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なつかしい芸人たち34

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:エッチン タッチン前章で松竹系の少女歌劇に触れたので宝塚をやらないと片手落ちになるか。少女歌劇としてはこちらがご本家筋だ
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エッチン タッチン

前章で松竹系の少女歌劇に触れたので宝塚をやらないと片手落ちになるか。少女歌劇としてはこちらがご本家筋だ。第一回公演が大正三年だそうだから、むろん私など全部のスターを観《み》ているわけじゃない。まだたくさん居《お》られるはずの古老ファンにはおはずかしいが、戦前戦後、私が観ることができた範囲に記述をしぼっていく。
といっても子供の時分は大劇場の料金が高価で手が出ない。辛《かろ》うじて従姉《いとこ》たちのお供で折々に眺《なが》めた程度。それが葦原邦子《あしはらくにこ》と小夜福子《さよふくこ》の全盛期だった。だからこそ夢のように甘美に見えた。今、演目記録を見ると、�忘れな草�に感動したと長いこと思いこんでいたが、それは松竹のほうの演目で、宝塚のは�忘れじの歌�だったという始末だ。
しかし葦原、小夜、この二人によって少女歌劇の男役というものが本格的に形象化されたのではなかろうか。それまではどちらかというと美女の女役がスターの軸になっていて、観客も男の学生が多かったという。
お茶目な二枚目半の葦原、憂愁貴公子型の小夜、もっと端的にいうなら、ポッチャリ型とスリム型、非常に対照的でしかも人気は互角。戦前黄金時代の両輪だった。もし宝塚オールタイムのベストテンを作るとしたら、どちらを落としても片手落ちになるだろう。
それから戦前プリマドンナの草笛美子《くさぶえよしこ》が落とせない。実に堂々とした容姿と声量で、こういうプリマドンナらしいプリマドンナは、宝塚以外を見渡してもどこにも居ない。昭和十年代前半の�ブーケ・ダムール��パリ・ニューヨーク��花詩集�のころが絶頂期で、本当にこのころは宝塚は夢の絵葉書のような舞台だった。
これは私が幼かったせいばかりでなく、葦原、小夜、草笛、この三本柱のせいで、三人とも(退団後も活躍はしていたが)その真価は宝塚の舞台で発揮しつくしたといっていいだろう。当時は彼女たちを生かすようなほかの舞台がなかった。草笛美子など映画は戦時中に客演の形で二、三本(�エノケンの水滸伝《すいこでん》��唄《うた》う狸《たぬき》御殿�など)戦時下でもありまもなく引退してしまう。従って松竹勢の草笛光子のほうが有名で、まことに惜しい。
戦後はまず越路《こしじ》吹雪《ふぶき》だ。個性が強くてちょっとむずかしいタレントだったが、時代にも恵まれ、むしろ退団後大きく育った。あの唄い方は臭みとすれすれで、嫌《きら》う人は嫌う。私もどちらかといえば嫌いなほうだが、しかしあれがレビューの唄い方だ。現実と断絶させて、彼女の虚構の世界を作ってしまう。まず客を酔わせて、巻きこんで、彼女の癖の強い世界におびき寄せてしまう。もし醒《さ》めている客がいて、キザ! と一言吐き捨てたら、もろくもこわれてしまうような世界。そこを魔術のように酔わせて歌いとおしてしまう力は大きい。案外短命だったせいか、今でも彼女のレコードが流れると、嫌いだったはずの私もなつかしい。
同時期だが�百万|弗《ドル》の笑くぼ�といわれた乙羽信子《おとわのぶこ》、淡島千景《あわしまちかげ》、久慈《くじ》あさみ、この辺が戦後黄金期。そのあとが越路の小型版みたいな明石照子、淀《よど》かおる、寿美花代《すみはなよ》。戦前の葦原邦子を近代的にしたような那智《なち》わたる、大型の鳳蘭《おおとりらん》。
 オールタイムというとまだ多士|済々《せいせい》で、華麗な戦前の娘役たち、品格があった桜緋紗子《さくらひさこ》、二条宮子、可憐《かれん》な久美京子、難波章子、コミックな大空ひろみ、唄のコンビの三浦時子、橘薫《たちばなかおる》。戦時下の名花糸井しだれ、桜町公子、楠《くすのき》かほる、活躍期間の長かった春日野八千代《かすがのやちよ》、神代錦《かみよにしき》、日舞の大看板|天津乙女《あまつおとめ》、戦後の娘役|八千草薫《やちぐさかおる》、新珠三千代《あらたまみちよ》ときりがない。
非常に荒っぽいが、葦原、小夜、草笛、越路、久慈、乙羽、那智、それにエッチン(三浦)タッチン(橘)のコンビ、もう一人は空爆死した慰霊も兼ねて糸井しだれ、これが私のベストテンになる。
 ある方からお借りした�宝塚大全集�という十五枚組のレコードをひとわたり聴いてみた。レコードだからむろん唄が主で、踊りのほうはのぞけない。
その結果、改めて感じた二つのことがある。
その一は、レビュー作者の白井鉄造氏が、思っていたよりずっと大きな存在だったことだ。昭和初年にパリから帰った彼が作演出に手を染めると、それまでの揺籠《ゆりかご》レビューが急に精彩を発揮する。単にパリのレビューのセンスを移行させただけでなくて、非現実の世界をそこに創《つく》ってしまうのだ。それはレコードを聴いただけでわかる。
当時のモボ、モガ的風俗、あるいはパリへのあこがれ、これらは映画の影響が主だと思っていたが、実は宝塚が仕掛人だったのかもしれない、とまで思わせる。もちろんまったくの非現実だが、そこに精気を吹きこんだからこそ、歯の浮くようなセリフに魅力を感じたのだし、その基調は六十年後の宝塚にも一貫して守られている。葦原、小夜、草笛に代表される宝塚レビューを創作したのは白井鉄造だといってもいいのだろう。たとえ女子供の見世物でも、これだけの大きい空間を創りあげる才分は並々のものでない。
もうひとつ、今日、レコードで聴いても古さを感じないのが、エッチンタッチンの歌唱力だ。昭和三年上演の�パリゼット�の中で歌われた二人のかけ合いソング�ディガ・ディガ・ドゥ�を聴くと、そのジャジィな唄いぶりに一驚する。昭和三年というと、二村定一の�私の青空�などが出る前で、日本はまだジャズ歌手など居なかったころだ。
宝塚には連綿としてオペレッタ風の発声法が伝承されており、越路吹雪とて例外ではないが、あれはひょっとすると、素人《しろうと》をとりあえず歌手にしたてるには、あの発声と唄い廻《まわ》しがいちばん短期間に恰好《かつこう》になるのでもあろうか。昔も今もおおむね高調子で声を震わせる。
ところがエッチンとタッチンはまるでその伝統と無縁で、少女の域を越えている。白井鉄造の誘導だろうか。
�ディガ・ディガ・ドゥ�で二人は一躍売り出して、以後どのレビューでも二人のかけ合い風な唄が見せ場のひとつになった。エッチンの三浦時子がややシャウトして歌うタイプ、タッチンの橘薫のほうが小味《こあじ》に歌うタイプだが、二人とも(おそらく)ジャズソングをはじめて歌った日本人としてはリズムセンスが実によい。
ちょっとこの宝塚大全集という組レコをお聴きになってみてください。
ところで私は、エッチンの三浦時子は宝塚でチラリチラリとしか聴いていないのだが、タッチンの橘薫のほうは宝塚退団後も東宝系のステージで活躍していたからよく聴いている。
退団はタッチンのほうが早かったと思う。エッチンは太平洋戦争の始まるころまで宝塚に在籍していたが、引退して家庭にでも入ったのか、その後の消息を私は知らない。
それでエッチンタッチンのころを、中学生のころの私はそれほど知っていたわけではないが、独立してソロ歌手になった橘薫の唄が私は好きだった。
東宝系のアトラクションでは、田中福夫楽団が伴奏バンド。しかし日劇あたりのステージショーにも出るし、東宝映画にもオバさん役でときに出たりする。
そのころは敵性音楽のジャズは駄目《だめ》で、もっぱらシャンソン。それが洗練度が濃くてとてもいい。いったいに私は攻めこむ一方の芸を好まなくて、引いて技をみせる小味な芸が好きだ。黒いドレスに花を一輪飾って静かに歌うのだけれど、アップテンポの曲になったときの身のこなしが実にいい。
レビュー通の瀬川昌久氏も書いておられるが、昭和十五、十六年という大戦争直前の軽音楽界は、スイングジャズの影響や、シュヴァリエ、ダミア、ミスタンゲットなどフランスレビューの影響を受けて、かなり程度が高かった。
その中で宝塚出身の橘薫、松竹出身の笠置シヅ子、この二人が静と動と対照的ではあるが二名花だった。淡谷のり子も居たけれど、私は橘薫のほうが数倍好きだった。
敗戦後復活した日劇のショーで、第一回の�ファインロマンス�に、灰田勝彦、高峰秀子、岸井明に混じって橘薫も出ている。たしかこの直後だったか、笠置の後輩の京マチ子がOSK(大阪松竹歌劇団)から上京して、ターキーブギなど踊り、肉感的で評判になり、まもなく大映に引き抜かれたのだと思う。
それにくらべると橘薫は地味な存在だったが、日劇の大きなショーにはいつも出ていて、大人向きの歌手という定評を裏切らなかった。
ところが敗戦後数年して、もっと大きな活躍を期待していたのに、病気で亡《な》くなってしまう。癌《がん》だったのだそうで、たしか日劇の宣伝マンにあのころきいたのだと思うが、げっそり痩《や》せて痛苦にもだえる彼女を見るに耐えかねたという。
そういえば彼女はコミックな唄を歌うわりに、もともとあまり明るくなかった。橘薫という名の字面《じづら》もなにか地味で、またそれが好ましくもあったのだが。
しかし、とにかくレコードが残っているから歌手は幸せだ。何十年たっても現役の声を聴くことができる。
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