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なつかしい芸人たち25

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:渥美清《あつみきよし》への熱き想《おも》いどうも私は、フーテンの寅《とら》さんに弱いのである。※[#歌記号、unicode303d
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渥美清《あつみきよし》への熱き想《おも》い

どうも私は、フーテンの寅《とら》さんに弱いのである。※[#歌記号、unicode303d]えらい兄貴になりたくてエ、という渥美清の唄声《うたごえ》のあたりでもう涙っぽくなっており、劇がはじまると、もう涙、涙、滂沱《ぼうだ》と流れる涙の奥からスクリーンを眺《なが》めている恰好《かつこう》になる。若干、口惜《くや》しい気もするし、自身のセンチメンタルな体質が恨めしいのでもあるが。
森川信が出ていたころは一本残らず観《み》ていた。サングラスをかけたり、いちばん後方の席で観て終わると急いで飛びだしたりしたが、どうもみっともなくて映画館に行かれない。それで途中から敬遠していたが、近年ヴィデオで再見して、夜半に一人で観ると、やっぱり同じように涙がわんわん出てくる。
私も寅さんに劣らず幼いころから駄目《だめ》人間で、いくらか特徴はちがうが周辺から呆《あき》れられ、愛想をつかされ、ずっとはずれ者で、けれども肉親が健在だった分が救いになって、なんとか生存を許されているような身としては、まず、感情移入をしてしまう。いや、寅さんとちがって私などはずっと手前勝手でガリガリ亡者《もうじや》で、じめじめ暗い。
その私からみると、寅さんというのは本当におおらかで、明るくて、手傷などすぐに癒《いや》す野性の強さがあって、見上げるような人物である。本質的には私と同類なのだが、どうしてこう秀《すぐ》れた人間なのだろうか、と思って、それから、寅さんの秀れた部分を維持して生きていくことのむずかしさに思い至ると、涙が出てくる。
それからまた、そんなに秀れた部分を持っていても、世間の中では劣等者であり、本人もそう思っている。寅さんの持つ節度とは、自身の生身の欲求を劣等意識で押し殺すという形になる。そこが哀《かな》しい。私もその同類だが、度合の相違はあっても庶民の節度とはこういう形のものでありがちだ。えらい兄貴になりたくて、の�えらい�というやつは、この劣等意識をなんとか薄めたいという気持の発露であろう。
けれども、寅さんの劣等感は、そもそもなにが原因で宿ったのだろうか。いかにも腕白そうな少年時分の写真が出てくる一齣《ひとこま》があったな。親父《おやじ》が酔っぱらって作ったとかいうセリフもあった。勉強ができなくて、顔が四角く鰓《えら》が張っていて、というようなことも理由の一つといえなくもない、がはたしてそれだけであろうか。
あるとき私はふっと妙なことに気持がひっかかった。車寅次郎という名前。江戸時代に車弾左衛門《くるまだんざえもん》といったかな、非人|頭《がしら》が居て、車という姓がそれを連想させたのだ。もとよりその種の差別が何の謂《い》われもない、撲滅《ぼくめつ》すべきものであることを承知しているが、山田洋次さんは意図的にこの名をつけたのかどうか。
考えすぎだろうか。寅さんに託して、これぞ正統庶民という主張がこめられているようにも思えるし、素知らぬ顔で、庶民の間の難問を呈出しているようにも思える。
寅さんの周辺の人物が、始末がわるいと思いながら愛情をそそぐ場面を眺めていて、いつも疑念が湧《わ》くのだが、寅さんの女関係について、そのパターンの反復を恐れるばかりで、ついぞ一度も、もうずいぶんいい年齢《とし》になっているはずの男に女房を世話しようという気配が見えない。その点に関しては何故《なぜ》かずいぶん冷たいなァ、と思う。
 渥美さんのことを記そうとして、寅さんで思わぬスペースを喰《く》ってしまった。けれども渥美清というと、どうしても寅さんのイメージとダブってしまう。
素顔の渥美さんは、私が知る限り、寅さんとはかなりちがう。寅さんほどストレートに楽天的でないかわり、温和で、ひっこみ思案で、言葉の本来の意味でインテリであり、一度座談が火を吐くと絶品のおもしろさだそうだが、どこやら隠者のような趣さえある。
にもかかわらずフーテンの寅は、渥美清以外に考えられない。この国の表現の世界では、誰も彼も(役者に限らず)世に出たとたんに、庶民の顔を捨て去って教養人|乃至《ないし》自由人の顔つきになる。そのために、教養社会の外に居る大勢の人たちが、自分たちの姿を作物の中に見出《みいだ》せない。渥美清はわずかな例外の一人で、スターになっても、独特の教養を積んでも、変わらず庶民の風貌《ふうぼう》を失わないせいか。
彼は心を許す限られた友人としか交際しないらしいが、映画、広い範囲の演劇や演芸を見て歩くことに熱心で、私も何度か劇場の廊下などでぶつかって挨拶《あいさつ》したことがある。いつも三ちゃん帽にレインコートくらいの目立たぬ恰好で、だからほとんどの人が彼と気づかない。
この渥美清に、昭和三十年代、私は熱い想いを寄せていた。戦時中に自分の家の庭のようにしていた浅草六区に、敗戦後はそれほど頻繁《ひんぱん》には通っておらず、行くとすれば、その目的の一つは、まだスリムだったころの渥美清を観るためだった。
私が子供のころから観ていた軽演劇やヴォードビルのジャンルで、三人のアイドルが居た。戦時中の有島一郎、戦後の三木のり平、渥美清、この三人である。
浅草時代の渥美さんは、今日の寅さんのゆったりした七五調の口跡とは別人のようで、スピードと毒があった。私の印象ではあまりドタバタせずに、口で速射砲のようにギャグを連発する。相手と取り交すセリフのほかに、捨てゼリフ、独語がたくさん混ざってくる。客が対応しきれないほど回転が速くて鋭い。ギャグで、出演者を切りつけ、客を切りつけてくる。不充足から発するらしき毒気があって、コメディアンというよりアドリブの独語芸人の感じだった。
その時分、同業コメディアンの中でも評判だったというから、客席にも注目する人がたくさん居ただろう。山田洋次さんがどこかで、寅さんは渥美清のアドリブで成立している部分が多い、と語っているが、その感じがわかる。
その少しあとで、日劇のアトラクションで、上昇中の若手コメディアンを関東四人、関西四人、計八人を選抜して競演させたことがあって、私は渥美清を応援する気持で観に出かけたことを覚えている。彼は独特のペースで怪演していて、すくなくとも私は充分に満足できた。
それからNHKのヴァラエティ番組�夢であいましょう�のレギュラー。このころに彼のおかしみも大きなふくらみを持ったようだ。今でも忘れられない傑作、電話を何度かけてもその家のおしゃまな子供が出てきてとりついでくれず、子供を懐柔しようとして四苦八苦する一人コント。あの多才な黒柳徹子《くろやなぎてつこ》が後年再演したが、彼女をもってしてもはるかにおよばない出来だった。もっともコントは男が演ずるものだが。
しかし、私も、彼が今日のような大きな存在になるとは少しも思わなかった。むしろマイナー中の光った存在になってくれ、と願っていたのだった。
以上、今日まで三十年余、他人でないような想いを持ち続けてきたが、それは私の一方的な心情で、彼と話らしい話を交したのは、どう考えても、二度しかない。
一度目は寅さんシリーズの七、八作目ぐらいのころ、藤原審爾《ふじわらしんじ》氏のお宅で。当時、藤原さんのお宅には有能な映画人が寄り集まっていた。一夜、十人ばかりのサロンで、私の斜め向かいに渥美さんが居《お》り方々で談論風発していたが、なんのきっかけだったか、私が、自分が幼いころから見る悪夢やお化けのことをしゃべりだした。ほとんどは、やくたいもないナンセンスで、私自身の内部でしか意味を持たないようなことだったが、渥美さんがじっと私の顔を見据《みす》えながら最後まで聴いてくれた。短く切りあげるつもりだったのに、彼の表情にひかされてかなり長いことその話題を続けた。
単純に、へんな人だなァ、という色があり、それから、どんなことでもチラと関心が湧いたら深くきいておこう、という色があり、自分も似たような経験をしゃべりたいなァ、という色もあり、それらにも増して印象的だったのは、私をみつめている眼色《めいろ》の優しさだった。
もう一度は昨年だったか、パルコ劇場の客席で出会い、そのときの芝居の演出をしていた福田陽一郎さんが彼の親友の一人で、三人でお茶を呑《の》んでしゃべり、その勢いで四谷の私の仕事場まで来てくれて座談の続きをした。彼は酒も煙草《たばこ》もやめているので、コーヒーだけだったが福田さんが居たせいもあって、めったに会わない間柄《あいだがら》としてはうちとけてくれたようだった。
ちょうど、寅さんが旅先で、旅廻《たびまわ》りの老役者や漁港の孤独な老人たちの中に混ざっているときに見せる、微笑を含んだ優しい眼に、やっぱりなっていた。
「戦争中の勤労動員先の工場でね、ほかの中学の子なんだけど下級生が、ぼくの班に入ってきましてね、これが役者の子なんだって。俺《おれ》も小さいころから浅草にしょっちゅう遊びにいってて、役者なんかに関心があるから、どこの役者だよ、映画かァ、なんて訊《き》いても、教えてくれないンですよ」
彼がしゃべりだして、私たちは黙って聴き手になっていた。
「映画じゃない、歌舞伎《かぶき》でも新派でもない、剣劇でもない、ドサ廻りでもない。じゃなんだよ、っていうと、浅草だって。じゃ俺知ってるな、何座だい——。シミ金の所だって。ところがある日、しょぼくれてやってきて、親父が死んじゃったってね。ホラ、三月十日の下町空襲」
「——ああ、中井弘」
「そう、中井弘」と彼もいった。「あの人、気が小さくてね。警防団の服着て消火にあたってるうちに、動転しちゃって、逃げなきゃいけないッていわれたとたんに、逆に火の中のほうに、何か叫びながら飛びこんでいっちゃったんだって」
「舞台じゃ小心に見えなかったけどな」
彼は戦争のころの記憶もたしかで、その夜、古い話をずいぶんした。私たちは丸一年ちがいだが、中学も動員先の工場も同地区で、中学生のころからどこかですれちがっていたらしい。
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