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なつかしい芸人たち36

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:唄《うた》のエノケン※[#歌記号、unicode303d]空を飛び 地にもぐり水をくぐれるのォは自慢じゃ ないけれどこの俺《おれ》
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唄《うた》のエノケン

※[#歌記号、unicode303d]空を飛び 地にもぐり
水をくぐれるのォは
自慢じゃ ないけれど
この俺《おれ》だけだァ
  どんな敵でも 俺等《おいら》三人
力合わせりゃ なんでもない
  俺たちゃ 世界中で
一番強いんだぞゥ
 というのは昭和十五年製作の�エノケンの孫悟空《そんごくう》�の主題歌で、今でも歌詞まで空《そら》でいえる。ツマらんことを五十年も憶《おぼ》えていて、大事なことは忘れているようだが、五十年もたつとツマらんことも大事なことも差がつきがたくなっている。
 ※[#歌記号、unicode303d]俺こそ 色男だ
リリオムさまだ
女の お相手なら 一番得意
どんなすねた方でも
おいらが行くなら ほがらかになる
俺こそ 色男だ
リリオムさまだァ
 これもエノケンの唄で、舞台のほうの�エノケンのリリオム�の主題歌。なにしろエノケンの唄は、当時の七五調歌謡曲とちがって、ちょっとバタ臭くて、しかも憶えやすい。こういう唄は、当時、漫唱といわれて、専門家からは邪道のようにあつかわれていた。けれども唄に関する限り、エノケンは進んでいたし、うまかった。昭和のはじめにジャズのフィーリングを自分のものにしたのはこの人だけだった。
�孫悟空�がおもしろかったので、その後の�水滸伝《すいこでん》�を期待した。これも賑《にぎ》やかな顔ぶれで、李香蘭《りこうらん》(山口|淑子《よしこ》)や高峰秀子、草笛光子なども出ていた。あんなに封切が待ち遠しかったことはない。それで木曜日(当時の封切日)の早朝に、学校をサボって観《み》に行った。早朝割引でないと都合がわるかったから。
観たら、おそろしくつまらなかった。�孫悟空�はレビュー映画だったが�水滸伝�は下手糞《へたくそ》な喜劇だった。まアそれにしても、映画も芝居も、いつだって期待が充分に満たされることはない。それで去りぎわというか、別れぎわに、これでおしまいと思うと、なんだか味わい深くなる。
近ごろの若い人がエノケン映画を観て、そのギャグの古さに呆《あき》れかえったりするが、コメディアンとしてはメジャーになったこの時点で、すでにギャグが枯渇《こかつ》していた。だからエノケンは私にとってレビューの人だった。本人も、エディ・キャンターを目指していた時期がある。エディ・キャンターはジーグフェルドフォーリーズで育ったレビュースターで、ギョロ眼《め》で精力的な小男、彼の映画はいつも美女に囲まれ、唄や踊りで装われていた。結局これは、コンビだった二村定一の離反、オペレッタ作者菊谷栄の戦死、戦時体制、この三つの理由で挫折《ざせつ》する。
もっともメジャーになる条件として、ロイド喜劇ふうの弱者英雄|譚《たん》に徹していくわけだが。
エノケンたちの喜劇が新鮮だったのは多分、昭和初年のカジノフォーリー時代だったろう。
「どこへ行くの?」
「うん、ちょっとそこまでね」
というやりとりがよく例にされるが、セリフだけでなく、諸事、簡略化してスピーディな運びにし、それまでの思い入れたっぷり、建前の多いスローモーな旧劇を駆逐した。そこまでで、それ以上のギャグが作れずに年齢《とし》を喰《く》って動きがわるくなる。
�法界坊�や�どんぐり頓兵衛《とんべえ》�のような歌舞伎《かぶき》ダネは例外で、普通はそこまでエノケンを非情に使えない。
映画第一回作品の�青春|酔虎伝《すいこでん》�が、それまでのエノケン一座ふうオペレッタの感じを伝えている。結局、映画では山本|嘉次郎《かじろう》だけで、あとの監督は音楽を使いこなせなかった。
 それにしても、昭和十年前後のエノケンの月給が千円。千円というと郊外なら家が一軒買えたという。今でいうと億近い。それだけの金をどこに使っちゃったのか、ほとんど溜《た》まってない。といって贅沢三昧《ぜいたくざんまい》というほどでもない。
せいぜい運転手つきの外国車くらい。当時の座員にきいても、酒は強かったそうだが、まずビアホールに行き、生ビールで下地を作って(安サラリーマンのように)カフェーあたりを一軒、それに寿司《すし》屋あたり。座員を何人連れてったとして大盤振舞いをしたってたかが知れてる。映画スターとちがって待合に居続けしたりするわけでもないらしい。もっぱら内弁慶で、酔うと眼がすわってからむ。
神戸のピス健というやくざから貰《もら》ったというピストルを大事に持っていて、いまにも打ちそうにしたり。自分の家に座員を連れていって、
「さア、斬《き》る——!」
日本刀を抜いて暴れたり。
「よウし、斬ってくれ——!」
といって中村是好は居直ったら、本当に横になぎはらって、それが柱に当たって難をまぬかれたという。
当時、やはり浅草の笑の王国で、八百円くらいとっていた古川ロッパは、小心なあまり銀行を信用できず、いつも現金で持ち歩き、楽屋に誰も居なくなると、札を数えてばかりいたという。だから座員の|前借り《バンス》がなにより嫌《きら》い。そういうところはエノケンは、わりに気前がよかったらしい。だから古い座員が離れない。それがまたマンネリズムにも影響してくるのだが。
昭和十一年ごろ、一流のジャズメンを集めて作ったエノケンジャズバンドは、水準の高い音を出していたが、すべて、エノケンの手銭で抱えていた。全員の給料となると、これは大きい。今でも古いジャズメンで、エノケンのことを、おやじ、といっている人が居る。
あるとき、舞台でセリフをいいながら一発、屁《へ》をこいた役者が居た。早速、楽屋に貼紙《はりがみ》を出して、「仕事中の放屁《ほうひ》、一発につき十円罰金」。
すると屁をしたからといって前借りに来る者が続出。おまけに罰金箱からその金がいつのまにかなくなってしまう。あまつさえ、エノケンが罰金を出す破目になって、貼紙に書き足した。
「俺《おれ》の罰金を呑《の》んだ奴《やつ》は、クビ」
大森に大きな家を、威勢よく買ったがその当座、現金がなくて豆腐のおからばかり喰《く》ってたという説がある。
売れてくると役者はまず溜めるが、エノケンはそうでなかったらしい。戦後、シミキンが落ち目になったとき、
「あいつは駄目《だめ》だ。若いモンをかわいがらなかったから」
といったそうだが、シミキンだってけっこう座員を引き具して呑みに連れてってた。ただ、彼のやり方は少しちがう。座員の呑む酒より、自分は一級上の酒でないとおさまらない。
おでん屋に行っても、
「さア、遠慮なくやってくれ。お前、なにがいい? 大根と半ペンか、よウし、注文しな」
それからシミキンが、
「俺もな、同じ奴を頼むよ。大根と半ペンだ。それから卵」
座員が、
「座長、あたしも卵、いいですか」
「よし——」
といってから、シミキンがしばらく考えて、
「じゃ、俺のに里芋を足してくれ」
どうしても座員より自分の皿が一つ多くないと気がすまない。自分が座長だから、というのだが、これでは奢《おご》りが実にならない。
もっとも、ケチケチして溜めても、結果的には同じで、敗戦のインフレで貨幣価値の変動があったから、貯金などなんにもならなかった。なまじっか、一時高給をとっていただけに、銭がないといっても同情されない。
しかし、エノケンもロッパもシミキンも、全盛時に、高給なんて問題じゃないほど興行者の懐《ふところ》をうるおしているのだ。
エノケン一座などは、松竹専属というより、松竹の大谷《おおたに》社長直属の劇団だった。儲《もう》かるにきまっている劇団は、大谷社長個人の帳簿になっていて、赤字になれば(なるはずがない)、社長個人が埋める代わりに、黒字はそっくり大谷家に直通してしまう。エノケンの給料が千円、一座に対する座払いが総額で約千円、それで、利潤が一日当たり万を超えたという。
 ※[#歌記号、unicode303d]つれなき恋 月の熱海に影二つ
ネエお宮さん お前は金に目が眩《くら》み
待って頂戴《ちようだい》 これにはいろいろ訳がある
訳は聞かぬ よくも僕をば裏切ったな
貴方《あなた》そりゃ あんまりなお言葉よ
来年の今夜のこの月を
僕の涙でく、く、くもらせる
金色夜叉《こんじきやしや》のはかなきラブシーン
 これは�ラブ双紙�でエノケンと二村定一が、半身男、半身女の衣裳《いしよう》で掛合いで歌う。いかにも昭和の初期らしい曲だが、私はまだ赤ン坊で、その舞台を見ているわけでもない。
どこでどうして憶えたのか、今でも鼻唄で歌っていることがある。軽薄|懦弱《だじやく》の極みだが、完全にフィクショナルなピエロの世界で、ハンパな建前の唄よりずっとよろしい。
これらの唄の中で私のエノケンはいつまでも生き続けている。
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