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なつかしい芸人たち35

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:有島一郎への思い入れ石原裕次郎《いしはらゆうじろう》が亡《な》くなった日、もう一人有島一郎も亡くなった。ある新聞では三段
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有島一郎への思い入れ

石原裕次郎《いしはらゆうじろう》が亡《な》くなった日、もう一人有島一郎も亡くなった。ある新聞では三段抜きで一面に出たりしていて、けっして小さい扱いではなかったが、裕次郎の死の大きさに圧倒されて、訃報《ふほう》でもやっぱり脇役《わきやく》という感じだった。
けれども私としては、裕次郎は私の映画年齢以後の出現で、子供のときから舞台で親しんでいた有島一郎の死のほうが思い入れが大きい。それどころか悼《いた》みてもあまりある。
有島一郎はすごく早熟で、二十歳そこそこで新宿ムーランルージュの舞台で、小崎政房作�級長�に主演して、まわりのヴェテランたちを顔色なからしめた。私はこの舞台を観《み》ていないけれど、私より年上のムーランファンは、あの役者は天才だ、といっていた。昭和十五年(彼が二十四歳のときだ)新興演芸に引き抜かれて関西で自分の一座を持つが、その前に危うく間に合って(私は小学校五年生くらいだったが)ムーランの有島をしっかり観ている。この時分の印象では、若い役だと朗々とした声で怒鳴るようにセリフをいい、老《ふ》け役になると別人のようにかすれた老人の声を出す不思議な役者で、そうしておおむね老け役がよかった。
「アリちゃんは変な薬を持っててね、老けのときは化粧前で小瓶《こびん》からチョチョッと呑《の》むのよ。そうすッとあの声になっちゃうの」
知ったかぶりのファンがそういっていたことがある。
当時、軽演劇のことなど新聞記事にはならなかったが、新興演芸の引抜き旋風はたびたび記事になったくらい、てんやわんやの騒ぎだった。
�松竹五十年史�に当時の新興演芸の各劇場の十日替り番組がくわしく記録してあるが、小劇団のアチャラカ劇、ボーイズ、漫才、剣戟《けんげき》、歌謡曲に浪曲に魔術と実に安手で雑然とした座組で、眺《なが》めているだけで当時の雰囲気《ふんいき》が蘇《よみがえ》る。現今の吉本式ごった煮番組で、ムーラン風の小市民劇などやれるわけはない。一説によると有島一郎は、同じ傘下《さんか》の森川信に対抗してこの時期アチャラカに徹したという。当時のコメディアンたちは、チャップリンやキートンの影響で、体技ともいうべき身体の動きのギャグを持っていた。森川信やその相棒の岸田一夫は、早くからそれをもうひとつ流線型にして、ディズニーの漫画的動きをこなしていたから、多分、有島も彼流の体技を身につけたのであろう。
太平洋戦争の翌年、有島は久しぶりに東京に戻ってきて私の視野の中に現れた。東劇、銀座全線座、とゲスト出演があって、水の江瀧子の劇団たんぽぽにゲストで出る(劇団のマネジャー兼松廉吉の厚遇に応《こた》えて終戦後まで腰をおちつける)。私も中学生になって、日曜日、親の許しをえて丸の内邦楽座に観に出かけた。しかし当時、それほど馴染《なじ》んでいたわけでもない有島一郎を、何故《なぜ》そんなに意識していたのだろうか。
今思うに、劣等感と下降意識をきっかけにして、年少のうちから軽演劇に馴染んでいた私だが、やっぱりこのジャンルから独特の成功者が出て貰《もら》いたかった。当時では有島一郎と、浅草の堺駿二《さかいしゆんじ》が若手秀才で、この二人の成長出世に感情移入していたのだと思う。
そうして二人が、銀座全線座に続いて劇団たんぽぽでも一緒だった。彼等を起用した兼松マネジャーの眼力もなかなかだったと思う(田崎潤、山本礼三郎、菅富士男、左卜全、沢村い紀雄等、彼の男優集めは独特だった)。堺駿二もアクを抑えてこの劇団のアンサンブルにとけこんでいたが、有島も、枯淡の老け役を演じ三十歳前とはとても思えない。それでレビュー風の出し物になると、痩身《そうしん》を利した奇妙な体技を発揮してほどのよいナンセンスな舞台を造る。これがいいので、私としては、成長出世といっても、建前じみた大劇場の名優になどなってほしくない。あくまでもナンセンスを基調にしたこのジャンル内で出世してほしい。
 堺駿二は横須賀海兵団にとられてしまったが、戦時中の浅草には、清水金一《シミキン》、森川信《モツチヤン》、有島一郎《アリチヤン》という三様の秀逸なタレントが居《お》り、皆若くて充実していた。明るいパーソナリティの清水、才人という感じの森川に比して、人気はいちばん地味だったが、有島がもっともモダンでシュアーだったと思う。特に乗ったときに凄《すご》く、あの戦時中に前衛的ですらあった。敗戦前の新宿第一劇場で演《や》った�朝やけ部落�(松竹五十年史のおかげで演題がわかる)のクズ屋のナンセンスな動きなどは、ディズニー漫画の�シリーシンフォニー�を想起させたほどだ。
有島はルックスもインテリ二枚目タイプで、女性ファンも多かった。ところが楽屋では皆、彼を遠巻きにしていて近寄らない。気むずかしいのだという。後年も含めていえば、気むずかしいというより、孤立癖があったのだろうと思う。
中学を出たくらいでこの世界に飛びこみ、出世が早かった分、妬《ねた》みや苛《いじ》めにあったろうし、百鬼夜行の芸人世界を切り抜けているうちに、誰にも心を開かなくなるのは当然かもしれない。顔つきだけでなく、どこで身につけたか、資質というよりほかないが彼の芸には耳学問でないインテリジェンスがあった(つまり彼の演じるナンセンスが冷たく鋭角的だったということだ)。私は、もし接近した年齢だったら彼の内懐《うちぶところ》に飛びこんで、私が空想していたモダンなコメディアンの方向に誘導してみたい気がしたし、その自信も当時からあったが、もちろん相手にされまいし、それが彼の望みの方向だったかどうかも疑わしい。なにしろなにともつかぬ不機嫌《ふきげん》な気配が楽屋での彼にあって私はとうとう後年に至るまで一言も言葉を交したことがない。
が、たしかに浅草での彼は、もうひとつ客席と一体化できず、なにかの拍子に気が乗ると凄いが、多くはアンサンブル芸で、必要以上に自分を沈めていた。悩むというほどでないが、どこか不充足が内向していた。演出家のいい分をきかず役者との衝突など日常茶飯、それも大仰に発散せず、無口で頑固《がんこ》になるくらいで周囲が理解しえない。彼自身もその不充足を具体的に説明できなかったのかもしれないが、後年に至っても、友人がすくなかったのではないか。
その反対に、ムーランの踊り子だった堺真澄夫人とは円満夫婦で、軽演劇役者にはまことに珍しく末を完《まつと》うした。けれどもそれは閉じこもりがちで、四方に伸び拡《ひろ》がらない性分の証拠ともいえる。
戦争末期、東京が焼野原になったころ、もう芝居見物どころでなく、なにをやろうが来る者は来るし、来ない者は来ないという具合で、軽演劇も同じ演目で焼け残りの周辺都市を廻《まわ》っていた。
今でも忘れないが�もんぺお嬢さん�というファルスを、有島がもう名利を捨てた遊び心で、アドリブとアクションギャグで、同じ台本なのに毎日ちがう芝居にしてしまうそのおかしさに、ゲートル姿で周辺都市まで日参したことがある。あのギャグのスピードと凄みに比肩できるのは、後年の三木のり平と渥美清くらいしか思い浮かばない。
当時いろいろな事情で逼塞《ひつそく》中学生だった私としては、大仰でなく、有島一郎の存在が生きる希望の一つになっていた。
戦後、二十年代から三十年代にかけて、軽演劇がストリップに追われて潰滅《かいめつ》したころ私は別方向の遊びに淫《いん》していて、劇場街に足を向けなかったが、有島一郎の動向は関心を持って見守っていた。彼の名前はさすがに消えることはなかったが、提唱者のくせに脱退も早かった空気座の時分、国際劇場の歌謡ショー司会者のころ、トリローグループのころ、彼の苦闘の時代だ、広告の名前が、なぜかしばしば、有馬[#「馬」に傍点]一郎となっているのを私も口惜《くや》しく眺めていたが、あれは誤植か、それとも変名にしようという彼の発意か。
その間、森繁久弥の急上昇がある。森繁は戦後の役者の如《ごと》くだがスタートは有島とほぼ同じころだ。才気の横溢《おういつ》した役者だったが、メジャーになるにつれ、建前の顔が濃くなって、ナンセンスの領域からはずれていった。
そのころ、池袋の横道で淋《さび》しい顔をした有島を見かけたことがある。くたびれた皮ジャン姿で、それは一種のダンディズムにも見えるのだが、表情がうつろだった。軽演劇役者の多くがそうだったように、彼もまたヒロポンを打っているのかな、と思ったほどだ。
有島一郎の出世は、その初期と大ちがいに牛歩のごとくおそかった。映画で、舞台で、じりじりと追上げ、やがて誤植などあるはずもない存在になったが、中年|乃至《ないし》初老の気弱な男の哀歓を滲《にじ》ませるのが持役で、要するに彼が二十代から手の内にいれてきたような役ばかりだった。ただ調和がうまいから、どんな映画でも平均点以上のものは叩《たた》き出す。もちろんそれでメジャーの一角を占めたのだから少しもわるいことはないのだが、肝心の(と私が考える)ナンセンス芸のほうは、�雲の上団五郎一座�などときたまの舞台で片鱗《へんりん》を見せるにとどまった。本当に、のり平や八波むと志と競ったパロディコントも、彼の潜在的力量からすると片鱗でしかなかった。
そのうえ、森繁を追って建前的良識タレントを志向した気配があり、私を失望させた。どう見ても森繁の持つインチキ政治力や包容力で劣る。有島一郎は結局最後まで、完成した演技力を示しながら、一方で未完成の芸人でもあったようだ。
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