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食味歳時記25

时间: 2020-04-20    进入日语论坛
核心提示:議  論02 しかし、むつかしく考えさえしなければ、ウマい料理も、優れた料理人も、厳然として、存在するのだし、それを愉しむ
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議  論02

 しかし、むつかしく考えさえしなければ、ウマい料理も、優れた料理人も、厳然として、存在するのだし、それを愉しむのは、生きる知恵の一つである。
その方の知恵にかけては、フランス人だの中国人は、優れてるから、料理に関する書物も多い。中国では、古くから、有名な本が、相当あるらしいが、フランスでは、ブリア・サヴァランの『味覚の生理学』(邦訳、『美味礼賛』)が、最も聞えてる。
題名の示す通り、『味覚の生理学』は、料理書というより、食い、味わうこと一般の学問的随想のようなものだが、人生の書としての一面も、持ってる。著者は、女性も食味の鑑賞家として認め、妻が良人と一緒に、食事の快楽を共にし共に語り、共に笑い、一つのテーブルから、やがて一つのベッドへ移行することを、幸福の典型としてる。東洋では、中国でも、日本でも、妻が食欲や味覚に耽ることを、望んでいない。料理人もしくは給仕人として、認められるのみである。
日本人は、フランス人や中国人のように、料理の優れた古典を持たぬのは、長い期間、国民が粗食に甘んじてたからだろう。徳川中期までは、権力者だけが美味を知ってたとしても、国民がほんとに食味に眼覚めたのは、明治に新文明が入ってからで、食生活も一変した。今の日本人は、世界に類例のないほど、食いしん坊となり、フランス人や中国人を凌ぐに至ったが、顧みれば、明治百年の歴史に過ぎない。
日露戦争直前に、村井弦斎の『食道楽』という小説が書かれ、ブームを起したが、私の母や姉が夢中になって、読んでたのを、目撃してる。私も当時この小説の一部分を覗いたことがあるが、筋は至って単純で、お登和さんという美人の令嬢が、結婚するだけのことだったと思うが、彼女は料理の名手で、小説の随所に食物の講釈と料理法が、明細に出てくる。従って少年の私にとって、何の興味もない小説だった。
しかし、昨年、私はこの小説の全巻を、入手することができた。正続八巻の厖大なる小説である。そして、幼時の記憶は誤らず、これは世界に珍しい、料理小説であり、これだけのものが、あの頃に書かれた事実に、驚嘆し、更めて、明治文化の実質を、考えたくなった。
勿論、文芸として感心するところは、一つもない。しかし、小説の形を以て書かれた料理書として見る時、その内容の豊富さ、知識の該博さに、驚嘆するのである。ことに、洋食に関する記載が多く、フランス料理を伝える場合に、フランス語の誤りは散見するけれど、本格的な紹介を忘れてない点は、遠い明治という時期を考え、驚くべきことである。それは、小説を書くために、著者が調べたというよりも、彼がすでに知り、経験し、実践したことを、織り込んだとしか、思えないのである。今の作家の行うような俄か勉強(私もよくそれをやったが)で、あの小説は、断じて書ける道理がないのである。
私は、村井弦斎という作家に、興味を持った。
当時は、尾崎紅葉を頭目とする、硯友社一派の文芸が全盛で、風流と恋愛が、小説の基調だったのに、料理小説を著わすなぞは、反逆的であり、どういう考えだったのか。食物や料理に興味を持ってたにしても、それを小説に結びつけるというのは、大胆で、独創的ではないか。文壇で甘やかされる作家には、そんな構想は、思いつかないだろう。きっと、主流派から冷遇されてた人にちがいない。
そして、私は日本文学大辞典によって、村井弦斎の経歴を知った。
彼は文久三年豊橋市に生れ、明治初年東京外国語学校露語科に学び、銀行員、煙草の行商人なぞを経て、明治十八年渡米。帰朝後は報知新聞に入り、小説『小猫』を書いた。やがて同紙の編集長となり長編『日の出島』を書き、非常な歓迎を受けた。『食道楽』はその後、報知新聞に掲載されたもので、三十九年「婦人世界」の編集顧問となり、同誌に料理法、医療法等の方面で、独自の研究を発表した。作風は芸術的香気に乏しく、当時の評論家より、嘲罵を受けたが、発行部数は、常に他の小説を圧倒していた。昭和二年、平塚に於て没。
以上で、村井弦斎の一半を知ったが、なるほど、風流文士の一生ではなかった。『日の出島』という代表作は、どういうものか知らないが、その視野や態度は、当時の文士と異っていたのではないか。
しかし、『食道楽』は、明らかに、奇書であり、珍小説であって、弦斎の名を、後世に残すだろう。私も『バナナ』という新聞小説を書き、食いしん坊の主人公を扱ったことがあるが、とても、『食道楽』のように、食物に終始することはできなかった。『食道楽』は、胃と腸との問答から始まり、食べるということの生理や戒めを説きながら、大食漢の人物を登場させてる。そして、巻末には、日用食品の分析表とか、小説中に書いた料理法の索引とか、台所の手帳という空欄のぺージまで、附いてる。最初から、文学的作品を書く所存は、なかったらしい。
そして、南京豆の汁粉の料理法が、紹介されるのだが、その中に牛乳を入れるなんて工夫は、どこから仕入れてきたものか。その他、明治三十年代では、まだ普及しなかった豚肉料理の美味と栄養を説き、東坡肉のような中国料理法も、詳細に書いてある。
著者の態度は、明らかに、啓蒙的であり、従来の食生活の欠陥を補い、新しい材料と新しい味の鼓吹に、努めてる。洋食や中国料理に、力点が置かれたのも、当然だろう。
当時の日本人は、食物の上にも、新文明をとり入れんとする要求が、かなり昂まっていたところへ、この大長編が現われたのだから、ことに女性の読者が、いかに喜んだか、想像にあまる。『食道楽』によって、日本の家庭料理は、相当の影響を受けたろう。恋愛小説と比較して、その効用や如何?
そして、その料理を伝える人は、常に美人で名料理人のお登和さんであり、こんな女房を持ったらと、男性の読者も、垂涎したろう。
大正期に、神田の学生街に、おとわ亭という洋食屋があった。無論、お登和さんの名を用いたのだが、べつにウマい洋食を食わせる店ではなく、ただ、安いのが看板だった。カツレツでも、シチュウでも、八銭ぐらいだった。その頃、三田の学生だった私は、ただ安いがために、神田へ出張して、おとわ亭の料理を飽食したが、『食道楽』の余勢は、まだ、その時まで続いていた、証拠になる。
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