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なつかしい芸人たち27

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:エンタツ・アチャコエンタツ・アチャコの漫才というけれど、私は彼等の漫才をナマできいたことはない。私の子供のころは(昭和十
(单词翻译:双击或拖选)
エンタツ・アチャコ

エンタツ・アチャコの漫才というけれど、私は彼等の漫才をナマできいたことはない。私の子供のころは(昭和十年代)、二人はもうコンビを解消していて、べつべつに喜劇の小一座を組んでいた。漫才をやる場合は、エンタツ・エノスケ、アチャコ・今男だった。人気のある二人を一緒に出すより、ばらばらで二組にしたほうが二倍|儲《もう》かるという吉本興業側の考えだったのだろう。
彼等が本当にコンビで舞台に立っていたのは、昭和初年の何年間かにすぎないらしい。今日、LPの何枚組かにいれられて残っているエンタツ・アチャコのレコードは、この時分の彼等の芸にはちがいないが、あれは片面三分前後のSPレコードにいれたものを収録したもので、彼等の芸の骨子を缶詰《かんづめ》にしたものと思えばよろしい。
「エンタツ・アチャコ、レコードできいたけど、つまりませんな」
という声をよくきく。漫才の高座は短くて十分くらい、真打クラスだと十五分から二十分くらいが普通だから、片面三分、裏表でも六分余のレコードに一つのネタをいれるのは、本当のダイジェスト版で、花も実もないのである。SPレコードの落語をきいた方は、その味気のなさがおわかりであろう。
エンタツ・アチャコの漫才は、あんな干からびたものではなくって、もっとおもしろかった。おかしさが躍動していた。しかし、テープやヴィデオのない時代で、その芸が今はほとんど残っていない。
ナマで見ておらず、レコードできけず、すると私はどこできいていたのか。
その一はラジオである。当時はNHKだけで、ほんのときたまだったが、戦地に送る夕《ゆう》べとか、なにかの記念日とか、特殊な催しに二人の漫才がプログラムされることがある。
その二は映画だ。東宝と吉本が連携していて、一時、盆と正月くらいに二人が主演する映画が作られていた。映画の場合はコンビを復活させる。今、題名を記憶しているだけでも、�あきれた連中��僕は誰だ��忍術道中記��新婚お化け屋敷��人生は六十一から��明朗五人男��東京五人男�など、映画のストーリィはそれぞれ別箇にあるけれど、画面の中でなにかというと二人が出会う。たとえば廊下なり、街角なりがあって、そこで二人が出会い、やァ、おゥ、というわけで漫才めいたやりとりをする。そういう場面がやたらにあって、いっそこれならストーリィなんかなくしちゃって、漫才だけ映してくれればいいのに、と思うくらいだった。二人の漫才が耳についているのは映画のせいであろう。
当時、エノケンはガラで喜劇にしていたが裏返しの英雄劇であり、ロッパもレビュー風なのはいいが笑えない。金語楼は何本かの傑作をのぞいて子供の眼《め》にも拙速すぎたし、杉狂児は喜劇というより青春劇。結局、いちばん笑えたのはエンタツ・アチャコの漫才シーンだった。まァそれもひいき[#「ひいき」に傍点]眼といえばそれまでだが。
 大雨で雨宿りした長屋の軒先で、顔見合わせた行きずりの二人が仰天する。幼馴染《おさななじ》みが偶然ぶつかったのだ。
エ「久しぶりやなァ」
ア「ほんまやなァ、ずいぶん長いこと会わなんだが、何年ぶりかなァ」
エ「六百年ぶりくらいか」
ア「なに——?」
エ「六百年——」
ア「六百年ちゅうことがあるか」
エ「ちっとも変わっておらんなァ。この、(眼と鼻のあたりをさして)ここらあたり、小さいころのまんまや」
ア「ハハハ、そうかなァ」
エ「眼ェが左右にあって、鼻が下のほうを向いていて」
ア「ボクは昔から眼ェが左右には、こらッ、当たり前やがな」
昭和十四年製作の�新婚お化け屋敷�のプロローグだが、二人の映画はこういう漫才風な二人のやりとりで筋が運んでいくので、その間カメラは据《す》えっぱなしで動かない。批評家には監督が無能で映画的でないと罵《ののし》られるが、私のような彼等の実演をなかなか観《み》られない東京者にはそこがありがたい。
「昨日、尾張町《おわりちよう》で、馬が犬の仔《こ》ォを産んでね」
「馬が、犬の仔ォを、産んだ?」
「はァ」
「尾張町いうたら、銀座の四丁目や」
「四丁目です。あの十字路のね——」
「そゥら、珍しいなァ」
「はァ、ボクもはじめて見ました。もういっぱい弥次馬《やじうま》が集まってね」
「そらそうやろう」
「電車は停《と》まる、ね」
「ふんふん」
「バスは停まる。自転車は停まる。荷車は停まる。人は重なる」
「大勢集まったやろゥ」
「飛行機——は、これはね」
「飛行機がどうしたんや」
「飛行機は、これは上を飛んでいきましたがね」
「当たり前や、停まったら落ちるがな」
「えらい騒ぎやった」
「それで、どうしたン」
「なにが——?」
「いやね、馬が犬の仔を産んだんやろ」
「——どこで?」
「どこでって、今いうたやないか」
「——誰が?」
「誰がて、しっかりせい。銀座の尾張町で」
「はァん——?」
「はァん、て、馬が、犬の仔ォ産んだ」
「ちがうがな、馬が犬の仔ォを踏んだンや」
「あ、犬の仔ォを、踏んだンか」
そこで二人は呵々大笑《かかたいしよう》するのである。くだらんといえばくだらないが、映画の中での二人の状況は失業者で、アチャコは嫁さんの居候《いそうろう》亭主であり、エンタツはそのまた居候、明日の生活をどうしようかという身分なのだ。その中でこのカラカラの無責任さがいい。これほど屈託なしで居たいものだけれども、現実にはそうはいかない。そこを見事に(特にエンタツが)軽々と具現してくれる。映画とはかくも軽くあるべしという境地が、二人の初期の映画にはあったのである。
 金語楼の顔をクシャクシャにするギャグと、エンタツの尻振《しりふ》り芸は、当時の喜劇の低級さの代表のように、識者にはいわれた。しかし私は、エンタツの超無責任な軽さがなつかしい。アチャコはあくまで、軽さに対する世間の代表という存在だった。
だから戦後、二人の人気が逆転して、アチャコの演ずる新派風人情喜劇のほうをご覧になっているお方は、エンタツのシュアーなおかしさがおわかりになりにくいかと思う。
今、二人のナマの漫才の貴重なテープ(二十分ほどのもの)が手許《てもと》にある。立川談志に貰《もら》ったもので昭和二十四年にNHKにいれたものだ。戦前に比して戦後は人気を反映してアチャコの見せ場がやや増えているが、それでも今なお古びていない。
当時のプロ野球の話が出てきて、エンタツが別所投手を従弟《いとこ》だといいはっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ア「——それじゃ川上はどうや」
エ「川上、哲治《てつはる》ね。あれ、父親《てておや》の子ォです」
ア「ええ?」
エ「父親の子ォです」
ア「それやったら、君と兄弟やな」
エ「——いや、そう深い関係はありませんがね」
ア「いや、君、はっきりせんといかん」
エ「はァ」
ア「あのね」
エ「どうぞどうぞ」
ア「どうぞて君ね」
エ「ま、お坐《すわ》りなさい」
ア「お坐りなさいやあらへん。父親の子ォというたらね」
エ「ハイハイハイ」
ア「ハイハイてね、君と兄弟やないか」
エ「それがね、非常にいりくんだ家庭でしてね」
ア「ふうん、どう——」
エ「まァね、どういえばいいか」
ア「なに?」
エ「これがね、おかしいンですがね」
ア「どないおかしいンや」
エ「てっとり早く申しますと、父親の子ォといってもね」
ア「うん——」
エ「川上君の、父親の子ォなんで」
ア「あッたりまえやないか。もったいつけて。ほんなら君と赤の他人やないか」
エ「——あ、ひらたくいえば」
ア「ひらたくいわいでも、どういうたかて赤の他人やないか」
エ「ま、そういう関係やったン」
ア「どういう関係もあらへんわ、それやったら君」
[#ここで字下げ終わり]
筒井康隆《つついやすたか》氏の記述によると、台本(構成演出)はほとんどエンタツだという。
私も子供のころは、下士官のようにエンタツを叱《しか》りつけるアチャコが、思わずエンタツのペースに巻きこまれる落差のおかしみを買っていたが、時がたつにつれてエンタツの才気を上に見るようになった。
あの動き、あの飛躍ぶり、ときとしてシュールにすらなるナンセンスぶり。エンタツはチャップリンを意識していたようだが、あれは一種のハーポ・マルクスではあるまいか。改めて日本のコメディアンを見渡して、これくらい峻烈《しゆんれつ》なナンセンスに徹した人はほかに居ない。
コンビの全盛期はエンタツの三十代後半の五、六年間で、戦争の激化による空白期もあり、四十代後半からもう衰えはじめる。ツッコミのアチャコは長持ちするけれど、エンタツは短期間にギャグを燃焼しつくしたような恰好《かつこう》で、戦後、衰亡した。今にして思うと、この人のギャグはなんだか純度があり、天才的で、一気に奥へ到達してしまうようなところがあった。
エンタツのギャグは、湿っていない。その点では戦後の横山ノックに通じるものがあるかもしれない。乾いたギャグは漫画チックであり、即お子様向きということになる。けれども、ではほかの誰が、無責任というものをあれほど形象化できたか。戦後の植木等《うえきひとし》がジーン・ケリーだとすると、戦前のエンタツはフレッド・アステアにたとえるのは大仰すぎるか。
戦後のエンタツは形骸化《けいがいか》していた。ひとつには東宝=吉本が安手な(というのは陳腐なという意味だが)人情喜劇ばかり作り、エンタツの乾性を生かす企画がなかったせいかもしれない。コンビの処女作�あきれた連中�は、公園のベンチに並んで腰かけた保険外交員の二人が、言葉を交すうちに無二の親友のように思いこんでしまう。それからつるんで事件に巻きこまれたりした果てに、本当は見ず知らずの間柄《あいだがら》だったことを思いだして別れていく、こういう乾いたナンセンスを作る人が居なくなっていた。
年齢《とし》で動きが鈍ったこともあったろうが、晩年を通じて失意の人で、特に病床についてからは、昔の話をして涙するばかりだったという。絵画や文学とちがって、死後再評価されることのないジャンルだが、エンタツを再評価しようにも、彼の盛りのころのヴィデオが、市場にほとんど出ていないのである。
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