだ。
青バットは翌年も火を噴き続け、連続ホームラン王、しかも首位打者。
たしかこのころではなかったろうか。一試合七打席七連続安打。
しかもこのときは、前夜が烈《はげ》しい雨で明日のゲームは中止だと思い、夜明けまで痛飲して、二日酔いのまっ最中。球場に来て水をかぶって出たのだという。
なにしろ、酒豪。
それに加えて、色豪。
セネタースが東急フライヤーズと改名したころの監督だった井野川利春が私の生家の近所に居て、顔なじみだった。ここには大下や塚本|博睦《ひろよし》などがマージャンに来るらしい。
「一度、大下とマージャン打たしてくださいよ」
「ああ、今度な、メンバーがたりないときに呼ぶよ」
しかし一度もお呼びがかからない。もっとも当時の私は悪評判が濃すぎた。
「あいつが二日酔いなんて、普通だよ」
と井野川もいう。
「酒の臭《にお》いぷんぷんさせて試合に出たこともあったよ。練習なんか、まるで出てきやしないしな。それでも打つんだから文句がいえないんだ」
ただひとつ、ばくちは駄目《だめ》で、常に負け組だったらしい。それはそのはずで、若くして大金が入ってくるのだから、賭《か》け方が甘くなって当然だ。
井野川邸でスッカラカンになって、車をカタにおき、大下がしょぼしょぼと都電に乗って帰ったという話をきいた。
大下というのはそういうところがなんとなくほほえましい。川上や千葉や白石も天才かもしれないが、泥々《どろどろ》になって練習した末の名手という感じがして、あまりうらやましくない。
努力するのなら花が開いて当然、努力しないで花を咲かそうというのが私どもの夢で、大下はそういう凡人の夢を満たしてくれた。
もっとも大下だってスーパーマンではない。プロ入り三年目のシーズンオフに親会社の東映で、主演映画をとった。そのため調整がおくれ、シーズン前半不調だった。そういえばこの年だけでなく、シーズン前半は例年よくない。そのかわり後半に打ちまくって、いつのまにか打率もホームランも上位に達している。
現場に居たわけじゃないからわからないが、映画をとろうととるまいと、スプリングキャンプなど、ろくすっぽ練習もしないであいかわらず酒色にふけり、ばくちで負けていたのではないかと思う。そうして実戦で徐々に調整していって、後半で追いあげる。
それだけのわがままが許されていたと思う。なにしろチームはよくいえばスマート、わるくいえば線が細くて、打撃は大下ひとりが看板だった。だからペナントレースでは毎年中位以下。大下もそのへん割り切っていて、チームよりも個人成績にこだわってプレイしていたように見えた。
二十五年の二リーグ分裂騒ぎのとき、多くの選手が札束に泳がされてチームを替わったが、大下は動いて居ない。大下ばかりでなく、各チームの主砲は総じて動かなかった。たぶん、球団から充分な手当がいっていたのだろう。
それにしても、あのころの自分がなつかしくもあり哀《かな》しくもある。後楽園球場の近くの小出版社に勤めていて、社の帰りに外野席にもぐりこんで、薄暮試合だのナイターだのを、コーラを呑《の》みながら黙々と観戦していた。たいして楽しくもなかったけれど、安心してくつろげる場所でもあった。
ついでに記すと、二十四年にオドール監督のサンフランシスコ・シールズが来て、各地で日本チームとゲームし、これが超満員だった。このときはじめて、進駐軍の許可を得て、�アメリカ人が野球を楽しむように�コーラやホットドッグを場内で売った。コーラを日本人が呑みだしたのはこのときからだ、と教えてくれた人が居る。私どもはあまり意識しなかったが、やっぱり占領下だったのだなと思う。
そのころはラビットボールという、よく飛ぶボールを使用していて、これがホームランブームを呼んだ。阪神の藤村富美男がホームラン用の物干竿《ものほしざお》のようなバットを振り廻《まわ》していたころだ。
誰も彼もがホームランを狙《ねら》ったが、コンスタントなのは、やっぱり大下だった。あとは川上、青田、別当、藤村兄、小鶴《こづる》、西沢など。
ダイナマイト打線と呼ばれて、集中打がお家芸だったタイガースも、二リーグ分裂のときに主力をオリオンズに引き抜かれてスケールが小さくなる。しかしタイガースの当時の黒いユニホームは魅力だった。地味だけども軽快で接戦に強かった南海、投手力の阪急、私はなぜか関西のチームのほうが好きだった。東のチームは巨人をのぞくとどうも大味で、もうひとつきびしいところがない。
そのカラーの代表がやっぱり大下だったのだが、二十七年には彼も九州のチーム西鉄に去っていった。そのころには下腹もだいぶ出ていて、天才というより打撃の名職人という感じだった。
特に西鉄に移ってからは、若い豊田や中西を、確実に塁上から返す五番打者として重厚な存在だった。
二十九年に最高殊勲選手。三原監督と若いスター連の間をつなぐ主将的存在だったが、むしろそれよりも若手に刺激されて自分が張り切っていたのだろう。当時の西鉄の若手は、大下から豪放な遊びのほうを教わったらしい。
最高に大下らしいと思ったのは、選手を引退してから、四十三年に古巣の東映の監督になったときだ。
まず第一に、ノーサイン。ごちゃごちゃ小面倒なサインなんかやらない、といって選手各自の判断にまかせた。
それから、ノー罰金、ノー門限。
要するに大放任主義だ。いろいろ定《き》めたって大下自身が守れなかっただろうけれど、このとき、ああ、大下は本当の天才だったんだなア、と思った。
大下は天才だったから、それでやれてきた。が、天才でない選手たちはどうなるか。そういうことをまるで考えずに、皆自分と同じだと思っている。そこが大下らしい。
結果は悪いほうに出て、失笑を買ったが私はもう少しそれで通してほしかった。たとえ成績はビリでも、なんの努力もしない天分だけのチームという存在があるだけで、嬉《うれ》しくなるファンも居るのだ。
今、改めて大下の略歴を眺《なが》めて、オヤと眼をひかれたのは、台湾高雄商から明大に行き、学徒動員で特攻隊に入っていることだ。そうして戦後、明大に復学している。
私たちの眼前に彗星《すいせい》のように現れたような印象もその曲折のためであろう。それにしても、あの楽天的な天才が、特攻隊の生き残りだったとは。