私の学生時代に、暑中休暇になると、よく、東海道線の弁天島へ行った。
母の郷里が、愛知県の豊橋で、そこの親類に当る人が、弁天島に別荘を持ってたからである。その時分の弁天島は、今のような洋風建築は一つもなく、閑静なものだったが、その別荘も、所有者の大叔父と、親類の男の学生ばかりで、飯炊き婆さんが、一人いるだけだった。
私たちは、水泳と釣魚で、日を暮らしたが、あの附近は、魚類が豊富で、釣りを知らぬ私にも、コチやヒラメが、よく掛った。ある日、そういう漁果を沢山持ち帰ると、大叔父は、
「今日は一つ、アライにして見るか」
と、息子の旧制高校生に、声をかけた。
私は、アライなんてものは、魚屋でなければ、製法を知らぬだろうと、思ったのに、彼等二人は、直ちに相談一決、井戸端へ行って、包丁を手にし始めた。
材料は、コチに黒鯛だったかと思うが、彼等は実に器用に、身をおろし、皮を剥ぎ、そして、刺身包丁で、そぎ身をつくった。
それだけの技倆でも、私には、驚嘆すべきことで、ことに、私より二つ年長の高校生が、父を凌ぐ腕前には、感嘆の外はなかった。東京の男の子は、そういうことには、まったく無能力だからである。
やがて、彼等は、大きなバケツへ、井戸水を汲み入れた。弁天島というところは、砂地に似合わず、水質がいいのだが、その頃は、冷蔵庫もなく、ものを冷やすのには、すべて井戸水を用いた。
そして、彼等は、長い竹箸で魚のソギ身を挿み、バケツの中の冷水で洗うような動作をすると、透明な身が、白く、チリチリと、縮れてきて、紛れもないアライになるのには、魔術を見せられた、気持だった。
その日の夕飯に、山盛りのアライと、魚のアラの味噌汁が出たが、非常にウマかった。生涯で食べたアライのうちで、あの時が一番ウマかったかも知れない。もっとも、腹もだいぶ空いてた。
とはいっても、私は、特にアライが好物、というわけではない。夏になって、最初のアライが、一番おいしいことを、考えると、味よりも、気分で食べるのだろう。魚屋は、氷片なぞを添え、見た眼の涼しさを、工夫するからだろう。ナマで食う魚の味としては、刺身の方が、優れてるようだが、それは、アライにならぬ魚にも、広汎に及んでるからだろう。
しかし、アライという料理法は、日本独特のものではないか。洋食でも、中国料理でも、アライという観念は、成立しないのではないか。日本でも、栄養学者のような人は、魚片をあんなに水で洗うことに、不賛成を唱えるかも知れない。でも、そんなことは、どうでもいいので、日本の風土のもとで、涼しげな、魚の生食法としたら、よいアイデアだと、考えられる。
スズキや黒鯛は、アライに好適だが、共に、夏の魚だからだろう。スズキは、海でも、大河でも獲れるが、利根川の下流のような、幅広い、水の豊かな河が、所を得てるような気がする。戦時中に、ある本屋の主人が、千葉県の小見川に住んでいて、度々、そこに招かれ、物資不足の折柄なのに、川の魚を沢山食べさせられ、うれしかった。その主人の家の庭から、青蘆を分けて、小舟を出すと、すぐ、茫洋たる利根の本流に出たが、その辺で、スズキがよく釣れるらしい。
スズキは、私の好む魚の一つで、アライばかりでなく、塩焼きにしても、ウシオにしても、結構である。また、ムニエールのようなものにしても、よく合う。外国人は、鯛よりも、スズキの風味を、喜ぶのではないか。
初夏の頃、小見川へ行って、食わされたものは、スズキの外に、鯉が多かった。鯉のシュンは、寒中かも知れないが、魚の感じからといって、夏でもいいような気がする。しかし、私は、鯉のアライというものを、それほど好きではない。柴又あたりの料亭へ行くと、鯉の生づくりというのを、自慢そうに出すが、魚が刺身にされても、まだ、ピクピク動いているようなものを、好んで食べる必要が、どこにあるのか。鮨屋へ行っても、オドリと称して、エビの身の動くのを、客は、大変、価値あるもののように、思ってる。昔の鮨屋は、あんなことをしなかったが、その方が、本筋だろう。
私は、鯉コクが好きで、よい鯉とよい味噌で、丁寧に料理されたそれは、天下の美味だと、思うことがある。まだ、学生時代に、信州を旅行したことがあるが、その頃の信州は、海の魚が不自由だったらしく、どの旅館に泊っても、料理はハンコで捺したように、鯉のアライ、鯉コク、そして、卵焼だった。その頃は、鯉の味なんてわからなかったから、ずいぶん困った。中年過ぎから、鯉コクが好きになり、今では、鯉の飴煮というような、甘ったるいものさえ、あれはあれで、味のあるものと、思うようになった。
私は、一体、川魚が好きな方かも、知れない。鮒は、それほど味を知らないが、アマゴとか、ヒガイとかいうものを、京都へ行って食べることは、大きな愉しみである。戦前に、秋の宇治へ行って、料亭で出されたヒガイのつけ焼きの味は、今でも、舌頭に生きてる。スッポンも、川魚のうちだろうが、これは何といっても、京都の大市が、卓越してる。あの店以上にウマいスッポンを食わせる店を、私は他に知らない。古いノレンを、よく守り続けたものである。しかし、これだけ世の中が変ってくると、守り続けるということは、大変、難事だろうと、推測される。料理法を堅く守っても、材料が変ってくれば、どうにもならない。実は、昨年、大市がマズくなったという人が、二、三、出てきた。私は悲しくなり、名城が焼けたように思ったが、マズくなったといった一人が、最近、また大市へ行って、
「大丈夫だ。やっぱり、ウマかった」
と、報告してくれたので、胸を撫で下した。
スッポンも夏のものと思ったが、いつか、大市のオヤジに聞いたところでは、そうではなかった。いつがシュンだか、忘れてしまったが、とにかく、夏ではなかった。
しかし、ドジョウというものがある。これも、夏がシュンとは、限らないようだが、私は盛夏になると、�駒形のどぜう�を食べに行かずに、いられなくなる。不思議なほど、牽引力を感じる。あの店も、青年時代からの馴染みだが、烈火の上に載せて鍋にしろ、ドジョウ汁にしろ、暑い時の食べ物とは思えないのに、汗を流しながら食べ、そして、大変ウマいと思う。
下煮をした、姿のままのドジョウを、鉄鍋でネギの薬味と共に、煮て食うだけで、何のヘンテツもない料理だが、なぜ、あのようにウマいのだろう。きっと、私がドジョウ好きなのだろうが、あの店へ行くと、一層ドジョウが好きになるのは、何かの前提があるのだろう。ドジョウなぞというものは、あの店構えと、ムードのもとに、食べるものなのだろう。スキヤ風の離れ座敷で、一人で、あの鍋に対ったところで、味は半減するのではないか。食べ物は、何でも、京都がウマいが、以前、川魚の専門店へ連れて行かれ、品のいい柳川鍋やドジョウ汁を、食べさせられたが、一向、ウマいとは思わなかった。
私も、子供の時は、ドジョウが嫌いで、飲酒を始めてから、その味を知ったのだが、その頃の�駒形のどぜう�は、実に安い店だった。五十銭銀貨一つ握って行くと、酒も、鍋も、汁も、飯も食えた。
しかし、昨今は、ドジョウも、贅沢品に近くなってきた。同量のウナギと、卸し値は、大差なくなったそうである。それでも品薄で、滅多に、うちの魚屋なぞ、持って来ない。
農薬のために、田圃に自生するドジョウが、激減したからというが、日本の食べ物に、しばしば、このような不幸な変動の起ることを、私は悲しく思う。
ドジョウなぞは、その形や、味からいって、当然、庶民の食べ物であり、事実、長い間�駒形どぜう�も、そういう人たちを、喜ばせてきた。あの店も、材料難から、高級料理店に出世したら、存在の価値を失うと、考えるが、東京湾のカニなぞは、すでに、稀少品となって、私たちの口に入らなくなった。カニなぞも、明治期には、貴人の食物ではなく、居酒屋のサカナだった。私は、明治から大正にかけ、大森に住んでたが、その頃、大井の立会川に、夏の夕方に、カニ舟が着いた。ほんとは、赤貝船で、カニは余禄なのだが、その舟へ買いに行くと、タダのように安かった。五銭か十銭を、風呂敷に包んで、舟の上に投げると、十疋ぐらいのカニを、渡してくれた。そのカニを、直ちに茹でて食べると、あれほどウマいものは、世に少かった。
カニでも、ドジョウでも、下賤の食物として庶民しか食べず、彼等のみが、そのウマさを知ってた。カニを煮た汁で、おカラを煎るなんてことは、横浜の石川あたりの細民の知恵だが、それは、非常にウマいものだった。江戸から明治にかけて、そういう社会的な公平な、美味の分配があったのを、私は面白いことに思う。金のある人だけが、ウマいものを占領する世の中は、面白くも、おかしくもない。安くて、ウマいものを、庶民のために残すことは、ほんとに革命を怖れる人の切に考えるべき問題である。
母の郷里が、愛知県の豊橋で、そこの親類に当る人が、弁天島に別荘を持ってたからである。その時分の弁天島は、今のような洋風建築は一つもなく、閑静なものだったが、その別荘も、所有者の大叔父と、親類の男の学生ばかりで、飯炊き婆さんが、一人いるだけだった。
私たちは、水泳と釣魚で、日を暮らしたが、あの附近は、魚類が豊富で、釣りを知らぬ私にも、コチやヒラメが、よく掛った。ある日、そういう漁果を沢山持ち帰ると、大叔父は、
「今日は一つ、アライにして見るか」
と、息子の旧制高校生に、声をかけた。
私は、アライなんてものは、魚屋でなければ、製法を知らぬだろうと、思ったのに、彼等二人は、直ちに相談一決、井戸端へ行って、包丁を手にし始めた。
材料は、コチに黒鯛だったかと思うが、彼等は実に器用に、身をおろし、皮を剥ぎ、そして、刺身包丁で、そぎ身をつくった。
それだけの技倆でも、私には、驚嘆すべきことで、ことに、私より二つ年長の高校生が、父を凌ぐ腕前には、感嘆の外はなかった。東京の男の子は、そういうことには、まったく無能力だからである。
やがて、彼等は、大きなバケツへ、井戸水を汲み入れた。弁天島というところは、砂地に似合わず、水質がいいのだが、その頃は、冷蔵庫もなく、ものを冷やすのには、すべて井戸水を用いた。
そして、彼等は、長い竹箸で魚のソギ身を挿み、バケツの中の冷水で洗うような動作をすると、透明な身が、白く、チリチリと、縮れてきて、紛れもないアライになるのには、魔術を見せられた、気持だった。
その日の夕飯に、山盛りのアライと、魚のアラの味噌汁が出たが、非常にウマかった。生涯で食べたアライのうちで、あの時が一番ウマかったかも知れない。もっとも、腹もだいぶ空いてた。
とはいっても、私は、特にアライが好物、というわけではない。夏になって、最初のアライが、一番おいしいことを、考えると、味よりも、気分で食べるのだろう。魚屋は、氷片なぞを添え、見た眼の涼しさを、工夫するからだろう。ナマで食う魚の味としては、刺身の方が、優れてるようだが、それは、アライにならぬ魚にも、広汎に及んでるからだろう。
しかし、アライという料理法は、日本独特のものではないか。洋食でも、中国料理でも、アライという観念は、成立しないのではないか。日本でも、栄養学者のような人は、魚片をあんなに水で洗うことに、不賛成を唱えるかも知れない。でも、そんなことは、どうでもいいので、日本の風土のもとで、涼しげな、魚の生食法としたら、よいアイデアだと、考えられる。
スズキや黒鯛は、アライに好適だが、共に、夏の魚だからだろう。スズキは、海でも、大河でも獲れるが、利根川の下流のような、幅広い、水の豊かな河が、所を得てるような気がする。戦時中に、ある本屋の主人が、千葉県の小見川に住んでいて、度々、そこに招かれ、物資不足の折柄なのに、川の魚を沢山食べさせられ、うれしかった。その主人の家の庭から、青蘆を分けて、小舟を出すと、すぐ、茫洋たる利根の本流に出たが、その辺で、スズキがよく釣れるらしい。
スズキは、私の好む魚の一つで、アライばかりでなく、塩焼きにしても、ウシオにしても、結構である。また、ムニエールのようなものにしても、よく合う。外国人は、鯛よりも、スズキの風味を、喜ぶのではないか。
初夏の頃、小見川へ行って、食わされたものは、スズキの外に、鯉が多かった。鯉のシュンは、寒中かも知れないが、魚の感じからといって、夏でもいいような気がする。しかし、私は、鯉のアライというものを、それほど好きではない。柴又あたりの料亭へ行くと、鯉の生づくりというのを、自慢そうに出すが、魚が刺身にされても、まだ、ピクピク動いているようなものを、好んで食べる必要が、どこにあるのか。鮨屋へ行っても、オドリと称して、エビの身の動くのを、客は、大変、価値あるもののように、思ってる。昔の鮨屋は、あんなことをしなかったが、その方が、本筋だろう。
私は、鯉コクが好きで、よい鯉とよい味噌で、丁寧に料理されたそれは、天下の美味だと、思うことがある。まだ、学生時代に、信州を旅行したことがあるが、その頃の信州は、海の魚が不自由だったらしく、どの旅館に泊っても、料理はハンコで捺したように、鯉のアライ、鯉コク、そして、卵焼だった。その頃は、鯉の味なんてわからなかったから、ずいぶん困った。中年過ぎから、鯉コクが好きになり、今では、鯉の飴煮というような、甘ったるいものさえ、あれはあれで、味のあるものと、思うようになった。
私は、一体、川魚が好きな方かも、知れない。鮒は、それほど味を知らないが、アマゴとか、ヒガイとかいうものを、京都へ行って食べることは、大きな愉しみである。戦前に、秋の宇治へ行って、料亭で出されたヒガイのつけ焼きの味は、今でも、舌頭に生きてる。スッポンも、川魚のうちだろうが、これは何といっても、京都の大市が、卓越してる。あの店以上にウマいスッポンを食わせる店を、私は他に知らない。古いノレンを、よく守り続けたものである。しかし、これだけ世の中が変ってくると、守り続けるということは、大変、難事だろうと、推測される。料理法を堅く守っても、材料が変ってくれば、どうにもならない。実は、昨年、大市がマズくなったという人が、二、三、出てきた。私は悲しくなり、名城が焼けたように思ったが、マズくなったといった一人が、最近、また大市へ行って、
「大丈夫だ。やっぱり、ウマかった」
と、報告してくれたので、胸を撫で下した。
スッポンも夏のものと思ったが、いつか、大市のオヤジに聞いたところでは、そうではなかった。いつがシュンだか、忘れてしまったが、とにかく、夏ではなかった。
しかし、ドジョウというものがある。これも、夏がシュンとは、限らないようだが、私は盛夏になると、�駒形のどぜう�を食べに行かずに、いられなくなる。不思議なほど、牽引力を感じる。あの店も、青年時代からの馴染みだが、烈火の上に載せて鍋にしろ、ドジョウ汁にしろ、暑い時の食べ物とは思えないのに、汗を流しながら食べ、そして、大変ウマいと思う。
下煮をした、姿のままのドジョウを、鉄鍋でネギの薬味と共に、煮て食うだけで、何のヘンテツもない料理だが、なぜ、あのようにウマいのだろう。きっと、私がドジョウ好きなのだろうが、あの店へ行くと、一層ドジョウが好きになるのは、何かの前提があるのだろう。ドジョウなぞというものは、あの店構えと、ムードのもとに、食べるものなのだろう。スキヤ風の離れ座敷で、一人で、あの鍋に対ったところで、味は半減するのではないか。食べ物は、何でも、京都がウマいが、以前、川魚の専門店へ連れて行かれ、品のいい柳川鍋やドジョウ汁を、食べさせられたが、一向、ウマいとは思わなかった。
私も、子供の時は、ドジョウが嫌いで、飲酒を始めてから、その味を知ったのだが、その頃の�駒形のどぜう�は、実に安い店だった。五十銭銀貨一つ握って行くと、酒も、鍋も、汁も、飯も食えた。
しかし、昨今は、ドジョウも、贅沢品に近くなってきた。同量のウナギと、卸し値は、大差なくなったそうである。それでも品薄で、滅多に、うちの魚屋なぞ、持って来ない。
農薬のために、田圃に自生するドジョウが、激減したからというが、日本の食べ物に、しばしば、このような不幸な変動の起ることを、私は悲しく思う。
ドジョウなぞは、その形や、味からいって、当然、庶民の食べ物であり、事実、長い間�駒形どぜう�も、そういう人たちを、喜ばせてきた。あの店も、材料難から、高級料理店に出世したら、存在の価値を失うと、考えるが、東京湾のカニなぞは、すでに、稀少品となって、私たちの口に入らなくなった。カニなぞも、明治期には、貴人の食物ではなく、居酒屋のサカナだった。私は、明治から大正にかけ、大森に住んでたが、その頃、大井の立会川に、夏の夕方に、カニ舟が着いた。ほんとは、赤貝船で、カニは余禄なのだが、その舟へ買いに行くと、タダのように安かった。五銭か十銭を、風呂敷に包んで、舟の上に投げると、十疋ぐらいのカニを、渡してくれた。そのカニを、直ちに茹でて食べると、あれほどウマいものは、世に少かった。
カニでも、ドジョウでも、下賤の食物として庶民しか食べず、彼等のみが、そのウマさを知ってた。カニを煮た汁で、おカラを煎るなんてことは、横浜の石川あたりの細民の知恵だが、それは、非常にウマいものだった。江戸から明治にかけて、そういう社会的な公平な、美味の分配があったのを、私は面白いことに思う。金のある人だけが、ウマいものを占領する世の中は、面白くも、おかしくもない。安くて、ウマいものを、庶民のために残すことは、ほんとに革命を怖れる人の切に考えるべき問題である。