あれは、誰と誰の取組だったろう、とこの前から思い出そうとして、なかなか手がかりがない。
思い出さなくたって生活に困るというわけではないし、もっと大事なことがたくさんあるようにも思うが、しかしなんだか気になる。
相撲は子供のときから見ているし、特にテレビができてからは、一番残らずとまではいかないが、まァだいたい見ている。特に昭和三十年代は、のんきに遊んでいたから、しょっちゅうソバ屋で観戦していたものだ。
と思って、三十年代といえば、栃若、栃錦《とちにしき》、若乃花《わかのはな》の絶頂期、そうして相撲協会が年寄や行司の定年制を敷いたころだから、三十四、五年ごろのことだな、といとぐちが見えてきた。
手元に資料があれば簡単だけれど、相撲の資料まで揃《そろ》っていない。専門誌に問い合わせるといっても、さしあたって知人が居ない。まァそれよりも、一人で気にかけていて、なにかのはずみに思い出すというほうが楽しい。
そうやって私がこだわっているのは、お相撲さんではなくて、行司の式守伊之助のことなのである。何代になるのか知らないが、ヒゲの伊之助といわれて当時なかなか人気があった。
伊之助は木村|庄之助《しようのすけ》と並んで立行司《たてぎようじ》だから、結び前の一番。あの取組は横綱がからんでいよう。その場所ももう大詰めに近づいていたような気がするから、横綱同士か大関あたりとの取組ではなかろうか。
そう思って当時の横綱や大関の顔を思い出してみるが、これ、と思う取組が出てこない。
なにしろ、速い相撲で動きがもつれたこともあって、物言いがつき、検査役五人が土俵場に上がった。そうして伊之助を入れて六人で評議している。
かなり長い物言いだった。伊之助が自分から勝負のきまった俵のあたりに行って自説を主張している姿が目立った。
あ、突然思いだしたが、栃錦と北《きた》の洋《なだ》の対戦だった。北の洋は前頭《まえがしら》上位と三役を往復する中堅力士だったが、白い稲妻といわれてスピード相撲だった。今の佐田の海をもうひとまわり大型にしたようなものか。左差し右おっつけで寄り進み、残されると下手からの技がある。
栃錦も動きが速い。けれどもこの相手には、北の洋が再三金星をあげていた。この一番も、北の洋が立ち勝って寄り進み、栃錦が土俵ぎわで、わずかに身体《からだ》を開いて突き落しを見せ、両者土俵下に転落した——というような相撲だったと思う。
伊之助の軍配は栃錦だった。
しかし検査役の評決は、行司差しちがえで、北の洋。
このとき伊之助は、勝負がきまったあたりの土俵ぎわのところにまだ居たが、検査長から差しちがえを知らされて、
「——おら、いやだい!」
といった。伊之助の声は甲高くてよく通る。私の子供のころはたしか庄三郎といって、髯《ひげ》は立てていなかったが、いちばん元気のいい行司さんだった。
「いやだい、いやだい——!」
身をもむようにそういって、土俵を掌《てのひら》でばんばん叩《たた》いたりした。荘厳《そうごん》な衣裳《いしよう》と白い立派な髯に、どう考えてもちぐはぐな絶叫が、理非はともかく、痛烈で、もの哀《がな》しい。
検査役はびっくりもし、ひっこみがつかなくもあったのだろう。懸命にせきたてるが、伊之助は土俵下にうずくまってしまう。こうなったら意地でも勝名乗りはあげない。という構えだ。
スポーツは、ときおりこういうハプニングがあって、本勝負よりこのほうがよっぽど見物《みもの》のときがある。
結局、だいぶ時間がたってから、伊之助が涙ながらに北の洋に勝名乗りをあげたのだろうと思うが、結末はよくおぼえていない。
伊之助はそれで、謹慎十日間だったかの罰を受けた。
だんだん思い出してきたが、検査役五人のうち、栃錦が所属する春日野《かすがの》系の岩友検査役一人が、評決に棄権、あとの四人が北の洋の勝ちとしていたようだから公平に見て、はっきり栃錦の勝相撲というわけではなかったのだろう。
けれども、行司は、物言いの評議に加わることはできるが、評決の一票を投ずる資格はないのだという。
行司というものは、たぶん、もともとはもう少し権威のある役割だったのだろうが、なにしろ相撲を取る側とは関係ない。相撲協会は力士出身の者が運営をしていて、それに所属しているのだから、自然にないがしろにされてしまう。協会は、行司や呼出しは人間と思っちゃいない、という不満は昔からあって、突然定年制を呑《の》まされた伊之助が、ここをよきチャンスとばかり、行司の権威の失墜を訴えてみせたのだという説もあった。
そのすこし後に、浅草本願寺境内の花相撲で、知人と一緒に、伊之助老とほんの少し言葉を交わしたことがある。
「——あたしはね、北の洋は勝負には勝っていても、身体の落ち方が早いし、死体《しにたい》だと見た。検査役だって、がんばったのは二人で、もう二人はぐにゃぐにゃだったよ。岩友さんは部屋の関係で栃錦、あたしに決定権の一票があれば、どうなったかわかりゃしない——」
そういっていた。
まァそれはともかく、私にとっていちばん印象的だったのは、
「おら、いやだい——!」
という素朴《そぼく》で至純な叫びで、公衆の面前で、あんないいかたが出てくるのが相撲界のよさ、おもしろさなのだろう。
当今は皆それなりにペラペラになっているが、相撲解説の初期には、けっこうふだんの言葉が出てきておもしろかった。レギュラーのように出ていた元高登の大山親方ですら、高砂《たかさご》系の力士が負けたとき、
「こん畜生——!」
と叫んだことがあるし、大豪羽黒山(初代)なども、
——ああ、そうスね、
——ええ、そうス、
アナウンサーが何をいっても、ただ返事しかしないところが、いかにも強かった横綱の面影《おもかげ》を残していた。しかし協会の理事として、いったい何をしていたんだろう。
私の子供のころは、仕切直しも長かったが、物言いがつくと、評議がまた長かった。三十分くらいもめるのは珍しくない。羽織|袴《はかま》の巨人たちが、なにかしかつめらしく話し合っている。
戦後になって、これでは観客が退屈するから、というので土俵の天井のところにマイクを吊るして、評議の模様を観客にきかせようとしたことがある。
マイクをとおしてきこえてきたのは、
「——どうだい、もう一丁か」
「——いや、俺《おれ》は、東だ」
「——そっちは?」
「——うん、まァ、もう一丁だな」
「——東だよ、東」
「——うんにゃ、もう一丁。俺ン所じゃよく見えなかったし」
威儀を正した姿形からすると、案外の日常語で、これが実におかしい。顔だけ見ていると、滔々《とうとう》と理屈をこねているように見える。
あんまりばかばかしいという意見もあって、マイクはすぐにはずされてしまった。
しかし、客としては評議の内容を知りたい。そこで現今のように、検査長が代表して、マイク片手に説明するという形になった。
「ただ今の勝負判定の結果を、ご説明いたします」
というところまではいい。実に立派な口上で、いいのだけれど、
「行司軍配は、西方力士にあがりましたが、評議の結果、同体と見て、取直しと決定いたしました」
なァんだ、という空気が客席に流れるのがわかる。検査長の口上はすべて眼《め》に見えてわかっていることばかりで、評議の内容が知りたいのだけれど、そこは飛ばしてしまう。
べつに隠しているわけじゃなくて、説明しづらいか、面倒くさいかなのであろう。
あの検査長の口上も何度か形式が変わっている。たぶん、質問者はどうにかしてもっと具体的にさせたいのだろうが、そのへんは無雑作に黙殺されてしまう。
これがやっぱりお相撲さんらしくていい。なまじアナウンサーのように、ぺらぺらと長口上になったら、かえって興ざめであろう。
東が勝ったんだから、東の勝ちだ。それだけさ。
こういう無雑作さは、男のやりくちであって、諸事女っぽくなっているご時世に、相撲の人気が続いている原因の一つだと思う。
そういえば、今の鏡山《かがみやま》親方、元横綱の柏戸《かしわど》さんと麻雀《マージャン》を打っているとおもしろい。彼は絶対にオリないのである。テンパイすれば、なんでも振ってリーチだ。
こちらが中[#紅中]と□[#白板]をポンしていても発[#緑発]を打ってリーチとくる。
「当たりですよ」
「ああ、そうかァ——」
である。はじめのころ、私たちは陰で、
「やっぱり相撲ぶりと同じだなァ、突進しか知らない。それで打棄《うつちや》られて負けるんだ」
などといっていたのである。
ところがある日、話をきいてみると、まだ幕下のころ、部屋で麻雀をおぼえだしたころから、師匠の先代柏戸さんに、
「お前はオリるな」
とさんざん言われたのだそうだ。
「相撲とりがオリるような麻雀打つならやめろ。一にも二にも押していけ」
それでもやっぱりオリたりすると、背後から鉄拳《てつけん》が飛んだという。
なるほどなァ、やっぱりお相撲さんの世界はちがうなァ、と感心したものだ。
私も大群衆の前で、おら、いやだい、と身をねじってみたいが、なかなかやれないだろうなァ。