盆の仏壇に、キューリの馬、ナスの牛を供える風習は、ほとんど、見られなくなった。そのような乗物に、ホトケサマが乗って、冥途からお出でになる、という考え方だったのだろう。キューリにも、ナスにも、新しい箸を折って、突き差し、四肢になぞらえてあった。
そして、そのキューリも、ナスも、お盆の時が、初物ということになってた。明治期のわが家では、その時までは、キューリも、ナスも食べなかった。だから、キューリの緑、ナスの紫が、とても新鮮に、眼に映った。
そのキューリが、この頃は、冬でも食えるのである。べつに、ゼイタクというわけでもなく、どこの家の香の物をも、賑わせてる。その代り、夏のキューリに、新鮮感はなくなった。ホトケサマに初物をあげるという意味も、なくなった。
キューリなんてものは、水分が多く、色や匂いの点からも、夏の食物なのに、それを冬食べて、悪いとはいわないが、自分勝手をするのだから、それだけの代償を払うべきだと思う。勿論、時季に食うよりマズいにきまってるが、それだけでは足りない。一本千円ぐらいのペナルティを、課したらいい。促成栽培が進歩して、割合い安価に手に入るから、食味の乱脈が起るのである。江戸時代の名割烹の八百善で、珍しいものを食わせろという客に、冬にナスの香の物で茶漬を出し、小判何枚かを要求したそうだが、その時分、促成栽培があったか、疑問ではあっても、バカ高い勘定をとったのは、理屈に合ってる。
ナスの方は、促成といっても、加茂ナスの走りぐらいだろう。東京の人は、ナスを漬物として、賞味するが、煮物やシギ焼きのようなものだって、ずいぶんウマい。私は、ナスは美味の野菜と、思ってる。ジミで、奥深い味を感じる。精進料理で、ナスの塩漬の汁を、調味料として用いる話を聞いたが、案外の滋味に、富んでるのだろう。
促成栽培の禍いのない夏野菜に、冬瓜というものがある。あんな薄ボケた味は、若い人が好まないから、業者も骨折って、早く売り出さない。冬瓜だけはご免、という青年男女が、ずいぶん多い。
でも、そういったものでもない。あの無味さ——微かな苦さが、中年に達する頃から、イカすと思う時もくるだろう。薄葛の冬瓜で、静かに、酒を味わいたくもなるだろう。日本人は変り易く、また、一向に変らない人種でもある。
そして、そのキューリも、ナスも、お盆の時が、初物ということになってた。明治期のわが家では、その時までは、キューリも、ナスも食べなかった。だから、キューリの緑、ナスの紫が、とても新鮮に、眼に映った。
そのキューリが、この頃は、冬でも食えるのである。べつに、ゼイタクというわけでもなく、どこの家の香の物をも、賑わせてる。その代り、夏のキューリに、新鮮感はなくなった。ホトケサマに初物をあげるという意味も、なくなった。
キューリなんてものは、水分が多く、色や匂いの点からも、夏の食物なのに、それを冬食べて、悪いとはいわないが、自分勝手をするのだから、それだけの代償を払うべきだと思う。勿論、時季に食うよりマズいにきまってるが、それだけでは足りない。一本千円ぐらいのペナルティを、課したらいい。促成栽培が進歩して、割合い安価に手に入るから、食味の乱脈が起るのである。江戸時代の名割烹の八百善で、珍しいものを食わせろという客に、冬にナスの香の物で茶漬を出し、小判何枚かを要求したそうだが、その時分、促成栽培があったか、疑問ではあっても、バカ高い勘定をとったのは、理屈に合ってる。
ナスの方は、促成といっても、加茂ナスの走りぐらいだろう。東京の人は、ナスを漬物として、賞味するが、煮物やシギ焼きのようなものだって、ずいぶんウマい。私は、ナスは美味の野菜と、思ってる。ジミで、奥深い味を感じる。精進料理で、ナスの塩漬の汁を、調味料として用いる話を聞いたが、案外の滋味に、富んでるのだろう。
促成栽培の禍いのない夏野菜に、冬瓜というものがある。あんな薄ボケた味は、若い人が好まないから、業者も骨折って、早く売り出さない。冬瓜だけはご免、という青年男女が、ずいぶん多い。
でも、そういったものでもない。あの無味さ——微かな苦さが、中年に達する頃から、イカすと思う時もくるだろう。薄葛の冬瓜で、静かに、酒を味わいたくもなるだろう。日本人は変り易く、また、一向に変らない人種でもある。